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海の嵐

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海と嵐と消えた船 4

 海は突然凪いだかのように静まり返っている。

「うーんこのぐらいの天気だとちょうどいいんだけどなぁ」

 ぼんやりとぼやくフィシェリに、シャイロックは「早く帰ってきてくださいね」と声をかける。
 ごつごつとした岩場の上、それほど大きな島ではない。今は難破船が集まっているため、やけに大きく見えるが、島の面積で言えばもっと小さいはずだ。ただ水面下に隠れている部分はかなり多いとフィシェリは見ていた。この島の近くか、はたまたこの島そのものに洞窟のようなところがあって、セイレーンはそこにいるという確信がフィシェリにはある。
 フィシェリは海との付き合いが長い。海辺で生まれて、シャイロックと共に海の見える町で育ち、そして海と共に生きてきた。そもそもフィシェリの母は人魚である。人間の父と人魚の母から生まれたフィシェリは、人魚のハーフであり、海もしくは水辺という環境はフィシェリにとっては切っても切り離せないものだったのだ。今では絶滅したと言われる人魚たちは、実は湖や海の底深くで今もひっそりと生きている。ただ、人間の前に姿を現さなくなっただけなのだ。そんな人魚だった母は、遭難した船に乗っていた人間の父に一目惚れし、魔法を使って人間に成りすまし結婚したという。その後人魚だとわかって、ひと悶着あったそうだが、母と父の愛に変化はなく、二人は仲睦まじく暮らしたそうだ。
 そのような中でフィシェリは生を得た。父は病気で早くに亡くなった。子供を抱えた母は偶然にもシャイロックの両親に拾われ、メイドとして雇われることとなった。フィシェリとシャイロックの付き合いはここから始まるのだ。人魚であった母は魔法を使えたので、魔法使いであったフィシェリとシャイロックに魔法の使い方を教えた。そしてフィシェリが十八を迎えた日、母は父のもとへ行くのだ、と言って帰らぬ人となった。フィシェリはシャイロックと共に幼少期を過ごし、シャイロックの実の父と母には本当の息子のように育てられ、愛情をたっぷりと受けて、まっすぐに育つことになる。母がいなくなったことについては、いくばくかの寂しさを覚えつつも、シャイロックというこれから先ずっと長いこと付き合うことになる友人であり、相棒であり、そして片割れがいたことで耐えられた。
 シャイロックは長らく、自らを育んだ家を見守ることを選んだ。その間、フィシェリは様々な国に旅に出て、たまに帰ってはシャイロックに旅の話を聞かせた。いつか一緒に行こうと、魔法の箒があればひとっとびだと言って誘ったが、シャイロックは自らの生まれた場所にこだわった。
 そんなわけで、フィシェリはシャイロックが自らの酒場を持つまで、旅をしてはシャイロックに旅の話を聞かせる生活が続いた。そしてシャイロックが酒場を経営するようになってからは、従業員となってシャイロックを支える道を選んだのだ。
 シャイロックとフィシェリの絆は深い。お互い心配はあろうが、「任せて」と言ったのならば、やり遂げる。シャイロックとムルとの間の関係とはまた一味違う関係が二人の間には築かれていた。
 風のない海はほんの少し不気味だ。岸に寄るべなく寄せる波もいつもと比べて少しばかり寂しそうで、耳に奏でるぴちゃぴちゃという音も控えめである。
 フィシェリはベストを脱いで腕まくりをし、フルートを手に取る。ムルはいつもの恰好で行くようだ。

「箒は?」
「海の中では邪魔になるよ、そのまま潜ろう」
「オッケー!」

 ムルはにこっと笑って言った。

「私の魔法が届くのは、精々私から離れて数十メートルといったところです。それ以上になりますと魔法の効果が薄れますので」
「了解、そこは任せて、シャイロックの魔法の効果が切れたらあとは僕が引き継ぐよ。さて行こうかムル」

 フィシェリとムルはくるぶし程度の深さまで歩いていく。体温より低い海水は、足にしがみついてくるような冷たさを感じさせた。

「"インヴィーベル"」

 シャイロックが背後で呪文を唱えるのが聞こえる。それと同時に煙がフィシェリとムルの体の周りを取り巻いた。煙はふわふわとつかみどころがなく、しかし二人の周りから移動することはない。この煙が口や鼻から入り込んで、感覚を支配するのだ。今回はセイレーンの歌による五感の支配を妨げてくれる役目を持つ。加えてフィシェリのフルートは耳から入り込んで感覚を支配する。
 これはセイレーンとシャイロックとフィシェリの感覚を巡る戦いだ。セイレーンの歌に感覚を支配されればフィシェリとシャイロックの負け。セイレーンの歌に打ち勝てば、二人の勝ち。この勝負にはムルの命もかかっている。少しばかり緊張しながら、フィシェリはフルートの歌口に唇を当てて、ふー、と息を吹き込んだのだった。
 シャイロックの甘い煙が二人を体を取り巻いた。それと同時にシャイロックの魔法によって空気の膜が体の周りを覆うのがわかる。足首に触れていた水の感覚がなくなって、体はどこかにふわふわと浮いているような感じだ。フィシェリとムルはそのままざぶざぶと水の中へと足を進めた。
 フィシェリの軽やかなフルートの音色が響き渡る。セイレーンは餌の匂いをもう嗅ぎつけたはずだ。海の中に入ればフルートの音色は減衰するが、それでも隣にいるムルの距離までなら十分届くはずである。
 フィシェリはムルに目配せして、二人同時に水の中に頭を沈めた。シャイロックが作った空気の膜のおかげで呼吸もでき、視界も良好だ。海の中は色とりどりの海藻と珊瑚に覆われ、鮮やかな魚たちが泳ぎ回っている。その様はさながら、春夏秋冬の花々を一気に芽吹かせたような鮮やかさがあった。南の国はこんな風景がいたるところで見られるのだ、とルチルが以前話していたような気がする。逆に北の国では見られない。あそこは灰色と白に覆われた静かな国だ、といつかどこかでミスラがぼやいていた気がする。西の国は南の国と北の国の間にある。それゆえに、両国のいいとこどりをしたような風景をあちこちで見ることができた。この目を奪われる風景もその一つだ。
 だがこれに目を奪われていてはいけない。フィシェリはフルートにかけた手に力を込めて、息を強く吹き込む。セイレーンの歌は頭に直接響いている。うっかりすればふと手のひらからフルートがこぼれそうになるぐらいには強力で可憐で繊細な歌だった。隣にいるムルは海の中を自由に動き回りながらも顔をしかめている。フルートの音色を彼に届けなければ、と思って力むと変な音が出る。それではだめだ。セイレーンの歌に拮抗するにはそれと同じくらい美しい曲でなければ。どうしようかな、とフィシェリは一瞬思い悩んだ。何も考えずに吹くなら、手に馴染んだ曲が良い、ならば「海の嵐」にしようと決める。フルートの独奏曲はフィシェリがフルートの吹き方を覚えてからこの方、気が向けばずっと吹いている、体が覚えている曲だ。
 息を吹き込んで、あとは体が覚えているままに演奏する。あまり離れないで、とムルに目配せして、二人は海の深く深くへと潜って行った。
 この辺りは岩礁が複雑に入り組み浅瀬もあれば深い部分もある。今は深い部分を選んで潜っている。
 しばらく潜っていると届く光が減衰し、あたりは暗くなってきた。ここまで潜ってくると見える魚たちや珊瑚の種類も変わってくる。興味深いなと思いつつ、シャイロックの煙が徐々に晴れていくのを見て時間がないことを二人は知る。

「"エアニュー・ランブル"」

 ムルの呪文が水を通してどこか遠くに聞こえてきた。ムルが呪文を唱えた途端、光球が現れぱっと世界を明るく照らし出した。二人はその瞬間に、目の前に現れた洞窟を見逃すことはなかった。
 フィシェリとムルはお互いに目配せして、水を足で強く蹴り、洞窟の中へと入っていく。二人の先を進む光球が、複雑に入り組んだ海底洞窟を照らし出していた。複雑、といっても岩の柱が乱立しているだけで、道は一本だ。帰りに迷うことはないだろう。やがて光球は真上に進み始める。どうやらフィシェリの推測は当たっていたようだ。ここはシャイロックがいる島のほぼ真下に当たる位置だろう。
 水面が見える。どうやら空気があるようだ。二人が水面に顔を出すと同時に二人を包んでいた空気の膜はパンッとシャボン玉が弾けるように弾んで消えた。
 セイレーンの歌声はますます強く清廉になっていく。ムルは普段あまり見ない嫌な顔をして、耳を両手でふさいでいる。フィシェリはそんな歌声に対抗するようにより力強く、かつ繊細にフルートの音色を響かせる。
 フィシェリとムルは二人並んで洞窟の中を進んでいく。湿った空気に、嫌な臭いが混じっている。これは、鉄さびの臭いか、何かが腐っているかのような臭いだ。洞窟の中に蔓延した臭いは吐き気を催すほどに強く嗅覚を刺激した。この臭いはおそらくは、と考えたところでカツン、とフィシェリの靴先に当たるものがある。なんだろうと思ってちらりと見るが、先頭を進む光球の明かりはどんどんと遠のくばかり、白っぽい何かであることは分かったがそれが何かまでははっきりとわからなかった。
 光球に続きムルが、そしてその後をフルートを奏でながらフィシェリが進む。あちらこちらで水たまりができていた。ぴちょん、ぽちょん、と洞窟の中に水が滴り落ちる音が響き渡る。それがまるで音楽の一つのようで、セイレーンの歌と相まって、ひどく美しい音色を奏でていた。フィシェリも少し力むのをやめて、自然の音色に音を添わせてみる。すると不思議なことにセイレーンの歌を打ち消すような美しい音色がフルートからあふれ出した。フィシェリもこれには驚いた。曲調が変わったことにムルも気づいたのだろう。耳を抑えていた両手をぱっと外して、スキップをしながら、光球のあとを追いかける。この足場の悪い中でスキップをするムルの技術はなかなかのものだった。
 やがて洞窟は行き止まりとなる。行き止まりの洞窟の中にできた空洞は大きく、あの小島の下にこれほど大きな空間が広がっているなど、実際に見てみない限り誰も想像すらできないだろう。鍾乳石がいくつも天井からぶら下がり、石筍(せきじゅん)はそこかしこで芽を出している。立派な鍾乳洞だ。セイレーンさえいなければ、観光地にもなれただろう。そこは大きなコンサートホールのように音がよく響いていた。
 光球がくるくると渦巻いて登っていき、ちょうど真上にたどり着くとぽん、と弾けて消えた。そしていくつもに別れた光球が、巨大な空間を照らし出す。セイレーンの歌はいつの間にか止んでいた。
 ここがコンサートホールなら、白い何かが積み上がりその上に女が座っているのはステージだ。
 白い何か……それはまだ肉のついた骨だった。あちらこちらに飛び散った骨。骨には食い残しがいくつもあり、それが腐食しコンサートホールの中にひどい臭いをまき散らしているのだ。骸骨を積み上げたステージの上で、女が一人、くちゃり、くちゃりと音を立てながら肉をかじっている。
 下半身は魚、上半身は人間であるところは人魚と同じだ。だが頭部にはぎらぎらと鋭い牙がむき出しになっており、その表情は獲物を見つけた肉食獣のそれだった。たゆたう髪は美しい、しかしそれは獲物を引き寄せる罠だ。魚の下半身では鱗がきらきらと輝きを放っていた。光球の輝きによって色が変わる様は思わず見とれてしまう、だがその鱗に一点、二点と血がしたたり落ちる。それは美しさと暴力が同居したひどく陰鬱な景色だった。
 セイレーンのおどろおどろしい牙の生えた口から吐き出される息は腐臭にまみれていた。しかしその喉から奏でられる歌は何よりも美しい物だった。シャイロックの煙の効果はほとんど消えている。フィシェリはフルートを構えて力強く息を吹き込みセイレーンの歌に対抗するように音色を奏でた。それを両方の耳から聞くムルは頭の中がしっちゃかめっちゃかになっているのだろう。しゃがみこんで耳を抑えてしばらく、ふいに立ち上がると大きな声で「"エアニュー・ランブル"!」と叫んだ、その瞬間、周囲を漂っていた光球が大爆発を起こした。
 セイレーンの歌も、フィシェリのフルートもかき消すほどの爆発音は、洞窟の中で木霊し、幾重にも重なってとてつもない音量をこの空間全体に響かせていた。フィシェリは一瞬耳がキーンとなって無音の世界へ放り出される。何も聞こえない。何も感じない。頭の中で『感じる』という感覚がキャパオーバーしてしまったかのような状態だ。目も鼻も麻痺してしまったかのように何も感じない。何が起こっているのか、フィシェリは気づけばその場に座り込んでいることに気づいた。フルートからは手が離れ、ズボンは岩の合間に溜まった水でびしょびしょになっている。ぽかんとその場に座って、ようやっと自分たちがなぜここに来たのかを思い出したときには、すでにムルの大胆な芸術作品が出来上がっていたのだった。骨の山の上に作られた巨大な氷柱。その真ん中にセイレーンが苦悶の表情を浮かべて取り込まれている。

「ねぇねぇこのままかき氷にしたら、俺たちも船員を食べたことになるのかな? 船員を食べたセイレーンをさらに食べてみちゃう」
「ええ……僕は嫌だよ……」
「んー、じゃあ割っちゃおうか」
「それがいいんじゃない。話し合いができるタイプにも見えないし、そもそもこれだけ人を喰ったわけだし……セイレーンを裁判にかけることができるのかわからないしね」

 フィシェリは濡れたズボンから水分を抜き取りながら、氷柱を見上げた。巨大なコンサートホールを貫くようにできた氷柱はなかなか壮観だ。だが中に閉じ込められているのが何人もの人を喰ったセイレーンというのはいただけない。フィシェリは首を横に振って、早く終わらせようと言った。
 ムルは少し残念そうだった。彼のことだからまた何か研究したいとでも言い出すのだろうか、とフィシェリは身構えたが、結局ムルの口からその類の言葉が発せられることはなかった。
 ぴしりと氷柱にひびがはいる。そのひびは次のひびを呼び、ひびが重なり、そして体の芯まで凍結しているセイレーンに到達する。ぱきんと軽い音と共に、氷柱は中央から真っ二つに折れた。セイレーンを抱えた氷柱は、上下に割れて、地面に落ち砕け散る。中に封じ込められたセイレーンもまた同様に折れて、割れてしまった。わずかに溶けた血がぽつり、ぽつりと骨を濡らした。
 これでもうセイレーンの被害にあう者はいないだろう。だがここにある遺骨を放置していくわけにはいかない。好き好んで持ち歩きたいものではなかったが、フィシェリとムルは魔法で遺骨を全て集めると浮かせて、そして再び水の中に潜った。もう何も恐れる必要はないので球状の空気の膜を自分たちの周りに張り巡らして、箒に乗ると海の中をあっという間に進んでいく。勿論遺骨も含めて、だ。
 海から上がるとシャイロックが島の中央で煙をふかしているのが見えた。とん、とん、とんと足で拍子をとっている。普段の彼ならあまりしないその行動に、シャイロックなりの焦燥感が見えた。

フィシェリ、ムル」
「やっほー終わったよシャイロック」
「シャイロック聞いて聞いて! 海の底のセイレーンの話!」
「聞いてますよ、ムル。それより今は先にその遺骨をどうにかするのが先でしょう」

 シャイロックは飛びついてくるムルを抑えて、フィシェリが魔法でぶら下げている大量の遺骨を指さした。

「このまま持っていってもいいですが、大騒ぎになります。ですので私が先に行って警備団の方と話をつけてきますので、フィシェリはその遺骨を隠して、ゆっくりと追いついてきてください」
「はーい」

 シャイロックはそう言うと、箒に乗ってあっという間に空のかなたへと消えて行った。ここから西の国の一番近い港まで、さほど長い距離ではない。シャイロックの箒の速度であれば、一時間もすればついてしまうだろう。さてフィシェリはシャイロックに言われた通り、遺骨を人目につかぬように隠して、つまり視線除けの魔法を施して、箒にぶら下げると、のんびりと港へ箒を進める。ムルは途中までは一緒だったのだが、突然蝶々を見つけて追いかけて行ってしまった。この分だと当分は戻ってこないだろう。メインはまだこれからだというのに。フィシェリがフルートに息を吹き込むと、音の代わりに光る蝶々のようなものがあふれ出す。

「ムルに伝えておいで。早めに帰ってくるようにってね!」

 フィシェリがそう告げると、光る蝶はぱたぱたと羽ばたいてムルを追いかけて行った。それを確認してからフィシェリは箒を飛ばす。空は澄み渡り、かすかに顔に感じる風が気持ちよく、海辺でのんびりと過ごすには絶好の日だった。遺骨を抱えていなければフィシェリは今にでも海に飛び込んで泳いでいただろう。今はそれはいただけない。シャイロックはそろそろ港町についたころ合いだろうか、西の国の警備団を呼び集めて、事情を説明し遺骨を引き渡したら、フィシェリ達魔法使いの仕事はおしまいだ。あとは警備団がなんとかしてくれるだろう。何せ元凶のセイレーンはもういない。あの小島に近づいてももう危険はない。あの洞窟は悪くない空間だったが、調査の手が入るならフィシェリだけのものにはできない。それならあまり興味はなかった。
 そんなことを考えながらのんびりと飛んでいると、霞んだ水平線に船の帆が見えてくる。それとほとんど同時に港が見えてきて、箒に乗ったシャイロックがこちらに手を振っているのが見えた。フィシェリも手を振り返すと、少し箒の速度を上げて、港に集まった警備団のところへと近づいていく。興味深げに町の人たちがこちらを見ていたが、警備団が頑強な壁を築いているため、そう簡単に事情はわからないだろう。いきなり遺骨を山のように見せられれば誰でも動揺はする。その動揺を町に広げるのは、少なくとも「今」ではないだろう。
 シャイロックが少し場所を開けるよう告げると、集まっていた警備団の人たちの中に輪ができる。そこに降り立つように箒の高さを落とし、パチンと指を鳴らすと、がらりと大量の骸骨が山と鳴って現れた。それと同時に隠されていた腐臭も漂い始める。骨からこそげ落とされなかった肉が腐っているのだ。警備団は皆一様に顔をしかめ、鼻をつまんだ。だがすぐに団長の号令で、遺骨を拾い集め始める。丁重に一つ一つ、どれが誰の物か、運が良ければわかるかもしれない。骨の中には装飾品の部分だけ残っているものもあったので、それで誰かわかるだろう。だがほとんどの遺骨は共同墓地に埋葬されるに違いなかった。西の国の者だけでなく他国から遠路はるばるやってきた船の乗組員もいただろう。それらを判別するすべは、ない。
 シャイロックとフィシェリは団長から簡単な聞き取り調査を受けた。今回すべての事情を知っているのはフィシェリなので、フィシェリがセイレーンが小島に住み着いていたこと、そこで人を寄せて食っていたこと、セイレーンは退治したのでもうあの海域を通っても問題ないことを説明すると、団長は目に見えてほっとした表情をした。西の国の警備団も、今回の事件には頭を悩ませていたのだろう。何せ調査に出した船もそのまま消えてしまうのだから。賢者の魔法使いに話がいくのも時間の問題だったのだ。それが予期せぬ形で解決することになって、団長としても胸のつかえがとれたに違いなかった。
 フィシェリは思っていたよりもずっと早く解放された。遺骨を布で包んだ警備団の面々はフィシェリとシャイロックを遠巻きに眺めながら、お辞儀をしたり視線だけで礼をして去っていく。
 西の国は魔法科学技術が発展している。そのせいもあってか、魔法使いと魔法使いでない一般の人々との間の差別、と言えばいいのか、そういったものは薄かった。魔法使いが身近な存在だった、と言い換えてもよい。今回の件も魔法使いが勝手に動いたことに関してとやかく言われることはないだろう。
 警備団が去ってしまえば、あとは日常が待っているだけだ。町の人たちは何があったのか聞きたがったが、その輪からするりと抜け出してフィシェリとシャイロックは自分たちに馴染みのある港町へ帰っていった。そこにはすでにムルがいた。

「蝶々を追いかけていたら新しい光る蝶がやってきて、しかも喋った! 初めは新しい蝶かと思ったけど、フィシェリの魔法の名残があったから、追いかけたらこの港に着いた!」
「それはそれは、予想通りだね。それじゃあメインイベントとしゃれこもうか」
「メインイベント?」
「えっ、だって僕のマナエリアに行くっていうのが、今回のイベントだろう」

 ムルはすっかり忘れていたようだ。フィシェリが首をかしげて説明すれば今まで忘れていたのか、ぱっと顔を明るくする。

「行こう行こう! フィシェリのマナエリア!」
「それじゃあ船を借りてこようか」
「箒じゃダメなの?」
「あそこは船で行くからいいんだよ。箒で飛んだっていいけど面白味がないからね」
「ふぅん」

 ムルが手を広げると、握られていた箒がぱっと消える。
 フィシェリはそんなムルを見ながら、しばらく港をうろうろして、手ごろな手漕ぎの船を見つけて近くにいる漁師と交渉を始める。

「おじさーん、舟一つ貸して! そう! 一日! 手漕ぎのやつで」
「ふぅんこっちのじゃなくていいのかい」

 男が指さしたのは、最新の魔法科学技術で作られたいわゆるモーターボートがある。フィシェリは首を横に振る。

「手漕ぎじゃないとね。そう遠くへ行くわけじゃないんだ」
「そうかい、まぁいいけどよ」

 男に一日分の貸し出し料を支払って、シャイロックとムルを急かした。

「ほら、早く早く」

 ムルはあっという間に舟に乗り込んでゆらゆらと揺れるのを楽しんでいる。シャイロックは少し戸惑っていたようだが、しぶしぶという表情でおそるおそる船に乗り込んだ。

「ムル、あまり暴れないで」
「あははそれは言っても無駄だね、さぁいくよ、ムルも座らないと落ちちゃうぞ」
「舟から落ちちゃう、それってどんな気分?」
「そうだなぁ、とてつもなくみじめかな。特にこんな無風の日に落ちたときちゃ」

 フィシェリは笑いながら答えた。シャイロックは無言で、舟のへりをしっかりと掴んでいる。
 フィシェリが漕ぐ舟はあっという間に港を出て、海水浴場を左手に見ながら岩礁域へと進んでいく。ここいらは大型船はほとんど近づかない場所だ。何せ岩礁が入り組み浅瀬ときている、大型船ではどうしても底をこすってしまう。それにこの辺はこれといってめぼしい物もない。あるといえば岩が波で削られてできた洞窟ばかりで、子供たちの遊び場にはなるものの、舟で来ようという酔狂な者はほとんどいないのだ。
 フィシェリは器用に岩を避けて、そして小さな入り口の洞窟の前まで来ると櫂をボートの上に引き上げると、腕まくりをしてぴょんと海の中に飛び込んだ。

「潜るの?」
「二人はそのままでいいよ、ここから先は難しくてね」

 フィシェリはバタ足で舟を押していく。泳ぎ方にコツがあるのか、動力はフィシェリだけだというのに舟は妙に素早く岩礁の間を進んでいく。

「二人とも頭下げて、そう舟にへばりつくぐらい」

 そして洞窟の入り口に着くと、フィシェリはムルとシャイロックにそう指示した。二人はさっと頭を下げつつ上を見る。
 舟は洞窟の中へと入って行った。そして体を起こしていいよ、と言う頃には、ムルとシャイロックは光の反射で真っ青に染め上がった美しい洞窟の中に居た。

「わーお」
「どう? 綺麗だろ。ここが僕のマナエリア。普通は泳いでくるんだ。舟も入るか入らないかぎりぎりかと思ったけどわりと余裕で入ってよかったよ」
「すごい!」

 ムルが立ち上がった瞬間、舟はバランスを失った。

「ムル!」

 シャイロックが咎めるように叫ぶが、それも半ば悲鳴に紛れて消えてしまう。
 ぼちゃん、と海に落ちる音が二つ。舟は見事にひっくり返って、ぼごぼごと泡を吐きながら沈み始めた。フィシェリが慌てて魔法を使って舟をひっくり返すも、落ちた二人は戻ってこない。ムルは遊んでいるに違いなかった。水中にも美しい青が広がるこの空間は、いつ見ても本当に美しいのだ。十中八九ムルは光の反射でできるこの空間に興味津々になっている。だがシャイロックは__
 フィシェリは大きく息を吸い込むと、ジャボン、と水の中に体を沈める。水中は透き通っており、またさほど深くないため、余裕を持って周りを見回すことができる。ぐるりと水中の中で体を回すと、フィシェリの長い、海の色をした髪の毛が、まるでリボンのようにフィシェリの体を取り巻いた。
 いた。
 シャイロックが何の抵抗もせず、口からわずかな空気を吐き出しながら沈んでいる。
 フィシェリは思い切り水を蹴って、あっという間にシャイロックのそばに行くと、腕をつかみ、今度は洞窟の底を蹴って水面へと向かう。ムルはすでに水面に顔を出して舟にしがみついてぐるぐると周りを見回している。そこへフィシェリとシャイロックが顔を出した。
 ごほごほと咳をするシャイロックの背中をフィシェリがさする。シャイロックはムルをじとりとにらみつけた。

「ですから暴れないで、と」
「シャイロックは泳げないの? 初めて知った!」
「ええ、教える必要もありませんでしたので」
フィシェリは知ってた」
「まぁね。シャイロックは昔から金づち。初めて知ったのは僕が……」
フィシェリ

 じろりとシャイロックから睨まれた。

「わかったわかった、これは秘密ね。まぁ秘密って言っても知られたわけだけど」

 と言いながらフィシェリはシャイロックを抱えたまますいー、と泳いで洞窟の奥の壁に寄ると呪文を唱えた。その途端シャイロックの足元に確かな足場ができる。だがそれでも水が怖いのか、シャイロックはフィシェリの手を放そうとしない。

「大丈夫だよシャイロック、ほらしっかり立って」
「でも」
「階段を上るように、そう、そうして岩に座って煙でもふかせばいつも通り、だろ」

 岩棚には張り出したような突起がいくつもあった。それは座るには十分な広さがあって、シャイロックはそこに座るとようやっと息がつけたのか、ほっと溜息を吐く。煙管を取り出して、そして煙管がたっぷりと水をたたえているのを見て顔をしかめた。ひっくり返すとドバッと水があふれてシャイロックのズボンを濡らす。

「"インヴィーベル」

 シャイロックの薄い唇がそう呟くと、シャイロックにまとわりついていた水が宙に浮かぶ水球に吸い込まれるように集まっていく。そうして一分もしないうちにシャイロックの体はすっかり乾いてしまった。塩水に濡れた髪の毛はごわごわとして居心地は悪いだろうが、こればかりは我慢してもらうしかない。髪の毛に染み付いた水ならともかくこびりついた塩をすべて取り除くのはなかなかに難易度が高い。
 フィシェリとムルは濡れることも髪の毛がごわごわとして気持ち悪いことも気にしなかったので、洞窟の中でばしゃばしゃを水を跳ね散らかしながら泳ぎ回っている。それをシャイロックがあまり面白くなさそうに棚の上から見ている。

「どう? ここが僕のマナエリア。一般人には普通には入れない秘密の洞窟。僕はね、いくつかこういう洞窟を知っているんだ」
「水に光が反射して綺麗! こんなに入り口が狭いのになぜかな? フィシェリの他の洞窟もみんなこうなの?」
「まぁ……そうだね入り口が狭いっていうのはみんな共通。僕がここに入るときには基本的に一人で、泳いで入るんだ。舟ではあんまりいかないのさ。潮流と岩の位置を知っていないと座礁するからね」

 ムルは立泳ぎをしながら、うーん、と考える素ぶりをした。

「でもいつか魔法科学技術が発展したらここも見つかっちゃう! そうしたらフィシェリはどうするの?」
「そうだなぁ……そうしたらもっと海の深い誰も到達できないようなところにまた洞窟を見つけるしかないかもね」

 シャイロックのマナエリアと違って僕のマナエリアは自然が売りだからさ、とフィシェリは少し寂し気に言う。
 ムルの言う通り、今はまだ魔法使いにしか到達できないこの洞窟も、魔法科学技術の発展と共にいずれは人間に見つかって観光スポットになってしまうだろう。フィシェリが知っている他の洞窟もそうだ。そうなったらフィシェリは行き場をなくす。それでも自然の、海の中にマナエリアを探してしまうのは、フィシェリの中の人魚が、海に帰りたいと思っているからかもしれなかった。それは特に根拠のない理由だったが、仮にここがフィシェリだけのものでなくなったとしてもフィシェリはここへ来るだろう。まだフィシェリが若い頃、ここを初めて見つけたときは心が躍った。人魚しかやってこれないような秘密の洞窟、光が反射し、洞窟全体が青く輝く誰も知らない洞窟。そんな感慨にふけっていると、シャイロックが「そろそろ帰りませんか」と言った。シャイロックはとにかく水辺が嫌なのだ。プールぐらいならいいが、海は底知れぬ恐怖があるという。人魚のハーフであるフィシェリにとっては、海は魅惑に満ちた世界であるが、泳げないシャイロックにとっては恐怖の塊でしかない。
 そうだ、いつかシャイロックにも泳ぎを教えてあげよう、とフィシェリは思う。それは途方もない大事業になりそうな予感を孕んでいたが、一緒に泳いでこの洞窟に来ることができたら、それはきっと楽しいに違いない。
 舟をシャイロックの座っている岩棚に近づけて、舟に乗るよう促す。シャイロックは恐る恐るといった様子で舟に足をつけて、恐る恐る舟に座った。

「体が硬いと余計揺れるよ、波に体を任せるんだ。舟の揺れは波の揺れ、それに慣れれば舟の上でもバランスをとれるようになるから」
「無理です」

 シャイロックのそんな真顔は久しぶりに見たな、とフィシェリは思いながら、魔法で舟を固定する。そうするとシャイロックの表情も幾分和らいだ気がした。

「ムル」
「俺も泳いで出る!」
「無理だよ、ムルは泳ぐのは上手だけど、波が激しいこの洞窟の入り口で岩にぶつからないように泳ぐのは難しいんだ。ほらほら舟に乗って。でないとシャイロックが舟を動かして一人で帰りそうだから」

 ムルはしぶしぶといった表情だが、それでも舟に乗った。フィシェリが魔法を解くと、舟は再びゆらりゆらりと波に揺られるようになる。シャイロックの体がこわばるのがわかったが、こればかりはどうしようもない。
 フィシェリは舟を押して洞窟から出る。
 きらりと太陽の日差しが輝いて三人の視界を突き刺した。
 岩の間を、器用に避けながら進んでいく。やがて岩礁域を出ると、フィシェリはこれまた器用に舟の上に乗り上がった。海の中から舟に上がるには少々コツがいるのだが、フィシェリにとっては大した技術ではない。そして舟の上に置いておいた櫂を手に取って、ざぶざぶと漕ぎ始めれば、舟はすいすいと海の上を走っていく。洞窟の入り口はあっという間に小さくなって、もうここからでは入り口があるのかどうかもわからない。
 
 また来るよ。きっと近いうちに。それまでは静かに眠っていてね。

 フィシェリの小さな呟きは、波の音に消されて誰に届くこともなかった。

20210901


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