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海の嵐

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海と嵐と消えた船 3

 その日はよく晴れ渡り、霧もなく水平線まで海をよく見渡せた。明るい日差しがさんさんと輝き雲もない青い空。水平線で空と海がくっついて境界線があやふやになっている。海の上で船を走らせるには絶好の日和だ。
 そんな海の上を、かなりの速度で移動する箒が三本、いや箒にまたがった魔法使いが三人いた。
 シャイロック、ムル、フィシェリの三人は昨晩は早くに店を閉め、早々に寝床に着くと、次の日は朝早くから起きて早速船が座礁しているという小島に向かうことにしたのだった。魔法使いまで行方不明になるとはただ事ではない。西の国で海の物流が止まってしまうのは、酒場を開いているシャイロックには見逃せない問題だった。<大いなる厄災>の影響か、はたまた何か違うものが出てくるのか、まだわからなかった。しかし賢者も口にしていたことなら早晩、シャイロックとムルに話が来るのはわかっていたので、それならばさっさと片付けてしまおうというのもこの厄介そうな問題解決を引き受けた理由の一つだ。
 まだあくびをしながら目をこすっているムル。結構な速度で移動しているのにも関わらず呑気にフルートを吹いているフィシェリ。箒にまたがるのではなく横に座って煙をふかしているシャイロック。三者三様の三人は徐々に、その噂の小島に近づいていた。
 ここいらにはいくつも島が連なっている。船の難所と呼ばれるところだが、西の国にやってくる船の船長は皆手練れだ。よっぽどのことがない限り座礁することはないが……三人にはその噂となっている小島がすぐにわかった。海流の関係で小島には山のように座礁した船が集まっていたのだ。いや人がいなくなって座礁してしまったというべきなのかもしれなかった。ともかく山のように集まった船は上から見る限りどれもしんと静まり返っていて、不気味な雰囲気を醸し出していた。本来なら人がいるべきはずのところに人がいない。それは放課後の学校のようで、定時退社後の会社のようで、不気味さと同時にどこか物足りない感覚があった。
 小島に降り立つと、ひとまずはぐるりと周りを見回してみる。船は四方八方から島に乗り上げており、そのどれもが底を損傷していた。これでは船を引き上げたとしてももう二度と使い物にはならないだろう。いや一度こんな事件に巻き込まれて座礁した船を使いたがるもの好きがいるかは問題だ。

「さて、どうしようか」

 フィシェリが靴でとんとんと地面をたたきながら言うと、シャイロックは口の中から煙をふーっ、と吐き出した。

「もう少し調べてみましょう。船の中も、もしかしたら何か書置きがあるかもしれません」
「それはいいね。それじゃあ僕はあの大きなのしようかな」
「では私はこっちの小さい船にしましょう」
「俺は空から見守ってるー!」

 ムルはそういうや否や、箒に乗って空高く飛び上がってしまった。あれはしばらく戻ってこないだろうなぁと思いながらフィシェリは自分で指さした大きな船を見上げた。
 立派な船だ。積み荷もさぞたくさんあったに違いない。
 フィシェリは船底に開いた穴から船の中を覗き込む。朝日が差し込んでいるのに関わらず船の中は暗く湿り気を帯びていた。どことなく不気味な雰囲気が漂っている。

「サプマ・コッピィ」

 フィシェリが口の中で呪文を唱えるとぼんやりとした光球が現れてふよふよとフィシェリの周りを飛び回り始める。そうすると暗かった船の中も幾分明るくなって、足元も見えやすくなった。石の上をぴょんぴょんと飛び移って、斜めに傾いだ階段を上り、船のトップの方へと移動していく。フィシェリの狙いは船長室だ。そこならば航海日誌が置いてあるだろうとふんで、それらしい部屋を探していく。
 斜めに傾いだ船の中は歩きにくい。フィシェリは魔法で体を少しばかり浮かして、斜めの船の中を歩いて行った。
 船員の寝床、食堂、トイレ、水が入った樽はいくつもあったがまるで手をつけられていなかった。それから西の国に卸すための様々な異国の装飾品がぎっしりと詰まった部屋もある。装飾品の一つをとってまじまじと見つめてみたが、それでこの怪事件の解決に至るとはまるで思えない。丁寧に拾ったところに戻して、さらに船の中を進んでいく。まだ新しい船なのだろうか、木の匂いが新しく、船全体もまだ航海経験のない未熟さを感じられた。船は老成してくると精霊が宿ると言われている。クラバウターマンと呼称されるその精霊が船にとり憑くとその船は沈まないという伝承があるのだ。フィシェリは海のことは少し詳しかった。だが残念ながらこの船にはクラバウターマンはいそうにない。もしいたら、話を聞けたかもしれないのに、とフィシェリはぼんやりと思った。
 フィシェリがさらに探し回ってようやっと、船長室を見つけた。他の扉よりちょっとだけ豪華な飾りが取り付けられている船は船長のものに相応しい。船が座礁した際に大きく傾いているため、船長室の中の物のほとんどは机やタンスの中から転がり落ちて部屋の片隅にたまっている。机やタンスそのものは船が揺れても大丈夫なように床に固定されているため、傾いだ船の中でも動かずに沈黙している。幸い船長室は船の中でも高いところに作られていたため、海水に浸るということはないようだった。
 様々な装飾品、船長らしい帽子、替えの洋服、海図、コンパス、望遠鏡、そういったものがごっちゃごちゃに重なっている。フィシェリは一つ一つそういったものを手にしては別の山を作っていった。そしてようやっとフィシェリが探してた航海日誌を見つけることができた。
 フィシェリがパチンと指を鳴らすと、部屋の片隅で倒れていた椅子がふわりと浮き上がる。そして歩くように体を傾け傾け、フィシェリの方へやってくるとフィシェリの下でぴたりと止まる。宙に浮いた椅子の上にフィシェリは座って航海日誌を開いた。
 航海日誌はごくごく普通で、特にこれといっておかしなことはなかった。航海の記録と、一言その日にあったことが書き記されている。この船の船長はまめだったのか、朝昼夜の三回にわけて日誌も付け加えてあった。ぱらぱらとめくりながら、最新の日付のものを探すと、今からちょうど二週間前で日誌がぱたりと止まっていることがわかった。
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11月5日
天候 晴天
風力 南南西
海象 波なめ
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 海象の部分で突然手が止まってしまったようだ。波なめらかと書きたかったが、それがかなわなかったかのようだ。しかしペンが転がったりその場で倒れて、ペンが後を引くようなこともなかったようだ。「波なめ」のあとから綺麗になにもなく、船長は自分の意志でペンを置いたかのように見える。

「ふむ」

 フィシェリは椅子に座って航海日誌を眺めたまま顎に手を当てる。

「あんまり得意じゃないけど、記憶を見てみるか」

 フィシェリは小さく呟くと航海日誌の上に手をかざす。そしてもう一度呪文を唱えると、
フィシェリの意識の中に色々な記憶が流れ込んできた。ムルのように物の記憶を見ることを得意としていないのだ。フィシェリの頭の中には航海日誌だけでなく、この部屋にある様々なものの記憶が一気に流れ込んできて、そのせいで頭をぐわんぐわんとゆすられているような気持ち悪さを覚えた。大きなハンマーで思い切り頭を叩かれたような気分だ。記憶の洪水はフィシェリの頭の中を駆け巡り、フィシェリの意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。その中にこの船の船長と思しき人間の顔がある。フィシェリは丁寧にその記憶をたどっていこうとするが、他の記憶が邪魔をしてくる。なんとか船長に意識を集中すると、航海日誌を書いている船長は、ふとしたときに何かに意識を奪われたようだ。何に意識を奪われたのかまではわからない。ただ、自分の明確な意志の下、ペンを置いて部屋を出ていったようだ。
 フィシェリは息を継いだ。その瞬間に記憶はさらに渦を巻く。

「……ッ」

 フィシェリは指をパチンと鳴らした。その途端頭に流れ込んできていた様々な記憶が一気に静かになっていく。そうして静寂を取り戻したフィシェリの頭はそれでも十分に混乱していた。しばらくの間体を曲げて自分に意識を集中しなければ、気が狂ってしまいそうだった。

「はぁ……ムルに頼めばよかった」

 フィシェリはため息をつく。まさか物の記憶を見る魔法がまさかこれほど難しいとは思っていなかった。これは練習が必要だなと苦笑しながら、先ほど見えた船長の様子を思い出す。船長は何かに気を取られた様子だった。大切な航海日誌を差し置いてでも外の様子を見に行きたがっていた様子だった。それほど船長の気を引くものとは一体なんだろうか。船員の喧嘩ではなさそうだ。そのぐらい勝手に収まるのを待つだろう。船が座礁したとは考えにくい、船長の表情から船が大きく揺れたような印象は受けなかった。それならばなんだろう、とひとしきりフィシェリは考え込んで、そして一旦考えるのをやめた。一人で考え込んでも仕方ない。シャイロックもそろそろ船の探索を終えているころだろう。シャイロックとムルと合流して今得た情報を共有しておいた方が有意義だ。
 フィシェリは椅子から立ち上がって宙を歩く。こんな傾いだ船の中を歩き回れない。幸いフィシェリは宙に浮くのは得意だった。自分を掃除用具の一つだと思えばいい。掃除用具を浮かして床を走らせるように自分の体を浮かして、斜めにゆがんだ床の上を歩かせる。要領は同じだ。
 光球に照らされた船から外に出ると、チカっと太陽の光がまぶしくフィシェリの目に飛び込んでくる。太陽はフィシェリたちがこの小島に来た時よりもずいぶん上にあった。ずいぶん長い間船を探索していたようだ。シャイロックとムルはすでに船から出て小島で何かを話しあっているようだ。船から持ち出した椅子に腰かけてパイプの煙をふかすシャイロックがフィシェリに気づくとにこりと笑った。

「どうでしたか、何か有益な情報はありました?」
「航海日誌を見つけたんだ。ムルみたいに記憶を読んでみようとしたんだけど、あまりうまくいかなくてね。ただこの船の船長は明確な意志を持って航海日誌を書くのをやめているような印象を受けたよ」
「明確な、意志」
「そう、筆を止めるに値する何かが起こったみたいだった、それが何かまではわからなかったけど」
「ふむ……」

 シャイロックは少しだまりこんでしばらくの間煙管もそのままに何か考え込んでいる様子だった。

「シャイロックは何か見つけた?」
「ええ、はい。いろいろ調べてみたのですが、どうも船員が争った様子はありませんでした。船の中はいたって穏やかで、誰も彼も、そう自分の意志で船を降りた、そんな印象ですね。ムル、あなたは上空から眺めて何か有益な情報がありましたか?」

 ムルは椅子を傾けて、脚一本で立たせてその上で器用に逆立ちをしていた。ぐらぐらと今にも倒れそうなのに倒れない。ムルは意外と体幹がしっかりしている上にバランス感覚がずば抜けてよいのだ。それが有益なことに活用されることは驚くほど少なかったが。

「見たよ! ここら辺の海流と小島の位置を考えるに、西の国に来る船はこの小島の付近を通らないといけない。もしくはもっと北のルートを通らないといけない。酒場の魔法使いの話では北のルートを通る船は問題なく西の国についているから、この小島の隣を抜けていく船だけが何かに襲われているみたいだ!」
「襲われた? 何に襲われたというのですか、ムル」
「さぁなんだろうね? でも何かに襲われたのは確かだと思うよ。襲われるという言葉には物理的な意味だけじゃなく精神的な意味も含まれる。例えばシャイロックの煙みたいにね」
「なるほど」

 ムルは何も考えていないようで、その実物事をよく見ているし、見たものに対する考察も深い。ムルの発言は要領を得ないことも多かったが、今回に限って言えばムルの発言はこの事件に関する重要なヒントが含まれているような気がした。

「じゃあムルはこの島そのものに何かあると考えているわけ」
「そうかな? そうじゃないかな?」
「はぐらかさないでよ」
「海流を調べてみた! この小島の周りは渦を巻くように小島に向かって海流がある、ということは誰も操作しなくなった船は自然とこの小島に集まる! そして誰か乗っている船も、この小島に引き付けられるから小島のぎりぎりを抜けることになるよね、それって大変なことじゃない?」

 ムル言葉にしばしシャイロックとフィシェリは沈黙した。物理的な要因、精神的な要因、どちらも含めて考えてみるが、考えは迷路の中の同じ場所をぐるぐると巡るばかりで結論は一向に出てきそうになかった。その間もムルは椅子をいくつ積んでバランスをとれるかに集中しており、今も逆さまのままだ。そんなムルから現状を打破するような提案が出てくるのはちょっとした皮肉かもしれない。

「ねぇねぇシャイロック、フィシェリ! 俺たちも船に乗ってみようよ!」
「船に? さっき船に入ったじゃないか」
「そうじゃなくて、俺たちも船を作って実際にこの小島の周りをまわってみるのさ。行方不明になった魔法使いと行方不明にならなかった魔法使いがいただろう? あれってもしかして行方不明になった魔法使いは自分で船を作って乗ってみたんじゃないかな」
「どうしてそんなことがわかる?」

 フィシェリが尋ねるとムルは一艘の船を指さした。

「あの船の船底は座礁して傷ついたにしては大きすぎる穴が開いている。船からなくなった材料を考えると、小舟を作ったように考えられる」
「なるほどね」

 ムルの言うことには一理ある。フィシェリはぱんと手を打って立ち上がった。

「よし僕たちも船を作ってみよう」
「誰が乗り込むの?」
「僕とムルでいいだろう。シャイロックはここにいて。もし何か異変があったら物理的なものにも精神的なものにも対応できるだろうから」
「わかりました」

 シャイロックが頷いたのを確認して、フィシェリは椅子から立ち上がる。

「ほら、ムル、そろそろバランスゲームはやめて船を作るのを手伝ってよ」
「わかった!」

 ムルは五つまで積み上げた椅子の上からぴょんと飛び上がって地面に降り立った。その瞬間椅子はがらがらと崩れ落ちる。地面に転がった椅子は誰が座るわけでもなく、ただ転がって鎮座している。本来なら人が座るはずの椅子が地面に転がっている様子は、さながら現代アートのようであった。
 ともかく、小舟を作ることにしたフィシェリとムルは材料を適当に調達する。ここに座礁した船たちは誰かの持ち物だが、その持ち主は今はいない。誰に文句を言われることもないだろうと適当に崩して小舟の材料にしてしまった。

「サプマ・コッピィ」
「エアニュー・ランブル」

 フィシェリとムル、二人の呪文が重なった。船底から解かれた木々は新しく形作られていく。それはちょっと不格好な小舟となって、もしくは櫂となって海の上にぷかりと浮いた。少々バランスが悪いが、二人で乗ってこの小島の周りをぐるりと周回するだけだ、形が悪くても問題ないだろう。フィシェリとムルは身軽な動作で小舟に乗り込むと、さっそく櫂で小舟を動かし始めた。
 海流は緩慢な動作で二人が乗った小舟を小島に寄せようとしてくる。その海流から抜け出すにはそこそこの力で櫂を動かさなければならなかったが、そこは魔法使いの二人である。魔法でもって軽々と櫂を動かすと船はあっという間に小島に向かう海流から抜けた。

「ま、このぐらい離れれば大丈夫かな、ムル、舵を動かして」
「はーい」

 フィシェリが櫂を動かし、ムルが舵を取る。小舟はほとんど波のない海の上でゆっくりと方向を変えて小島の周りを回るように動き始めた。
 潮風が二人の髪をなびかせる。少しべたついた風は髪の毛にへばりついた。日差しは暖かいが風は冷たい。冬が海の上を支配している。フィシェリもムルもあたたかな日差しをたっぷりと含んだ空気をマントのように体にまとわせた。そうでもなければほんの数分で手がかじかんでしまうだろう。フィシェリは念のため魔道具であるフルートを出して、いつでも魔法を使えるように身構える。魔道具がなくても魔法は使える。だが使い慣れた魔道具があることで魔法はより安定する。ないよりあったほうが万が一の時には都合がいい。フィシェリの魔道具はフルートだ、普段は邪魔になるので魔法でポケットの中にしまってある。ムルの魔道具は指輪であったから、普段から身に着けたままだ。
 小舟は力強く動く櫂によってそれなりの速度で小島の周りをぐるぐると回り始めた。小島でシャイロックが煙管をふかしているのが見える。シャイロックの口から吐き出された煙がふわりと空気に紛れて空高くまで上るとそのまま消えていくのが見えた。
 フィシェリとムルが乗った小舟は今のところ異常はない。結局何も起こらないか、とフィシェリが諦めかけたところで、ふいにムルが「変な音が聞こえない?」と奇妙なことを口にした。
 フィシェリはフルートを吹くので、音には敏感な方だ。ムルの言葉にそっと耳をそばだててみれば、なるほど確かに奇妙な歌が聞こえてくる。船が移動している、その船に音がへばりついているように、音はフィシェリとムルを追いかけてくるようだ。音は徐々に徐々にだが音量が上がってくる。そして気づけばフィシェリの頭の中はその歌でいっぱいになっていた。音は歌だ。聞いたことのない旋律だったが確かに歌だとわかった。
 音はフィシェリの頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱していく。頭の中で何かを考えようにもすべて音が上書きをしていくせいで何も考えられない。だがこの歌を聴いているうちにふと、フィシェリはこの海の中に飛び込みたいという強い欲求に支配されていくのがわかった。頭の片隅で常識と理性がそれはだめだと叫んでいるが、その声はあまりに小さくて、歌はあまりに大きくて、フィシェリの体は自然と小舟から海へと乗り出していく。この歌の主に近づきたい、音源に近づきたいという強い欲求が今やフィシェリの体を支配していた。

フィシェリ!」

 音をかき消すほどの大音量がフィシェリの頭を打つ。それはムルの声だった。
 気づけばフィシェリの体は小舟から半分以上海の方へ乗り出しており、ムルが腕をつかんでくれなければそのまま海へ飛び込んでいただろう。
 歌に逆らおうとするとひどい頭痛がした。

フィシェリ、フルート!」

 はっとする。これが音による強制的な体の支配なら、フィシェリのフルートが有効なはずだ。フィシェリは緩慢な動作でフルートを持ち上げる。そしてそっとリッププレートに唇を当てて息を吹き込む。フルートの音が小舟の上に響き渡ると、自然と頭痛は消えていき、歌の音源に近づきたいという欲求も薄れていく。どうやらムルが言っていたように精神的に訴えかけてくる何かの仕業のようだ。
 フルートの音色はどこまでも広がっていく。やがて歌と同じだけの音量になると、海に響く不思議な歌と一緒になって混ざり合って、歌の効果を打ち消していった。
 フィシェリは目くばせをしてムルに小舟を小島に近づけえるよう合図する。耳をふさいでいたムルは舵をとって、小舟を小島に向けた。
 二人を乗せた小舟が小島に乗り上げると、二人の体をシャイロックの煙が包み込む。シャイロックの煙は人の感覚に作用する。この煙の中でも歌は聞こえてくるが、煙を吸い込むと不思議なことに海に飛び込みたいというあの強い欲求も歌に逆らうとやってくる頭痛もなくなった。

「危なかったですね、フィシェリ
「うーんやられた。同じ音を魔法に使う身としては悔しいばかりだね」
「でもこれでわかりました、船に乗っていた者たちは皆この歌に誘い出されて自ら海の中に身を沈めたのでしょう」
「だろうね」

 フィシェリはシャイロックの煙に包まれた空間で椅子に腰かける。体が支配されているような、あの感覚はもうなくなっていた。フルートを吹かなくてもシャイロックの煙が守ってくれる。

「さて、どうしましょう。そもそもこの歌がどこから響いてきているものなのか」
「そのことなんだけど」
「何か思い当たることがあるのですか、フィシェリ
「うん、これってもしかしてセイレーンの歌じゃないかな」
「セイレーン……西の国の伝承にありましたね、なんでも美しい歌声で船を惑わし遭難させる……でしたっけ」
「そうそう。母さんがずっと昔にそんな話をしてくれた」
「しかしセイレーンは絶滅したのでは? 少なくともここ数百年のうちにセイレーンが出たという話は聞きませんが」
「そこなんだよね。母さんもセイレーンはほとんどいなくなったって言ってたけど、ほら、そこはあるだろう、本来なら眠っている災厄を起こしてしまうような大災害が」
「月!」

 ムルが立ち上がって空を指さした。今は昼間なので月はほとんど見えなかったが、ムルにはどこにあるのかはっきりとわかっているようだった。

「そう<大いなる厄災>。セイレーンは絶滅した、と言われているけど、その多くは死んだんじゃなくて封印されたらしい。航海する上でこれ以上ないほど危険だからね。<大いなる厄災>の接近によってその封印が解かれたとしたら」
「なるほど……セイレーンが今になって突然活動を始めた理由としては辻褄が合いますね」

 膝に肘をついて顎に手をあてたシャイロックが言う。ムルはセイレーンにはあまり関心がないのか、煙で包まれた空間の中でまた椅子の積み木を作っていた。
 今もかすかに音が響いてくる。だが先ほどのように衝動的に体を動かすほどの力は感じられなかった。

「それじゃあさっさとセイレーンを封印するなり倒すなりして僕のマナエリアに行くとしようか」
「そうですね、予定外の出来事はムルが持ち込む厄介ごとだけで十分です。しかしこの歌はどこから?」
「セイレーンは本来岩礁の多いところを好むけれど、この歌は海の中から響いているんじゃないかな」
「なぜ、そう思うのです」
「僕がこの歌を聞いたとき海に潜りたいと強く思ったからだよ。音源に向かいたいという意識が頭を支配していた、そして体は海へ飛び込もうとした、とすればこの小島の下に洞窟か何かがあってそこにセイレーンはいるのかもしれない」
「なるほど」

 シャイロックは頷いて煙管を持ち上げた。

「私の魔法で空気の入れ物を作ります。そこに煙を満たせばセイレーンの歌にも対抗できるでしょう」
「助かるね」
「でももって十五分程度が限界です、そこから先はフィシェリのフルートで対抗してください」
「わかった、じゃあ人選はシャイロックが小島の上で見張り、僕とムルが海に潜る係だな、ムル、封印するか倒すかはムルに任せるよ。多分僕はフルートを吹くことでいっぱいいっぱいだろうし」
「任せて!」
「それじゃ行くとしようか」


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