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海の嵐

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海と嵐と消えた船 1

 魔法舎には様々な施設が併設されているが、その中でも特に奇っ怪なのが、魔法舎に二つある図書室であろう。一つ目の図書室は異界からやってくる賢者のためのもの。賢者が書き記した賢者の書が連綿と連なる、宝の山である。二つ目は魔法使いのためのもの。魔法に関する本から絵本のようなものまで、この世界で執筆された本は自動書記の魔法によってすべて複製され収納されている。その数は途方もなく、図書室の広さも尋常ではない。だがその入り口は質素で、とてもその中に広大な面積に本棚が並んでいるとは思えないものだ。魔法使いのための図書室には司書がいて、図書室は魔法によって拡張されている。どれだけ本が増えようとも収納できてしまうのは空間拡張に長けた魔法使いの魔法によるものだ。今の代の司書は噂によれば賢者の魔法使いであるムル・ハートの弟子であるというのだが、その肝心の司書の姿を見たものは誰もいないというので、その話もどこまで本当なのかわからなかった。
 そんな図書室でフィシェリベネットは鼻歌を歌いながら本棚から本を引き出していた。古い梯子はフィシェリが本を引き出す度にぎしぎしと嫌な音をたてたが、なんとか形を保っている。フィシェリはそんな梯子のことなどあまり気にすることなく、自分の体の前に本を積み上げて梯子を降りた。近場の机の上に山積みになった本を置くとそこでようやく一息つく。本はどれもまだ真新しく、埃もかぶっていない。最近図書室に追加された本なわけだが中身はよくあるファンタジーものの小説だ。なんでも西の国で今流行っている魔法使いの物語だそうだが、魔法使いであるフィシェリが読んでも面白く、ついつい続きが気になってこうして図書室に足を運んだわけである。フィシェリももう千五百年ほど生きてきたが、いくつになっても面白いものは面白い。
 本棚から本を下ろし、ほんのりと明るいランタンが用意された机が並ぶスペースに本を運ぶとようやっと重たい本を下ろした。それでは早速、と本の表紙を開いたところで、図書室には珍しい客人が訪れる。

フィシェリ? ああここにいましたね」
「シャイロック、僕に何か用?」

 待望の新刊を前にして待てをされるのはなかなか難しいことだった。そわそわと体を動かしながらちらりと本を見てシャイロックを見て本を見る。

「ああ、これは申し訳ありません。読書の最中でしたか。ただ、その、すぐに読むのは諦めた方がいいかと」

 えっ、なんで、と聞き返すよりも早くダダダダダッと盛大に魔法舎の中を走り回る音が聞こえてくる。こんな風に魔法舎の中を走り回る魔法使いはただ一人だけだ。フィシェリがその魔法使いを想像したところで、頭の中の想像と全く同じ顔が図書室の扉からひょっこり覗き込んだ。

「あー! フィシェリみっけ!」
「僕は君とかくれんぼしていたつもりはないんだけどな」

 ああこれは本当に本を読むのはあとになるな、と思いながらフィシェリは立ち上がる。

「で、ムルはなんの用?」
フィシェリのマナエリアに連れてって!」
「は?」
「だからフィシェリのマナエリアが見たい!」
「別にそれは構わないけど……でもそれにしても急な話だな。どうしてそんなことになったの?」
「んー」

 ムルは唇に指をあてて思案する。この調子だと忘れた、と言い出してもおかしくないが……とフィシェリが考えていたところで、ムルがぴんと指を立てた。
「賢者様から聞いたんだ。フィシェリのマナエリアは海だって。海には愛しい月も映るだろう? 俺は愛しい月の近くに行きたい。海だったらそれがかなうんじゃないかって」

 ムルの話を聞いて、最初はきょとんとしていたフィシェリだったが、そのあとあっはっはと口を開けて笑い始めた。

「いやごめんごめん、ムルらしい理由だなと思って。でもそれは賢者様の勘違いじゃないかな」

 フィシェリは笑いながら言う。

「僕のマナエリアは確かに海だよ。でも海辺の洞窟なんだ。洞窟の中だから君の愛しい月は映らないよムル」

 賢者様もたくさんの話をいっぺんに聞いたから色々混じっちゃったんだろうね、とフィシェリが言うと、ムルはしばらくの間きょとんとしていたが、すぐに笑顔を取り戻して「そっかー! でもそれはそれで行ってみたい!」と言うのだった。

「いいよ、別に」
「いいのですか?」

 シャイロックが少し驚いたように問いかける。マナエリアとは魔法使いにとってとても重要なところだ。自分の精神を満たし心を満たし、欠けてしまった魔力を充足する。だから基本的に魔法使いは自分のマナエリアに他人を招いたりはしない。マナエリアを壊されるのを恐れるからだ。だがフィシェリはこの二人に限ってそんなことはないと確信していた。だから、気軽に二人をマナエリアに誘ったのだった。

「僕もしばらく行ってないからね。厄災の影響も気になるし、近いうちに一度行こうとは思っていたんだ。一緒についてくる人がいてもいなくても同じことだよ。シャイロックも来る?」
「ええ……そうですね、そういうことであればご一緒させていただいても?」
「勿論」

 フィシェリはにっこりと笑って答える。

「《サプマ・コッピィ》」

 フィシェリが呪文を唱えると、フィシェリの目の前に積み上げてあった本がふわりと浮いて、本棚の隙間に戻っていく。本が元通りの場所に戻ったことを確認してフィシェリは立ち上がると、「それじゃあ行こうか」と言った。やると決めたらすぐにでも、やりたいという気持ちに素直に、西の魔法使いはマイペースだ。フィシェリもそんな西の魔法使いの特性にもれず、マイペースで、今だって、そう。本を読んでからね、でもよかったが、マナエリアのことを思い出すと急に懐かしくなった。ならすぐにでも出発するのがよかろう、というのが今のフィシェリだ。
 やったぁ、と地面を転がるムルを起き上がらせて、図書室を出る。本の適切な保管のために、この図書室には窓がない。いや、実は本棚の迷宮の奥の奥に一つだけあるのだが、ムルの弟子であるこの図書室の司書にふさがれてしまって以来、この部屋に日光が入り込む隙間はなかった。
 早速出かけようとする西の魔法使い三人は、図書室を出て、豪奢な長い廊下を歩いていく。幾代か前の賢者が建築デザイナーであったため、その時にデザインされたのが今の魔法舎だ。今の賢者が来たあとのごたごたで、外観は多少損なわれたものの、内観はいまだに健在で、細やかな装飾はかつてのデザイナーのこだわりが見受けられた。広い廊下は陽の光がよく差し込みまぶしいくらいだ。きらきらと輝くみずみずしい木々が中庭に植えられ、その木の下でルチルとミチルとリケが何かをしているのが見えた。おおよそ、ルチルがリケに文字を教えているのだろう。なんとか教団というところで育ったリケは世間知らずだ。だがまっすぐな心の持ち主で、同じ年代のミチルとすぐに仲良くなった。そういえば昔、本当に昔の昔、まだシャイロックとフィシェリの母も父も健在だった頃、ああやってシャイロックとフィシェリも木の下で本を読んだり魔法の練習をしたりしていた気がする。それは遠い昔の思い出で、ほとんどが色褪せてしまい思い出すのも難しくなってしまった。だからまだ残っているものを大切にしたいとフィシェリは思った。
 そんな思い出に浸っているとついつい現実をおろそかにしがちになる。箒を手にしたフィシェリとシャイロック、そしてムルが角を曲がろうとしたとき、危うく晶と正面衝突事故を起こしそうになった。

「わっ」
「おっと」

 フィシェリが慌てて目の前に手を出せばぽすりと晶の体がフィシェリの腕の中に納まった。

「大丈夫です賢者様?」
「すいません、ちょっと急いでて」
「いいえお気になさらず」

 フィシェリはうやうやしく礼をして今代の賢者である晶に道を譲る。
 フィシェリは賢者の魔法使いではない。シャイロックが賢者の魔法使いに選ばれたとき、一緒についてきて魔法舎の掃除係に勝手に任命されたただの魔法使いだ。今回の<大いなる厄災>との戦いで石になってしまった魔法使いたちの代わりに新たに召喚された魔法使いの中に、フィシェリはいなかった。本当は賢者の魔法使いとしてシャイロックの隣に立ちたい、というのがフィシェリの希望だったが、掌理のゴブレットに誰が選ばれるのか、その原理は古い魔法使いのスノウもホワイトも知らなかった。だから実のところフィシェリはがっかりしたのだ。自分の体にあの百合のような紋章が浮かび上がらなかったことに。もしも賢者の魔法使いに選ばれれば、シャイロックと一緒にいることに掃除係なんていうわざとらしい理由をつけなくても済むのに。
 そんなもやもやとした気持ちを押し隠して礼をしたフィシェリに、晶は慌てて手を振る。

「そんな、俺こそすいません、前を見てなくて」
「お忙しそうですね賢者様、今日はどちらへ向かわれる予定だったのですか」
「ええっと、中央の国の魔法使いたちと一緒に……中央の国でまた太古の魔法生物たちが動き出したとかなんとかで……」

 <大いなる厄災>と戦う二十一人の魔法使いたち、そして彼らを従える賢者の下には、此度の戦いで傷を負った地域の様々な問題が次から次へと舞い込んでくる。異界からやってくる賢者にとってはまず聞きなれない土地の名前でいっぱいだろうに、そこによくわからない名前の問題が山積みとなれば、それは誰かと誰かのマナエリアを混在して覚えてしまうの当然のことであった。

「あっそうだ、シャイロック、ムル、フィシェリ
「はい、なんでしょう」

 シャイロックが洗練された所作で振り返る。

「西の国でも海辺で不吉な噂が流れてるんです、なんでも……ええっとなんだったかな……船が消えるとかなんとか……だから西の国に行くなら気を付けてくださいね」
「はいわかりました」

 それじゃあ、と言って晶は長い廊下を走っていった。それを見送って三人は顔を合わせる。

「船が消えるなんてちょっと嫌だね」
「西の国は海運が盛んな国でもありますから……そうですね、船に問題が発生するのはちょっと困ったことかもしれません」
「それじゃあそれも調べに行こう!」

 ムルの一言で決まったようなものだった。はいはい、とキセルをふかすシャイロック、仕方ないなぁという表情のフィシェリ。三人は魔法舎を出ると箒にまたがってふわりと真昼の空へと飛びあがった。
 太陽がきらきらと輝いて、風は柔らかに三人を包み込む。箒に乗るときはいつも無意識のうちに自分たちを覆うヴェールのような魔法をかけているので、風圧にさらわれて箒から落ちる……なんてことは魔法使いになりたての若者の常であった。だが魔法使いになって千と五百年を数える三人はそんな初歩的なミスを犯すはずもなく、箒に乗ってそれなりの速度で西の国に向かっているのに、吹き付ける風は穏やかなままだ。

「うーんいい気分!」
フィシェリ、どうですか? 今日は入れそうですか」

 シャイロックが真ん中を飛ぶフィシェリに話しかける。シャイロックはフィシェリのマナエリアを知っている。どこにあるのかも、それがどういうものなのかも。だからこんなことを訊ねてくる。

「うーん着いてみないとなんとも」

 先頭ではムルがどこまでだったらギリギリ片足立ちをできるか、という実験と言う名の大道芸を披露している。それはもう日常茶飯事であったためフィシェリもシャイロックもムルを注意することはなかった。何、仮に箒から落ちたところで、地面に激突することはない。箒がなくても魔法使いは飛べるのだ。ただ箒という媒介を用意することで飛ぶ方向性や飛ぶことそのものに意識を向けなくてもいいようになる。呪文も同じだ。魔法使いは心で魔法を使う。だが呪文があることでより心を具現化しやすくするのである。と、言っているうちにヒュー、とムルが落ちていった。箒がそれに追随し、地面に激突する寸前でキャッチして再びシャイロックとフィシェリと同じ高さに戻ってくる。

「あはは! どこまでならバランスを保てるのか実験してたら落ちちゃった! でもひゅーって落ちるのって面白い!」

 もう一回! と言ってムルは箒からダイブする。命綱を着けないスカイダイビングは見ていてハラハラさせられるが、実行している本人が一番ハラハラドキドキしてそれを楽しんでいることが容易にわかるだろう。

「ムル、そのあたりにしておきなさい。天候が怪しくなってきました。このままでは雷雲に激突します、少し低く飛びますよ」
「雷雲? 中ってどうなってるのかな? 今よりもっとハラハラドキドキするのかな? 俺行ってくる!」
「忠告するだけ無駄でしたね、はぁ」

 大きくため息をついたシャイロックにフィシェリはくすくすと笑った。二人はすー、と箒を下に向けて雷雲を避けて飛ぶ。しばらくするとぽつぽつと雨が降り始めた。二人は魔法で濡れないように見えない防壁を張ってそのまま飛び続けた。

「今日は無理そうだね」
「そうですね。明日以降、天気が良い日を見計らっていくしかなさそうです」
「今晩はどうする?」

 フィシェリがシャイロックの方を向いて尋ねた。シャイロックは少し首をかしげて、蜘蛛の様子を見やりながら言う。

「……久々にベネットの酒場を開くことにします。こんな天気ですし、雨を嫌った魔法使いがやってくるかもしれませんから」
「うーんベネットの酒場も久しぶりだな」
「手伝っていただけますか?」
「勿論。僕は魔法舎の掃除係の前にベネットの酒場の従業員だからね、しっかり働くよ。それよりムルはどうする?」
「放っておきなさい。しばらく遊んだらびしょ濡れで帰ってくるでしょうから、その時に着替えと一緒に二階の部屋に放り込んで上げればいいですよ」
「それじゃあ二階の部屋も掃除しないとね。やることがいっぱいありそう」
「そうですね。しばらく開けてなかったので埃が溜まってるでしょうね。掃除から始めるとしましょうか」
「はぁい」

 二人の魔法使いは雨を避けながらしばらくの間飛んで、そしてベネットの酒場の頭上にまでやってくるとスゥーと急降下し、ベネットの酒場の前に下りる。その間も雨除けの呪いはそのままで、雨は二人の体に当たることなく、まるで傘でもさしているかのように、彼らの頭上に来るとつぅ、と見えない壁を滑り落ちていった。
 シャイロックが魔法の鍵を使って扉を開けると、中は少し埃臭い。そう長い間放置していたわけではないのだが、その「長い間」、という感覚がシャイロックにもフィシェリにも欠けていた。

「これは……」
「人間で言うところの結構長い間放置していたらしいね」

 それじゃあ掃除から始めよう、とフィシェリは片手で空中でくるりと回す。その途端何もなかったはずの空間に美しいフルートが現れた。フィシェリの魔道具だ。幼い頃母に教わったフルートがそのまま体に馴染んで魔道具になった。フィシェリはリッププレートに唇を乗せて歌口に息を吹き込む。フィィィィーーーという美しい音色が埃のかぶった酒場に響き渡った。すると店の端っこで静かにしていた箒や雑巾たちがまるで踊るように湧き出てきて、フロアで足踏みする。箒は床をはいて、雑巾は水で濡らしてよく絞り机の上を拭いていく。フルートの音に合わせて踊る掃除用具たちは見ているだけでも楽しい。前に賢者がフィシェリの得意魔法を見たときは、そんなアニメ映画があったことを思い出す、と言っていた。フィシェリにはアニメ映画と言うものがなんなのかわからなかったが、賢者が楽しいのならばいいだろうと、しばらくの間賢者と踊りながら掃除をしたものだ。おかげで一区画だけ異様にピカピカになってしまったのだが、それは内緒の話。
 シャイロックもカウンターの中に入って仕事を始めた。まだ開店の立札は出していないが、扉の隙間からぼんやりと中の明かりが漏れていく。
 フィシェリのフルートの音に惹かれてか、はたまたベネットの酒場に明かりが点いたのを見つけてか、しばらくすると魔法使いたちがそろそろと集まってきた。

「シャイロック! 久しぶりじゃないか」
「久しぶりねシャイロック、いつここが開くのか楽しみにしていたのよ」
フィシェリも久しぶり。相変わらず美しいフルートだね、こちらも踊りたくなってくるよ」

 フィィィーーーと音を鳴らしながらフィシェリは大仰に礼をしてみせた。それを見た魔法使いたちも同じように礼をして店の中に入っていく。
「おやおや、店はまだ掃除中ですよ」
 シャイロックはカウンターの中に入ってグラスを磨いている。柔らかな布が何枚も同時に動いて、グラスをぴかぴかに磨き上げていた。だがそんな様子もお構いなしに客はどんどん店に入ってくる。フィシェリはそんな客たちの邪魔にならないよう端っこに寄りながら、掃除を続けていた。ついでに二階も、とぐっと腹に力を入れて、ひときわ大きな音を鳴らせば、二階の方でがたんごとんと何かが動く音がする。二階でも箒たちがダンスを始めたのだ。
 ベネットの酒場は魔法使いたちの交流の場である一階と、シャイロックやフィシェリが寝泊まりする二階に分かれている。特に二階はシャイロックとフィシェリの空間なので、基本的に誰かを入れることはないが、最近はムルを世話するのに二階を使うようになった。幸いにして空室があったので、最近はムルをそこに泊めるようになったが、二階は従業員のものであることに変わりはない。
 そう広い店ではない。客がカウンターから溢れて個別の席に座るまでそう長い時間はかからなかった。フィシェリは指揮棒のようにフルートを振って、掃除が終わりであることを示す。シャイロックはすでにカウンターでお酒を出している。埃が飲み物の中に入らないように注意しながら掃除用具を片付けたら、今度はウェイターの仕事に早変わり。もう一度フルートに息を吹き込めばお酒がくるくると宙を舞い、綺麗に磨き上げられたコップがその後をついていく。ベネットの酒場の名物、フィシェリの酒の踊りだ。軽快なフルートの独奏にお酒が踊るように着いていく。客たちは各々コップを手に取って、注文をすると、お酒が礼をするように傾いてコップの中を満たしていった。カウンターではシャイロックとの会話を楽しみにしていた客たちがごった返しており、彼らの話に耳を傾けながら酒を注いでいくシャイロックの手は慣れたものである。
 フルートの独奏曲は軽快なものからしっとりと落ち着いたものまで、数多くある。特にフィシェリが気に入っているのはフルート協奏曲「海の嵐」であった。客たちはタイトルを知らないだろうが、フィシェリがその曲を気に入っていることを知っている。フィシェリのフルートの音に耳を傾けながら酒を飲むのが、ベネットの酒場の楽しみ方の一つであった。

フィシェリ、次は『夜の歌』で頼むよ」
「その次は『朝とモンドウドリ』だ」

 リクエストを受けるたびにフィシェリは礼をして、くるくると自分自身も踊って魅せる。今日もベネットの酒場は盛況で、楽しい客たちに溢れかえっている。魔法使いたち御用達のベネットの酒場では、すでに活発な議論がなされ白熱した雰囲気が漂っていた。その多くは西の国で今急速に成長を遂げている魔法科学技術についてだ。反対派が少しばかり多いだろうか。シャイロックは魔法科学技術に関して話を振られても「さぁ?」と煙に巻くような答えを返し、その詳細について訊ねようとも答えようともしなかった。
 そんな店に飛び込んできたのは、先ほどまで雷雲と戯れていたのであろうムルであった。

「ただいまー!」

 元気よく飛び込んできたムルに客たちは笑った。おおよそ彼が何をしてきたのかを知っているのだろう。魔法で雨除けを作らなかったのか、びしょ濡れの彼は入り口でぶるぶるぶると体を震わせて水を弾き飛ばす。

「ムル、そんなところで水をとばさないで」

 シャイロックの忠告も耳にそこそこ、ムルは箒を消してカウンターに近づくと「俺も飲む!」と勢いよく客の間に割って入った。ぽつぽつと店の中にできた水たまりを片付けるのはフィシェリの仕事だ。先ほど片付けた雑巾がふわりと飛んできて、床の水たまりを吸い取っていく。そしてフィシェリの魔法はムルを捕まえると掴み上げて、汚れた野良猫を洗うように新しい布で体を軽く拭ってやってから、ぽいっと二階の部屋に放り込むのだった。

「先に体を拭いて着替えること、お酒はその後だよムル」
「はーい!」

 ムルが元気よく挨拶をしたのを聞いてフィシェリは階下へと降りていく。

「シャイロック、ムルには着替えるように言ったけど他には?」
「ええ、ありがとうございます。ムルも着替えぐらいは自分でなんとかなるでしょう。下を手伝ってください。私だけでは手が足りなくて」
「わかった」

 フィシェリは再びフルートを手に取った。歌口に息を吹き込めば再び酒たちが踊りだす。その様子に店内は沸き立ち、より一層議論は白熱した。
 そんな中、一人困ったような顔をする魔法使いがいる。彼は誰とも話をせず、店の片隅でちまちまと酒を飲んでいたが、フィシェリが近づくと「なぁ」と静かに声をかけた。

「お客様、何かご要望で?」
「いや、いやそうじゃないんだ。ただ不吉な噂を聞いて。賢者の魔法使いたちならなんとかしてくれるかと思って……」
「僕は正確には賢者の魔法使いではありませんが、お話ぐらいなら聞きますよ」

 そう言ってフィシェリは向かいの席に座った。

「……最近ここいらの海で奇妙なことが起こっているのを知ってるか?」
「あー……」

 そういえば出かけ際に賢者がそのようなことを言っていた気がする、とフィシェリは思い出す。

「船が消えるんだ。いや、正確には乗組員が消えるんだ。それで空っぽの船だけが沖合にぷかぷか浮いてるってことが立て続けに五件あってな。実はその中には俺の知り合いの水夫も含まれていた」
「そりゃ不穏ですね」
「だろう? だからなんとかしてくれないか? 俺もその現場に行ってみたんだ。沖合の船は雨風にさらされてぼろぼろだったが中も調べてみた。だが何も見つからない。蒸発したように皆消えちまった。俺は魔法使いだが不気味でしょうがねぇよ」
「わかりました、気にするようにしておきます。だからあなたも今晩はゆっくり楽しんで」
「ああ……折角久々に酒場が開いたのにこんな話で悪かった」
「いえいえ、お客様のお話を聞くのも仕事のうちですから」

 フィシェリはウィンクで返して再びフルートを吹き始めた。
 西の国に近づく不気味な影はなんなのだろう。フィシェリは少し不吉なものを感じながら、それを押し隠すようにフルートに息を吹き込んだ。


20210518 サイト初出

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