金鰲島は崑崙山に比べはるかに大きい。崑崙山が一つの巨岩を中心にその周囲に様々な洞府を浮かべてるのに対し、金鰲島はその内部に洞府をしまいこんでいるのである。そのため金鰲島上部を飛行していた黄巾力士が、現在最下層付近を漂っていると思われる動力炉にたどり着くだけでも相当な時間がかかる。黄巾力士の飛行速度が落ちているのも理由の一つだが、もう一つの大きな理由は聞仲が太公望をあえて避けて動力炉を動かしていることも一つだろう。
途中いくつかの星が落ちた。突如現れた大きな生体反応に太極符印は反応するが、太公望はしばしそちらの方を向いていただけで、ふいと目を逸らして黄巾力士の進行方向をまっすぐに見つめる。
「僕が言うのもなんだけど、いいの望ちゃん」
「うむ、よい、よいのだ。それ以上は言うな普賢。わしらがやることは決っておる」
「……そうだね。あ、あれが動力炉かな」
普賢がそういって指差した先にあったものは、この金鰲島の内部においても明らかに異質な星であった。周囲に浮かぶ星も大きいが、その中でもひときわ大きく、まるでいくつもパソコンを並列につないでいるようにコードのようなラインが複雑に絡み合っている。そしてそれは金鰲島内に浮かぶどの星からもそしてどの通路からも独立しており、徒歩でたどり着く方法はないように思われた。
動力炉はゆっくりと今も動いている。それを避けるように他の星が少しだけ動いた。
「ねえ望ちゃん」
動力炉はもう目前に迫っている。そんな中でも普賢の口調は落ち着いていた。焦りも恐れもないようなその口調に太公望はほんの少しの違和感を覚えながらも振り返る。
「覚えてる?三十年ぐらい前にもこうして三人で黄巾に乗って出かけたことがあったよね」
「おーそういえばあったのう?だがなんだ突然?」
「元始天尊さまの食事に睡眠薬を混ぜてそのスキに黄巾を盗んで人間界に遊びに行ったんだよね」
「ついこの間のことね、よく覚えてるわ」
白琥が茶化すように言う。千年の間月の光輝を浴びて妖ゲツとなる白琥のような妖怪仙人からすれば人の言う三十年はあまりにも短くごく最近のことであった。
「おぬしからすればな」
「うん__ただね、ただちょっと思い出したんだ。あの頃は争いもなくて楽しかったなぁって__」
普賢はそこで一旦言葉を区切った。それからどこか遠いところを見ていた瞳を一旦閉じてくるりと太公望の方に向き直ると「それにしても」と話を変える。
「それにしてもお腹すかない? そろそろ聞仲も来る頃だし腹ごしらえして待とうよ」
普賢が懐から取り出したゴマダンゴは太公望を騙すにはぴったりだった。一つ手渡されたそれを白琥も受け取って、少し齧ると咀嚼して呑み込む。別に空腹など感じていない。ただ、ただこうすることがもっともよい方法であると普賢も白琥も信じている。
少しだけ普賢が視線を落としたことに太公望が気づくことはなかった。ジリリリリンとけたたましく鳴った電話が強制的に普賢との会話を断ち切ったからである。
太公望が慌てて受話器をとると、電話をかけてきたのは楊ゼンであった。
何事か太公望は楊ゼンと話をしている。
白琥はそっと普賢に話しかけた。
「演技が下手ね」
「そうかな、僕としては上手くいったほうだと思うけど」
「そう?最後に視線を落としたのはよくなかったと思うわ」
「そうだね」
くすくすと普賢は笑った。その表情にあるのはいたずらに成功した子供のような裏も表もない純粋な笑みであった。
「よしっ! では行くとするか普賢に白琥よ!」
「わしらは楊ゼンたちが他の十二仙を連れてくるまでこの動力炉を餌に聞仲をおびき出しひきつけるのだ。聞仲の位置さえ固定しておけば戦力分散の愚は避けられ__およ……およよ?」
周の軍師としてその智謀を振るう太公望が今は周の道士として新たな戦略を立てている。だがその中に普賢と白琥が裏切るという可能性は微塵もなかったはずだ。
いや、心の奥底にはあったのかもしれない。しかしそんなことはありえないと太公望自身がその思考に蓋をしてしまったのだ。でなければあまりにも辛い、それはあまりにも辛い選択肢だった。
「ごめん望ちゃん」
「おぬしもしや__!」
「元始天尊さまに盛ったのと同じ睡眠薬だよ」
動力炉はもはや目の前に迫っていた。
白琥は何も言わずに動力炉に向き直ると、その背に普賢を乗せて飛翔する。体重というものを感じさせない美しいその姿は太公望の視線の中で少しずつぼやけていく。
「皆が到着するまで三人で耐える必要はないんだ、耐えるだけなら三人も二人も同じこと餌は二人だけで十分だよ」
白琥が動力炉に降り立つと同時に普賢は黄巾力士の向きを変えてすっと押し出した。それがどこに向かうかはわからないが、星に激突することはないだろう。向きは星の重力場も含めて初めから崑崙山に向かうよう調整してあった。
聞仲の位置も動力炉の位置ももはや分かりきっている。ここから先に成すべきことに、太公望の力はなくても構わないはずだった。
黄巾力士が星に隠れて見えなくなるまで、普賢と白琥はその姿を見送った。やがて星の合間に黄巾力士と太公望の姿が隠れると、普賢は小さく「これでいいんだよね」と呟いた。
「ええ、きっと。太公望はここで死んじゃだめなのよ」
「うん、望ちゃんにはまだ妲己という敵がいる。生きなきゃ」
白琥が頷いた時だった。
突如として空気が変化する。それはこの場が怒りを含んでいるような、場そのものが変化してしまったような感覚であった。突如満たされた怒りは強大なプレッシャーとなって普賢と白琥を取り巻いていた。
何かが動力炉周囲の星を打ち据える。ただ叩きつけるというそれだけのシンプルな攻撃であるから、余計に避けることも受けることも難しい。ただ動力炉だけ避けたその攻撃はあえて二人を避けたのだと普賢にも白琥にもはっきりと分かっていた。
心臓の鼓動が耳元でうるさく、まるで太鼓を叩いているように騒がしい。激しい威圧感に震えそうになる手足を叱咤し白琥は芭蕉扇を、普賢は太極符印を手にする。空気に満ちた緊張がそのまま直に伝わってくるような錯覚さえ覚えるほど、この場が変貌している。
禁鞭によって打ち据えられた星が力を失いいくつも落ちていく。それはさながら未来の崑崙山と金鰲島の姿を現しているようで、不吉な雰囲気を纏っていた。激しい崩壊の余韻の中に土煙を割って姿を表したのは、黒麒麟の背にまたがった聞仲であった。
「太公望はどこだ?」
聞仲は最後の最期、普賢が太公望のみを乗せて黄巾力士を送り出したところまでは認識していなかったのだろう。その言葉を聞いて普賢の中に少なからず安堵が生まれる。
震えてしまえば心が負ける。心が負ければ勝つことは出来ない。普賢はぎゅっと太極符印を抱えなおして勤めて冷静に落ち着いた口調で聞仲に話しかけた。聞仲との間に距離はあったが太極符印を使って指向性の高い音声とすれば聞仲にも普賢の言葉は十分に届くだろう。
「殷の太師、聞仲……僕は争いごとが嫌いなんだ、話し合いで解決できないかな」
動力炉の上に立ち、まっすぐに聞仲を見つめる普賢真人。聞仲はその鎖骨の少し下の辺りに王天君のダニの寄生痕があるのを見て目を瞑ると「言ってみろ」とだけ静かに言った。それはすでに命つきかけている普賢への最後の憐れみであったのかもしれない、または聞仲の圧倒的優位にある立場からの物言いだったのかもしれない。だがどちらにせよその余裕に付け込む隙はあると普賢が考えていることまではさすがの聞仲もわからないであろう。
「ありがとう」
普賢は少しだけ笑った。
「あなたは何故そこまで殷にこだわるのかな?妲己によって殷はもはや民の信望はなく、王位継承者もいない。確かにあなたは殷の守護神としてつくしてきたのだから、色々あったんだとは思うよ、でももう事実上殷は終わっているんだ」
そこで一息ついてさらに普賢は言葉を続けた。
「歴史の流れは確実に周に向かっている。だから僕は提案する。みんなで力を合わせて妲己を倒し人間界を浄化しよう!」
その後は二度と人間界には近づかないと誓うからと続けた普賢に対し、聞仲の瞳には一つの揺らぎもなかった。
「普賢真人よ、人には優先順位と言うものがある」
普賢の言葉に答えるように、静かに話し始めた聞仲にはいささかの揺らぎもない。ただありとあらゆるものを捨ててもなお守るべきものとして殷の存在を見つめており、同時に殷の存亡こそが聞仲の全てなのだと理解せざる得ないほどに聞仲の言葉に迷いはなかった。
揺らぐことも迷うこともなく十天君さえをも使い金鰲島も崑崙山も落とす。今になって聞仲が出てきたのは金鰲と崑崙を戦わせ双方の消滅を願っていたからである。その聞仲の狙い通り金鰲と崑崙は互いに戦いあいそして消耗した。現に聞仲を足止めすべく残った二人の仙人は、どちらも王天君のダニに寄生され余命はそう長いものではあるまい。太公望のように守りたいものが聞仲にはここにない。それゆえにこれだけの決断を容易に下せる。太公望があれほど迷った選択肢を、聞仲は簡単に下すことが出来るのだ。そこにあるのは守りたいものがあまりにも大きい太公望と、殷以外に守るもが何もない聞仲の違いだ。育ててもらった恩義も、かつての仲間も、聞仲の目には何も映っていないのである。
聞仲の言葉を聞いて普賢も白琥もはっきりと理解する。この強固な意思は決して崩せないのだと。
いくつもの軌跡を描く鞭の一つが普賢に向かう、前に出た白琥がそれを芭蕉扇で払う。
「哈ッ!」
たかが一撃、ただの一振り、それをしのぐだけで芭蕉扇を手放したくなるほどに力を奪われた。しっかりと動力炉に食い込ませた爪が、ぎりぎりと耳障りな音を立てて動力炉の上をわずかに滑る。白琥の額に冷や汗がにじんだ。
「話は終わりだ、崑崙十二仙普賢真人、そして白琥! 不要な仙人界と共に消えてもらおう!」
聞仲の禁鞭が遠慮容赦なく二人の足場である動力炉を破壊していく。勤勉の軌跡は幾重にも重なりわずか数秒の間に動力炉を簡単に破壊してしまった。
その一撃をしのぐために自身と白琥の周りに太極符印によって斥力を発生させた普賢であったが、その消耗は予想をはるかに上回るものであった。
「普賢!」
「わかってる」
白琥すでに崩壊した動力炉の欠片を蹴って宙へと踏み出した。それを聞仲の禁鞭が追いかけるが、芭蕉扇の力によってわずかな風の動きをも感知し器用に空を飛び回る白琥は、禁鞭をもってしても即座に捕らえることは難しい。くわえて普賢真人の太極符印による引力制御によって白琥もまた守られている。白琥の動きと太極符印は繋がっているために禁鞭が白琥を捉えたと思って弾かれてしまう。
破壊が破壊を呼び、周囲の星は次から次へと落ちた。
白琥が芭蕉扇を大きく振りぬいて生み出した風の刃は、周囲に生み出した竜巻と共に不規則な動きで聞仲に迫る。だがそれすらも一撃の元に叩きのめされ消失してしまえばもはや白琥にも普賢にも聞仲を倒す術はない。
しかしそれで構わないのだ。
聞仲を倒せずともこの場にひきつけておくことが出来れば、それで普賢と白琥の役目は十分である。太公望を逃がしたった二人で残った理由は全てを残る十二仙にひきつけるため。
聞仲が再び禁鞭を振るう。その軌跡はますます鮮烈になっていく。先ほどまで金鰲島を動かし続けて聞仲にもそれなりに疲弊はあっておかしくないはずなのに、そんなものを感じさせない禁鞭の動きに白琥も徐々に押されていく。
「くっ!」
「敵を見誤ったな」
「!」
白琥があと一歩で聞仲に迫る場所まで踏み込んだ時であった。聞仲は白琥を狙っていなかった。不規則な風の動きと共に自在に飛翔する白琥よりも、ひとところに留まる普賢真人を狙う方が圧倒的にたやすいからである。禁鞭があえて聞仲に届く道を作ったのは白琥を引き返せない位置まで聞仲の懐に踏み込ませるため。そしてその背後で引力を制御し白琥に禁鞭の一撃を届かないように防御する普賢真人を叩くためだ。
「普賢!」
普賢も禁鞭の狙いが変わったことにいち早く気づいていた。白琥が叫ぶよりも早く斥力は場を広げ、禁鞭を弾き飛ばそうと構えるが、すでにそれだけの出力がないことを聞仲はいち早く気づいていた。
普賢の斥力の場が破られる。
禁鞭は白琥の呼び起こした竜巻も風の刃も全てを打ち抜いてその一撃は普賢に届いた。
「遅かったな」
普賢に一瞬気をとられた白琥の目前に禁鞭が迫っていた。白琥は反射的に芭蕉扇を構えその一撃を受けたが、宙に留まることかなわず、白琥の四足はが宙を描いてそのまま白琥は星に叩きつけられる。
「ッ!」
息が詰まった。まだ通天砲の一撃で叩きつけられた臓腑は完全に治癒していない。くわえての聞仲からの一撃はもはや避けることもかなわず、そのまま大きく吹き飛ばされた白琥は星にしたたかに叩きつけられて口から血を吐き出した。
「ゴホッ、う……あ……」
芭蕉扇は今の一撃から直撃を防いではくれたものの、もはや完全に壊れていた。飛翔する力を生み出すことも出来ず、白琥は体がずるりと下に落ちていく感覚を得る。この感覚は久しぶりだ。以前、そうずっと昔に修行の最中、同じように壁に打ち付けられて芭蕉扇を手放し落ちかけたことがある。あの時と同じ臓腑が上に置いていかれるような気持ち悪さ。意識を置いて体だけが落下していく不愉快な浮遊感。このまま落ちれば白琥は確実に死ぬだろう。芭蕉扇で飛翔することも普賢に救援を頼むこともかなわない。しかしまだ白琥の四足には力があった。それはもはやほんのわずかなものだったが、それでも、しっかりと崩壊しつつある星を掴み、跳躍するには十分な力だった。
芭蕉扇を手放す。崩壊する星の合間、ちょうどいい場所を見つけ白琥はしなやかに体をくねらせ着地する。その衝撃は全身に痛みを伝えた、骨が折れた感覚もあった。だがこれが最期だ、これが最期の跳躍だ。これさえかなえばもはや体が二度と復帰できないほどに崩壊しても構わない。
ダンッと大きく力強く四足が崩壊する星の壁を蹴った。まっすぐに飛翔する先、それは聞仲と普賢の間。
聞仲はもはや白琥を見ていない、それゆえにその合間に付け込む隙があった。
聞仲の禁鞭がまさに普賢を封神しようとしたその瞬間、聞仲と普賢の間に白琥の体が滑り込む。
「白琥!」
「普賢、今も昔も、これからもお慕い申し上げます、さようなら」
白琥は長いこと生きていた。死は一歩足を踏み外すだけで容易に訪れることを知っていた。だというのに、迫る禁鞭の軌跡が白琥にははっきりと見えて、普賢が手を伸ばしたのも、悲鳴に近い普賢の声も全てはっきりと白琥の脳内に描き出されていた。半妖態では鼻も耳も目も原形に比べてずっと劣るはずなのに、わずかに星の合間から太公望と四不象の姿が見えた。太公望が手を伸ばすのも全て。
大丈夫、全て上手くいく。白琥は初めからこのために存在したのだと半ば核心に近いものを得ながら最期に普賢の顔を見た。
そんな顔をしないで、笑ってといえたらどれほどよかっただろう。だがそれだけの時間はない。だからもう二度と会うことがないことを願ってさようなら、とだけ告げた。
白琥の意識はそこでぷつんと途絶えた。
2018.10.13