目を開くとそこは花海棠の花びらが舞い散る九宮山白鶴洞、普賢の洞府であった。頂上からは滝のように水が溢れ出し、滝つぼには幾枚もの花海棠の花びらが浮かんでいる。
静かだった。ただひたすらに世界は静かで、九宮山から見回す限り視界の届く範囲は霧がかかっていていつもなら見えるはずの崑崙山はどこにも見えない。他の洞府も、修行中の仙道も。
誰もいなかった。普段なら誰かが必ず洞府にいるはずなのに、木タクの姿も、普賢の姿も誰の姿も見えない。
滝つぼの側から灯りが一つもついていない洞府を寂しげに見回す。
(ああ、封神されたのだわ)
白琥は水面を覗き込んでも水面に映らない自分の存在を思う。
(これは魂魄体……もう体は)
手のひらに落ちてきた花びらは透けることなく手のひらの上に重なっていく。それをそっと滝つぼに落とす。
「普賢」
そっと白琥は呟いた。呟くと心の奥底からいくつもの感情が生まれては消え生まれては消える。
「普賢」
白琥は目を覆う。頬を零れ落ちる涙を止めることが出来ない。
貴方が封神されていないことを私は喜ぶべきなのだ。なのにここで一人悠久の時を過ごすのが嫌だと思う自分がいる。
自分が選んだ未来なのに。自分が残した未来なのに。
ぽろぽろと零れ落ちる涙は止まることを知らず、心の奥から溢れる感情に頭が支配されていく。
「くぅ……__う__うぁあ……」
涙が止まらなかった。もう会えないのかもしれないと思うと、この場で今すぐにでも死んでしまいたいと思うほどに、息が詰まって苦しい。
会いたい。
あいたい。
アイタイ。普賢に会いたい。
今すぐ、貴方に____
「白琥?」
その声が聞きたかった。今何よりも聞きたいその声に、白琥ははっと振り返る。
「普賢……」
洞府の扉を開いて出てきた普賢に白琥は飛びついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私、私貴方が封神されればいいなんて__」
「白琥、白琥。ありがとう。おかげで僕は聞仲と刺し違えることが出来た」
「普賢?」
「きっと聞仲は死んでない。でも、そうする覚悟をくれたのは君だよ白琥」
普賢はいつものように微笑んで言う。
「僕はね戦うのが嫌だった。十天君と合間見えたとき、戦わなければならないと理解していたのに結局のところその覚悟は出来ていなかったのかもしれない。でもその時に君は、君だけは望ちゃんと一緒に生かすべきだと思った」
「ああ違うわ、違うの普賢。私は貴方こそ太公望と共に生かすべきだと思ったの」
「それじゃあ僕も君も、二人ともお互いのことを考えてたんだね」
「普賢、ごめんなさい。貴方が封神されればいいなんて思って」
「……僕はね白琥。君が僕をかばったときに、聞仲とは刺し違えてでも、刺し違えることさえできなくても戦わないといけない覚悟を決めた。君が僕を生かしたから。僕は戦えた。白琥、君にもう一度会うことが出来て本当によかった」
普賢の腕に抱きしめられて、もう一度普賢に会えたことがこれほどまでに幸せなことなのかと白琥も普賢の背に手を回す。
「……もう会えないかと思った」
「うん、僕もそう思った。でも死んだときに僕はどこへ帰るんだろうって思ったら自然とここにたどり着いていたんだ」
「私もよ、私もよ普賢。帰りたい場所はいつだってここだったわ。貴方がいるここにたどり着いた、普賢、貴方に会えてよかった」
「うん、僕も白琥に会えてよかった。さぁ中に入ろう。ここは封神された魂魄の意識を反映する場所なんだね。中も僕が思い描いた洞府そのままだった。帰ろう、白琥。また望ちゃんが僕たちのことを必要とするときが必ず来るから、その時まで」
「はい、帰りましょう。その時まで貴方とならいつまでも待てる」
洞府の扉が閉まる。つながれた手は固く固く結ばれてもう二度と離れることはない。
後は歴史の道標が現れるまで、しばらくの間眠ろう。そしてそれが終わったら、もう二度と戦う必要はないのだから、いつまでも平穏に、つないだ手を離さずに。
2018.10.13