西伯侯姫昌、その人徳は市民にもよく知られ、彼が逝去したことを知った市民は自ずから喪に服したという。それだけでも姫昌がどれほど優れた支配者であったかを示しているだろう。できることならば悲しみにくれていたい、そう簡単に父の死を受け入れることはできない。屋根の上でぼんやりと空を見ていた姫発は、しかしそのような暇はなかった。姫昌が死んだ今、次の王となるのは姫発である。すでに殷王朝は傾きつつあり、早急に次の支配者を必要としていた。その王に姫発はなるのだ。ここで泣いている暇はなく、姫発は武王と名乗り改めて周という国を興すことになる。
 王としてのあり方は未だはっきりと姫発の中にあったわけではないが、その使命感だけは確かに姫昌とそして無念のうちに死んだ兄である伯邑考から受け継いでいたのだった。
 武王が王としての決意を固める間、太公望は食客としてではなく本格的に西岐の軍師としての職務につくことになる。朝歌に攻め入るために軍全体の食料や防壁を作るための材木・石材の準備、そして豊邑の城壁強化といった業務を同時に進めていく。幸いにして武成王がいるおかげで、軍の訓練や武力増強のための準備はほとんど彼に任せることが出来た。それはある意味幸いなことであったと言えよう。朝歌と違い西岐は平和であったゆえ、戦に対する心構えがほとんど出来ていない。本来ならばそれでいいのかもしれないが、それでは朝歌とはとても戦うことができないのだ。くわえて西岐はともかく残る北南東の準備が出来なければ、朝歌を包囲し一斉に畳み掛けるという太公望の戦略も意味を成さないのだ。これを成すためにはしばらくの間西岐に聞仲の目をひきつけなければならないことは必須であり、それは必然的に武王を守ることに繋がる。武王という存在がまさに殷王朝への謀反そのものであり、聞仲は必ず西岐を叩きにくるだろう、それが太公望の予見であった。ただ聞仲本人が出向くのかはたまた人間の軍を用いて戦いにくるのかそれはわからない。故に武王が起った今が、仙道たちにとってももっとも緊張する時でもあった。
 休む暇もなく、あちらこちらから報告が上がり、その処理に追われている太公望、多くは周公旦が代わりに担ってくれるが、それでもなかなか戦の準備による膨大な作業は終わりというものを見せなかった。好物のモモを食う暇もなく上げられた報告書に太公望が目を通している時であった。
 こんこん、と窓を叩くものがある。窓を背にしなびていた太公望がその音に気づいて振り返ると、窓の外には真っ白な虎が立っている。

「おお白琥ではないか!」

 太公望はその姿を認めると嬉しそうに窓を開け、白い虎を中に招き入れた。白い虎は少し背をかがめて窓から中に入ると、輪郭が溶け次の瞬間には赤い衣服を実に纏った少女が姿を現す。

「久しぶりね太公望、あんまり元気そうじゃないけど」
「そう見えるなら少し手伝え」
「だってそれ太公望じゃないとできないじゃない。私は今回から本格的に太公望の手伝いをするよう普賢から言いつかって来たわ。もう戦は間近なんでしょう?」
「うーむ、姫発が武王を名乗り、西岐を周に改めた今、聞仲ならば必ずや西岐に攻め入ると睨んでいるのだがな」

 太公望の言葉にはいつもにくらべキレがない。少し迷っているような、そんな口調であった。

「だが遅すぎるような気がしてのう」
「ふぅん?遅いならその分準備に時間がとれていいような気がするけれど」
「まぁ良い方向にとるならばそうなんだが……」

 うーむと悩むように両手を組む太公望。白琥はぽんと太公望が向き合う机に腰掛けて、太公望の頭を悩ませる報告書の山を見る。多くは武成王からの報告であり、朝歌を攻めるに当たって足りないものについての相談のようなものだった。

「軍師って大変なのね」
「まぁのう」

 ふんわりとした白琥の言い方に緊張がほぐれたのか、太公望と白琥の話はやがて他愛のない昔話へと移る。白琥は仙人界から出てくるときにこっそり持ってきた仙桃を太公望に渡すとのんびりと食べながら、かつてのことを思い出すのは太公望にとっても決して悪くはない時間であった。

「太公望どの、ご歓談の最中だが邪魔するぜ」
「失礼いたします」

 ちょうど話は元始天尊さまの黄巾力士を盗み出して人間界へ降りたところに差し掛かったときであった。失礼といいながら入ってきたのは武成王と周公旦の二人で、白琥はぽんっと机の上から飛び降りる。

「先に失礼する、報告書にも上げたんだが部隊の編成に関してちょっと相談があってな、あとで時間をとれねぇか」
「ふむそういえばそんなことが書いてあったのう。その辺りに関しては一任するぞ武成王よ」
「太公望どのがそういうならそうさせてもらうが……西岐は朝歌ほど軍が整っていねぇからな……少し俺も朝歌を習うより新たに軍規を作り直した方が早ぇかと思ってな」
「ふむ一理あるな、少し考えておこう、だが基本は武成王、おぬしに任せようと思う。人間界の戦に関してはわしよりもはるかに今まで蓄積したものが大きいゆえな」

 武成王はそう太公望に言われると「そこまで言われちゃあな」と頭をかく。周公旦の方は西岐の一時的な水不足についての相談で、新たに井戸を掘るために軍の一部を借り受けたいという相談であった。なるほどそれで武成王と共にきたのかと納得しながら、相談を始める。
 どこにどう人員を移動させつつ、守備をどうするか。今や西岐は殷王朝との戦を控えてぴりぴりしている。そんな兵たちの緊張の緩和、必要に応じた切り替えも訓練していかねばならない項目の一つであった。とはいえ政治に長けた周公旦、軍の育成にかけては名のある武成王の二人と太公望がいるのだ、そう長い話し合いになるはずもなく、話はあっという間にまとまってしまう。

「……時に太公望どの、そちらの女人は?」

 ひとまず話が落ち着いたところでそう尋ねてきたのは武成王の方であった。

「うむ、崑崙十二仙普賢真人の弟子の白琥だ。これからは周の味方になる道士の一人じゃ」
「へぇそうだったのか、じゃあ天化の知り合いなのか?」
「天化、黄天化?噂には聞いてますけど、私は道徳さまの洞府にはあまりお邪魔したことがないので……申し遅れましたわ、お初にお目にかかります、武成王そして周公旦。私は白琥、崑崙の道士にございます」

 扇を広げてぺこりと礼をした白琥は、武王・姫発と比べても華奢でか弱く見える。扇は身の丈ほどもあり、下手すれば扇に振り回されてしまいそうなほどであるが、白琥が器用に扇を翻し、背に負うと華奢に見えるというのにどことなく威圧感を感じる。太公望とは違う覇気、といえばいいのだろうか。そういうものが確かに白琥にはあった。

「ところで白琥、周公旦の水の件じゃが」
「ええ承知しております、水不足の件は私にお任せくださいませ」
「__太公望どのよろしいので?」

 周公旦は少し不安げに尋ねたが、太公望が任せておけというと何か納得したように頷いたのであった。

「ご安心くださいませ周公旦、私の宝貝は雨と風を自在に操りますわ。一時的な水不足の改善でしたら私ほど適した人材はいなくってよ。それに井戸を掘るお手伝いもできますし」

 大きく弧を描きながら振りかざした扇から生み出された風がふわりと武成王と周公旦の髪をなびかせる。どことなく不思議な気を感じる扇であった。武成王も周公旦も只人であるので宝貝には触るわけにはいかないが、仙道が持つことによって奇跡を起こす道具、宝貝を前にして納得しないわけにもいかないだろう。どんなに華奢に見えても白琥は道士なのである。

「それでは後ほど」

 簡単な約束を取り付けた後、武成王と周公旦の二人は下がり、再び部屋には太公望と白琥だけになる。だがのんびりと会話をしている間もなく次に入ってきたのは、先ほど話に上がった黄天化その人であった。

「おお天化よ呼び出してすまなかったのう」
「いいさ太公望師叔。それよりそっちは誰だい」
「はじめまして黄天化、道徳さまの弟子でしたか?私は普賢の弟子の白琥と申します、よろしくね」

 白琥はにっこりと笑って手を差し出す。天化はその手をとって「おうさ、俺っち、道徳師匠の弟子の黄天化さ、名前だけは聞いてる」といい握手を交わした。

「ふむ、そうかそうかそうなると白琥はまだ顔を合わせていないのが多いのう。雷震子はともかくナタクと楊ゼンにもまだ会ったことはあるまい」

 太公望が言うと白琥は首をかしげた。

「ナタク、は太乙さまのおつくりになった宝貝人間だったかしら、楊ゼンとは顔を合わせたことがあるわ。昔のことだけど」
「そうか、まぁよいおいおい顔を合わせることになろう。ところで今後のことなのだがな」

 ふと太公望は声を潜めた。それはまるで誰が聞いているか分からないから誰にも聞かれぬようにと行った様子で、白琥と天化は顔を見合わせると自然太公望の近くに寄る。

「まず白琥よ、おぬしは先ほどの話どおり軍の一部を率いて山間地区へと向かい水不足を改善せよ、次いで軍のための水を得るために予定地区の井戸を掘る準備もな。その後だが、そのまま市井におれ」
「ここに戻らなくていいの太公望」
「うむ」

 太公望は腕を組みながら言葉を続ける。

「そして天化よ、おぬしは誰にも気づかれぬよう武王の護衛に立て、このことは決して口にせずにな」
「太公望師叔が言うんだから待ちがいないっしょ、俺っちは全然かまわねぇけど理由を聞いてもいいかい」

 天化はそういいながら煙草を口から離し、ふーっと煙を吐き出す。

「少し朝歌の動きが気になってな。そろそろ聞仲なり軍なりが動いてもよさそうなところ、なかなか動きがないのがむしろ不気味なのだ。もしやすると聞仲の奴、金鰲島と何かあったのやもしれぬ、とすれば聞仲ではなく直接仙道が武王の首をとりにくるかもしれぬ。そうなった時に武王には護衛が必要だが……」
「間諜の存在を疑ってるってわけさ?」

 天化がそう太公望に尋ねる。

「うむ、おぬしたちを疑っているわけではないが、それでも常に情報は洩れていると考えた方が最悪の場面を想定しやすい。故に天化よ、おぬしは誰にもばれぬよう武王を護衛するのだ。他にも武王の護衛は勿論用意するが、仙道が直接仕掛けてきた時はおぬしの腕にかかっておる」
「そういうことなら任せておくさ!」
「頼むぞ天化よ。そして白琥、おぬしは万が一仙道が攻めてきた際に市井にて市民を守る役を頼みたい」

 太公望は今度は白琥に話しかける。

「九竜島の四聖のように直接西岐に仕掛けてくる仙道がいる可能性があるってことね」
「そうじゃ」

 白琥の言葉に太公望は大きく頷く。

「仙道の攻撃はとてもではないが人間の軍では相手にできぬ。だがおぬしの芭蕉扇があれば大半の攻撃はしのげるじゃろう」
「そういうことなら任せなさい、それじゃあ私はしばらくの間市井に潜るわね」
「うむ、あとは任せるぞ二人とも」
「任せるさ師叔、それぐらいできなきゃ師匠の名が廃るってもんさ」

 天化の言葉に太公望は大きく頷いた。

「では白琥は早速周公旦に話をつけ、武成王の元へ向かい軍を率いて山間部へ向かってくれ、武成王の方に井戸の採掘に当てる人員を任せておるでな。その後は出来る限り隠密にこちらへ戻ってくることも忘れずに頼むぞ」

「任せて、それじゃあ急がないとね」

 白琥と天化はそう言って太公望の元を去る。再び一人となった部屋の中、太公望は天井を見つめポツリと呟く。



「さぁどう動くのだ、聞仲そして妲己よ」


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2018.09.10