抜き損ねた歯

かつて麦わらの一味と出会うきっかけになった嵐とは打って変わって静けさを湛えているグランドラインに、再び一人残されたミズキは先ほどまで鯨がいたはずの海面を見つめてからバタンと仰向けに倒れこんだ。
ここはグランドライン入り口の双子岬である。水と一緒に一気にレッドラインを下り降りた先、その滑り台の両側に二つ全く同じ形の岩が突き出すように並んでいるからそんな名前になったそうだが、グランドラインの全てを網羅したような地図などそもそも存在せず双子岬と呼ぶのは案外この近くの島に住む人だけなのかもしれない。
どうも船ごと鯨に飲み込まれてしまったらしい麦わらの一味においていかれたミズキは、いつまでも海に浸かっているわけにいかなかったのですぐ傍にあった双子岬によじ登ったのだ。ぽつんと立っている灯台には鍵がかかっていて、どうも人が住んでいるようだが何度呼びかけてもその呼び声に応じる者はいなかった。
電伝虫なんかいちいち持ち歩いているわけもない。海に潜った鯨の腹の中の船と連絡を取る手段なんて、というかそんな必要があるなんて考えたこともなかった。魚人であるならば鯨を追いかけて潜っていくことも出来るが、今の人間の姿ではあれほどの鯨を追いかけて潜ることは不可能だろう。あれは多分アイランドクジラの一種だと思うが、生態事態は非常にマッコウクジラに似ているのである。一旦潜るとなれば数千メートルの潜水もものともせず、潜水時間は数時間に及ぶ。魚人ならいざ知らず、いくら息を止めるのが得意とはいえ人間では限界がある。うっかり引き込まれでもしたらミズキだって生きて再び太陽を見ることは適わないだろうし、そもそもあの巨体ではこちらが何を仕掛けたところでさしたるダメージにはなりえないだろう。



ゆっくりと雲が動いていく。ミズキはしばらくの間そうやってじっと雲を見つめ続けていたが、ふいに体に奇妙な振動が伝わってくることに気がついた。


「・・・・?」


ズズゥ・・ン
よくよく耳を澄ませばびりびりとかすかに空気まで震えている。
ミズキは長柄を構えて立ち上がったがその振動は一体どこから来るものなのかはわからない。重低音がゆっくりと体の奥底の内臓にまで響いてくる。
(水中?)
ミズキがようやっとその音の出所を体で感じ取ったときは、すでにあの鯨が水面へ躍り出るまさにその瞬間だった。激しい水しぶきと共にあの傷だらけの頭が飛び出てきて、その巨体がミズキに影を落とした。海に浮いていたら本当に島かと見間違うほどの大きさを持つこの鯨は本来群れで世界の海を回遊しているはずだ、そういえばなぜこの鯨だけ・・・・ミズキがそう思うと、それに答えるかのように鯨が口を開ける。あの馬鹿でかい声をこんな至近距離で聞かされちゃ今度こそ耳がいかれると、ミズキは慌てて耳を塞いだが、彼の意に反してその喉の奥からは何も出てこなかった。その代わりにバタンとそれこそ効果音でも聞こえてきそうなほど清清しく、鯨の体側面がまるで扉のように開いたかと思うとその中から帆を張っていないメリー号が出てきたのだった。


「お!ミズキの奴あんなところにいたぞ!!」

















「つまり・・・・・帰って来ると約束した仲間をもう五十年もここで待ってるってわけか」


ふー、と言葉と共に吐き出された白い息は潮風に呑まれてすぐに消えた。サンジは丸太で作られた机に腰かけて、まだ鎮静剤が効いているせいか静かに浮き沈みを繰り返す鯨を見る。


「五十年かー。随分と待たせるんだな」

「馬鹿かお前、そんで、おい。お前はなんで泣いてるんだよ。今の話のどこに泣く要素があったんだよ」


能天気と言おうか、ポジティブと言おうか、とにもかくにも普通なら考えにくいルフィの発言の合間合間には緊張感を欠く涙交じりのしゃっくりが混じっていた。冷静にまずはルフィにツッコんで、それからミズキにツッコんだゾロだったが、次の瞬間自分のシャツで鼻をかまれて反射的に怒鳴り声を上げた。
えぐ、えぐと涙と鼻水と最早顔から出るもの全てでぐちゃぐちゃになった顔のままミズキは「だっでよォ゛」と情けない声を上げるのだ。


「そ、そそっ・・そんな、ん、ヒック・・せ、せせ、せ切ないっじゃん」


それにラブーンもないてるから貰い涙だよォ、とミズキが言ったところでふいにクロッカスが顔を上げた。


「なんだ、お前さん人間かと思っておったが、魚人か」

「・・ヒック・・うん・・・半分」

「なんだおっさん、なんでわかるんだ?」


相変わらず涙が止まらないミズキの言葉は聞き取りにくかったが、クロッカスはそのミズキの言葉を純粋に「半魚人」と捉えたのだろう、納得するように頷いてルフィの方を向いた。


「魚人というのは生来言葉を持つだけでなく、魚と意思疎通をすることができる種族だ。通常は同種の魚とのみ話す・・・・我々がするように話すわけではないが・・・・とにかく同種の魚とのみ話すことができるが、他の魚と話せないというわけではない。貰い涙、ということはお前さんラブーンが何を思ってるかわかるということだろう」

「わかるというよりは、なんとなくなき方が悲しいんだよ」


ミズキの言葉は涙に混じった鼻声であまりにわかりにくいから少しだけ分かりやすくさせてもらおうと思う。


「おれは魚人といってもチョウチンアンコウの魚人だから、こんなおっきな奴とは話せないし、こっちが語りかけても向こうだって聞こえない。でもその代わりこれだけ大きな声でなかれればなんとなく感情が流れ込んでくるんだ。まさに貰い泣き、だろ」


大の男が泣いている姿はなんとも見苦しい。女の姿で泣くならまだ花にもなるだろうに、ゾロよりも身長が高い、しかも体格のいい男ではとりあえず海に投げ捨てたい。
だが、ミズキのこの泣き虫と言おうか、とかく涙もろい性質は彼女自身(彼自身)の単なる正確に由来するものではなかったりする。あくまで一部に彼女の性格も由来するが、実のところ魚人全般にこの涙もろさ、つまりは何かしら感情が高ぶると涙を流しやすい性質があるのだ。
空気中での生活と異なり水中で生活するということは浸透圧による影響からどうしても逃げることはできない。その代わりに重力の影響が極力少なくなっているという言い方もできるが、水陸両用の魚人にとって重力がどうこうよりも、最も影響が大きいのがこの浸透圧である。魚人の海中における生活を言い表すならばそれは「魚人は海中で生活するに当たって体内の水分を奪われるため、水分を得るため海水を飲む必要がある」であり、この問題点は「海水を飲むため体内の塩分が過剰になる」である。この塩分排出はいたるところで行われるがその一部が涙だ。ウミガメが産卵時に涙を流すように見えるのと同じように、ミズキが涙を流すのは体内の浸透圧を調節しているためなのである。
それ故、魚人島においては男女性別を問わず「泣く」という行為は直接的に「恥」に繋がることはない。たとえどんな大男が転んだだけで泣いたとしても、それはあくまで身体的機能の一部であり決して恥ずべき行為ではなかった。勿論全ての魚人がそうではないし、人間の男の姿のミズキが泣くのは性格に由来するところが大きい。ただ、魚人とはつまりそういう生き物なのである。このことは実は食生活や飲料に関する問題とも深く関わるのだが、そのことはまたいずれということにしておこう。










・・・・・クロッカスの話を聞いた後のルフィの行動は、航海の一切を任されているナミからすれば思い出したくもない事実、だそうだ。ぼっきりと折れたマストを前に、これからどうやって進むのよぉぉぉと嘆くナミにかける言葉もない。


「そうだ、おいミズキ

「ん?」


ルフィがナミにぼっこぼこにされているのを生暖かい目で見ていたミズキだったが、ふいにゾロに呼ばれて振り返ると目の前に一枚の紙を突きつけられた。


「本当はもっと早く渡さなきゃなんなかったんだがな、すっかり忘れてた。ココヤシ村の医者のじーさんに渡されたもんだ。お前宛だと」

「おう。悪いな。どれ」


二つ折りにされた紙にはさほど達筆でもない、癖のある字が並んでいる。


「へー・・・・」

「いや、へーじゃねぇだろ。痛くねぇのかよ」

「そういやそんなこともあったな・・・・ぐらいだよ。別に痛みないし」


ミズキは駆動を確認するように左肩を持ち上げる。
手紙には、アーロンに噛み付かれた際その歯が肉に食い込んでしまったこと。そしてココヤシ村の医療設備では取り出せば出血死の可能性が高く取り出せなかったこと。すぐに命の危険はないが、体内の異物がどのような影響を及ぼすかわからないから早めに医者を見つけて摘出手術を受けるように・・・・・
それだけのことがつらつらと並べられ、そして最後に「ありがとう」とだけ書かれていた。ミズキもゾロもあえてその最後の一行には触れることをしない。


「医者ね・・・・ま、航海にはどうしても必要だよな」


ミズキは紙を見つめながらぽつりと呟いた。








2012/12/16 Back Home Next  
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