何も変わらない。
こちらを向いたアーロンの瞳は、怒りに満ちているといったレベルではなかった。完全に瞳孔が開ききり、最早周囲の仲間が制止をかける声すら耳に入っていないだろう。完全に開ききった瞳孔は、何度も何度も銛を打ち込まれ怒り狂った海王類が見せるそれと同じだった。だが、
ミズキとて自分が行った言葉がアーロンにどれだけの影響を与えるかはよく知っている。いや、むしろそれ故に挑発したのだ。
アーロンが完全にこちらへ振り向いたときには、
ミズキはチュウをも振り払いすでにその場にいなかった。華奢な身体でよくそれだけの力が出せると感嘆されるほど、渾身の力で地面を蹴ってアーロンの後ろへ回る。すでに勢いのある長柄武器は空を切ってアーロンの体をなぎ倒そうとするが、彼が一歩踏み出して力を込めるだけで相殺されてしまった。動きを止めれば死ぬから、
ミズキはアーロンの身体に支えられるように止まった長柄を足場に今度は彼の真上に飛ぶ。
「百枚瓦、正拳!!」
以前魚人空手の真髄は周囲一体の水の支配であると説明したが、細かな各技を考えていくとその効果や迎撃範囲は多岐にわたるものであることを理解していただけるだろう。
ミズキがよく使う百枚瓦は魚人空手の中でも初心者から上級者まで幅広く使われるもので、技の特徴として当たりハズレがないことが上げられる。実は千枚瓦やそれ以上となると空気中の水の分子を伝わる振動がうまく伝わらなかっただけでまるきり効果を示さないことすらあるのだ。七武海ジンベエほどの使い手となると砂漠地域でも軽く千枚瓦を使ってくれるだろうが、あれは湿度が低ければ低いほど難易度が上がっていく。空気中の水の分子と分子がぶつかる瞬間に移動する振動が、確実に敵に届くかはまさに使い手の技量にかかっているというわけである。
ミズキの魚人空手は不完全だった。彼女が魚人空手を教えてもらった当時は、
ミズキの身体はまだ成長過程にあり、あまり激しい技や身体に負担の大きい技を教えることができなかった。そして魚人空手を全て会得する前に彼女は一人海に出てしまったため、千枚瓦やそれ以上の他の技を彼女は見よう見真似でしか使うことが出来ない。アーロンと戦わなければならない今、その事実が最悪の結果を呼び寄せかねないが、魚人空手は極意を知らずに使えば身体を壊しかねない危険性も孕んでいる。
ミズキはさして効いた風のない正拳に苛立ちを隠せず、荒い息のまま地面に転がった長柄提灯を拾った。
真正面から振り被られた拳はさすがに目で見ていれば避けられる。だが、その後の一千枚瓦回し蹴りを見切りきれずに長柄で真っ向から受け止めるも力の差は歴然としている。そもそも魚人空手は振動が最大の武器だ。触れなくても相手を倒せる魚人空手の攻撃を受けたらどうなるか・・・・
ミズキの手から一瞬で弾かれた長柄は宙を舞ってガァンと地面に転がった。それでも殺しきれない振動は彼女の体内に多大なダメージを上げて、
ミズキは食いしばった歯の間から微かな悲鳴を漏らす。
「・・・・!!」
「
ミズキ!逃げろ!!」
一瞬痛みで目を瞑った
ミズキの耳にクロオビの叫び声が届いて、どこにアーロンがいるかなど確認する前に、彼女は身体を傾け転がる。後から耳に届いたのは固い石の壁があっさりと崩壊する音で、さすがに冷や汗が流れた。だが動き続けなければ。
転がった勢いで、起き上がって走って長柄をもう一度手に掴んで今度は壁を背にする。そうすればアーロンは確実に真っ直ぐに向かってくるのだ。
ミズキはその時ルフィたちと会ってから一度も灯りをつけたことの無い、長柄の先に鎖でぶら下がっている提灯を光らせた。ぼぁっ、と青白い光が一気に提灯から漏れて明るく太陽が照る昼間だというのにやけに人の目を惹く。アーロンもまた一瞬だったがその光に惹かれ、意識が
ミズキから逸れた。それは本当に一瞬のことだったけれども、すでに間近に迫っていたアーロンの懐に
ミズキが潜り込む隙を作るにはあまりに充分すぎる時間があった。
「魚人空手__ひゃくま「鮫瓦正拳!」・・・ッ!!」
ミズキが何が起きたのかようやく理解したときには身体は受身もとること適わずに固い地面に叩きつけられていた。息が詰まって、痛みのあまり吐きそうで、目の前がちかちかする。真上に広がっている空は確か青かったはずなのに、やけに色が褪せて見えるのは何故だろうか。アーロンの気配がどんどん近づいてくるのはわかっている。わかっているのだけれど、身体を動かす気力すらも先ほどの一撃で殺がれてしまったかのように指先をぴくりとも動かすことができなかった。
「アーロンさん待ってくれ!!
ミズキは__」
「チュッ!!こりゃあ力づくで止めるしかねぇか!?」
周囲がいくら必死でアーロンを止めようと声をかけても彼の歩みは一向に止まらず、ついに
ミズキの視界にアーロンの足が入る。その頃にはようやっとのことで麻痺していた
ミズキの感覚が戻りつつあり、彼女は必死の思いで身体を起こしたが一歩遅かった。
首をつかまれ、持ち上げられてしまえば己の体重とアーロンの掌が首を絞めて息が出来なくなる。
「かっ・・・!!あ・・」
声もでない。暴れたくても身体の感覚が先ほど戻ったばかりだというのに、さらに首を絞められてはもう碌な抵抗もできなかった。段々と欠けてゆく視界の中で、
ミズキの瞳を捉えたのは相変わらず瞳孔が開ききったアーロンの目だった。
逃げない、と決めたのは自分だったけれども、結局力の差で何も出来ないまま終わることに価値はあったのだろうか。薄れゆく意識の中で
ミズキはぼーっとしながらそんなことが思考回路をぐるぐると回る。昔と、同じじゃないか。そう思ったらなんだか力が抜けて今こうしていることが馬鹿馬鹿しくなった。目を閉じてもいないのに徐々に暗くなっていく視界にはほとんど何も映っていない。
だが__
ミズキの意識が完全にブラックアウトするほんの一瞬前に、アーロンは突如
ミズキの首から手を放し、結果彼女は足から地面に崩れ落ちた。一気に肺に流れ込んでくる空気を美味しいと感じたのは初めてのことではないだろうか。何度も何度も大きく息を吸って吐いて、吸って、吐いて。ようやっとのことで顔を上げるとアーロンはすでにこちらを向いていない。それだけじゃない。アーロンだけでなくハチも、クロオビも、チュウも、誰もがアーロンパークの屋根の上を睨みつけていたのだ。
「!?」
ミズキも荒い息で呼吸をしながらそちらに視線を向けると、そこには何の因果か知らないが奇妙な縁を持つことになった男がひとり。
「・・・・・女一人・・・見捨てていくわけにもいかんだろう」
「・・・げほっ・・・サンジの騎士道の方がよっぽどよかったわ」
生意気な口だけは顕在か、と屋根から飛び降りたリョウガは先ほどアーロンの腕を深く抉り地面に突き刺さったバンダナを拾う。
「まだ動けるか」
「当然。あたしを誰だと思って・・・・」
立ち上がった瞬間下手に力を入れたせいで猛烈に痛んだ肋骨。
ミズキは強がりで言葉を続けることすら出来ずにぜぇぜぇ言いながらなんとか痛みに耐える。
リョウガはそんな
ミズキを見てもう戦えないと判断したのだろう、彼女とアーロンの間に入るように立ちはだかるとヌンチャクを片手に構えを取ればアーロンも無駄には突っ込んでこない。だがその片手がいつの間にか濡れているのを見て、
ミズキはリョウガを押しのけ前に出て傷口の血をすくうとアーロンが腕を動かすのと全く同じ動作で血で濡れた手を振り被る。
「「撃水!!」」
二人の手から水がまるで銃弾のように猛烈な勢いで跳んだのは、二人の声が重なった瞬間だった。ドォン!と激しい音。これがほんの少量の水がぶつかる音とは信じ難いほどの衝撃が周囲に走る。
「ニュ〜
ミズキの奴、アーロンさんの撃水弾き返しやがった!!」
「ああ・・そういえば
ミズキは撃水が一番得意だったな」
「ジンベエ直伝の撃水だ。チュッ」
魚人が好んで使うこの撃水という技は、筋力とそれから何よりも水を弾くタイミングによってその威力が大きく変わってくる。アーロンは生まれ持った鮫の筋力を利用して撃水を放ったのなら、
ミズキは最も勢いがつくタイミングを狙って撃水を放った。結果その威力はアーロンも
ミズキもほぼ同じで、放たれた撃水はちょうど二人の中間地点で爆散した。周囲に飛び散る水はもう何の威力も持っていないが、血が混じったそれを
ミズキは嫌そうに拭う。
「リョウガ、兄貴を舐めてると死ぬよ。兄貴に捕まったら最後だと思って」
「・・・そのようだな」
リョウガは目の前で見せられた人間業とは思えぬ一瞬の攻防にため息を吐くと改めて
ミズキに並びアーロンと向かい合った。
リョウガは、恐らく人間にしては耐えた方だろう。
アーロンの拳を真っ向から受け止め、さらに一撃を加えたのだから。本当はそれだけでも十分であろうが、あいにくとそれはさらにアーロンの頭に血を上らせる要因にしかならなかったようだ。
「この・・・!!下等種族がァァァァッ!!!」
怒声を浴びせられるとつい涙が出てくる。泣き虫は相変わらず治っていないようで、
ミズキは涙を拭いながら後ろに跳ねて弾き飛ばされたヌンチャクをかわした。移動するだけでも足の裏から結構な衝撃が伝わってきて身体がしびれる。
「!リョウガ!!避けろ!」
彼女が叫んだお陰か、それとも単にリョウガの勘が良かっただけか知らないが、アーロンと互いに互いの拳を掴みあったままだったリョウガは即座に身を翻して地面を転がる。先ほどまでリョウガが立っていたところに突き刺さったのはアーロンのあのぎざぎざの鼻で、リョウガは思わず鼻を押さえた。人間からすれば考えられない身体能力は魚人の持ちうる存在価値を高めている、というのがアーロンの持論だが、ここまで地力の違いを見せられてしまうとその偏った意見にもどこか頷きたくなってしまうのはどうしてだろうか。とはいえそれは他者の尊厳を奪っていいという論に繋がるから否定せざる得ないのだけれども。
バックステップで下がると重心がずれて前に出にくくなる。頭に血が上っていて怒りのままに暴れているのかと思いきや、そういうところをしっかりと見ているから嫌になるのだ、と
ミズキはアーロンの拳を避けること適わず受けるしかなかった。踏ん張るよりも力と同じベクトルで跳んだ方が威力を軽減できるから、
ミズキは最初からその場に留まることを諦める。だが、それが失敗だったかもしれない。
「!!」
ちょうど
ミズキが跳んだ方向にはふらふらと立ち上がったリョウガがいて、恐らくはアーロンはこれを狙っていたのだろう、二人は思い切りぶつかって弾き飛ばされ地面の上を転がった。
「・・・ァッ・・・!!」
ミズキの方はリョウガがクッションになったが、クッションにされた方のリョウガは溜まったものではない。女とはいえアーロンの一撃による勢いがついた重みは並大抵のものではない。
「さ・・・っさとどけ!」
「・・・ごめ・・・」
ぼそっと呟いた
ミズキは長柄を支えに立ち上がってアーロンを睨みつけた。
力の差は歴然としていたが、それでも二人分の攻撃は少なくないダメージをアーロンに与えている。腕についた彼の巨体からすれば細かな傷は確実に腕の駆動を遅くしており、恐らく魚人空手はもう使えないだろう。いや実際には、腕が壊れることを覚悟すれば使えなくも無いのだ。とはいえそれはリスクがでかい。
さぁ、どうしようかと
ミズキが血の足りない頭で思ったときだった。
ゴッ、と鈍い音がして振り返るとリョウガがクロオビに蹴り飛ばされ海に叩き落されたところだった。激しく上がる水しぶき特にそれを追う者はなかったからそのうち浮かんでくるだろうが、予想もしない横槍に
ミズキは目を丸くする。
一方でアーロンにバケツの水をぶっかけたのはハチだ。
「アーロンさん!!もうこれぐらいでいいだろう。あんた、かつての同胞を殺す気か!?」
クロオビの言葉と、冷たい海水でようやっとのこと頭に上った熱が冷めたのか、アーロンは二三度瞬きをして、目を掌で覆い何やらうめき声を上げている。そしてようやっと瞳をこちらに向けたときには彼の目はいつものそれに戻っていた。
何も解決したわけでもないのにほっとしたのは、先ほどから全身を喰らい尽くそうとしていた殺気がなくなったからだろう。結局、何も変わってない。
ミズキは唇を強く噛み締めた。
2012/07/15
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