グランドラインの嵐と巻き込まれた青年?
「あ゛あ゛ぁあぁぁァァアああ!!!」
叫び声は波にかき消されて、誰にも届かない。いや例えここが静かな海だったとしても見渡す限りの周囲には船の一隻も島の一つも見えないのだから所詮彼の声は誰にも届かないだろう。開けた口に塩辛い水が流れ込んできて、げほっとむせる。息を吐き出すということは同時に吸い込むことでもあり、むせて吐いた空気を取り戻そうと口を開けても入ってくるのは水だけだった。
「ぶききっぶきっ!!」
男の手に豚が噛み付いて、一瞬飛びそうになった意識が浮上した。ぶへぇと激しい波間から何とか顔を出して、先ほどまで乗っていた船の残骸にしがみつけば、何とか呼吸が出来る程度には浮かんでいられる。
なんて厄介な体なのだろうか!疲労のせいで体はだるく、熱を奪われた手足は震え始めている。人間が活動するに当たって、体は資本だが、こうもなると最早邪魔者でしかなくいっそ魂だけになって動けたらどんなに楽かとも思う。それは死んでいるんじゃないかという突っ込みはあいにく誰にもされず、男はしばしそのことに思いをめぐらせていたのだった。
水を被れば息ができない、手を動かしても水が抵抗する。思うように動けず、結局波に流されるだけの状態の中で、男はついに泳ぐことを諦めたようだった。
「Pちゃん、絶対に流されるなよォ!!!」
「ぶきっ!」
黒い豚は男の洋服に喰らいついた。男はこれだけ雲が空を覆い隠し暗い中でもなお白銀に輝く髪を掻き揚げ、ぎゅっと板切れにしがみついて嵐が去るのを待ったのだった。
空は青く晴れ渡り、風がさわやかに吹いている。潮を纏ったそれはちょっとべたべたするが慣れてしまえばどうということはない。
羊の頭の船首を持つゴーイング・メリー号は、ルフィ、ゾロ、ナミ、ウソップと何の因果なのかは知らないが、ゾロと知り合いだった飛び入り参加の賞金稼ぎジョニーとヨサクを乗せてゆっくりと進んでいく。彼ら二人が唐突にこの船に乗り込んできたときは少々焦ったが、壊血病という病を彼らが教えてくれたおかげで、この船の少々考えの足りない船長にも食事の重要性と言うものがよくわかったらしく、彼らは今コックを探しての航海中である。イーストブルーの風はどこまでも穏やかで、ナミは何を気にすることなく海上レストランバラティエのあるという方角に目をやり、それから空を見た。
「進路、よし」
ナミが小さく呟けばそれに応えるかのようにメリー号が一つ波を越えてかすかにギギィと木と木がこすりあう音が聞こえる。何の問題もない順調な航海だ。
「いっやー・・・それにしても・・・やることねぇなぁ・・・おいナミつまんねぇぞ」
そう、なんの問題もない、というのはあくまで航海士であるナミが思うこと。冒険と騒がしいことが大好きなこの麦わらの一味の船長、ルフィはこれが順調な航海だとは欠片も思っていない様子である。それも当然だろうか。身一つで海に出て、いきなり渦潮に飲み込まれるもそれを樽に入ってやり過ごし、さらに航海術も何も持たずにグランドラインに行くんだというルフィの度胸は並大抵のものじゃない。彼はきっと嵐が来て風が吹き荒れ今にも船が横転しそうな時、もしくは全く未知の島で得体の知れない存在と遭遇するとき目を輝かせて喜ぶのだろう。ナミはあくまでこの一味とは一時の契約関係のつもりで、多くを詮索するつもりは毛頭なかったのだが、詮索する必要もないほどにわかりやすい船長ルフィの行動パターンにそろそろ頭が痛くなりそうだった。
「やることないって・・・だったら航海の勉強でもしてなさいよ。あんたそんなんじゃいつか死ぬわよ!?」
つい先ほど、ヨサクが壊血病でこの船に運び込まれたときにもルフィとウソップの二人に言ったが、すでにそんな記憶はどこか遠い彼方においてきてしまった様子のルフィに、ナミは声を荒げる。が、当のルフィから返ってきたのは笑い声だけだった。ため息を吐いたナミに、そんなこと言うだけ時間の無駄だぜ、とゾロが刀を研ぎながら言う。ゾロもまた、話を聞く限りではルフィとの付き合いはあまり長くないようだが、それでも彼のあっけらかんとした性格をよく見抜いているようだった。かつて海賊狩りと呼ばれた彼がこの船に乗っている理由、それを知っているのは当の本人に船長のルフィともう一人コビーという少年だけだ。ナミ含めヨサクやジョニーも気にならないわけではなかったが、お互い詮索しあうのは趣味ではない。わかる範囲でわかればいいのだ、と思い直してナミはゾロの言葉にため息を飲み込んで代わりに大きく伸びをした。
「本当にそうね。ま、いいわ。当分は気候も安定しているみたいだし。次の目的地に着くまでは私もゆーっくりして・・・・・・?」
「どうした?ナミ」
ナミの言葉は変に中途半端なところで途切れて、それを奇妙に思ったウソップが振り向いた。先ほど少々問題を起こしてしまった大砲を掃除していた彼は、とりあえずキリのいいところまで手早く煤を払ってしまうとボロで手を拭きながらナミの隣に立つ。ナミの視線を指で追って、追ってその先にナミが何を見たのかウソップもようやく理解した。
「そそそそそ」
「そ?なんだよウソップ」
「そそそそ遭難者だあぁぁぁぁぁ!!!」
遭難者、とはまたこんな海で奇妙なものだ。あん?とさすがのゾロも顔を上げて、刀を鞘に納めると立ち上がる。空は、快晴。近くでサイクロンがあったわけでもないだろう。こんな海に遭難者なんかいるものかとも思うが、実際目を凝らせば遠く波の間で板切れに掴まって揺れているのは確かに人だった。あの姿勢、まさか泳ぎの練習と言うわけでもないだろう。
「まじでか!?どこだっどこに遭難者だ!!」
「なんであんたはそんな楽しそうなのよ!!ちょっと!ヨサク、ジョニー!船動かしなさい!!」
ナミはすばやくあんぐりと口を開けていた二人に指示を出す。最初はどうにもきな臭い女だとは思っていたが、この航海術だけは何の知識もないゾロでも認めざる得ない高度なものである。まだ短い付き合いだが、航海に関してナミに従っておけば問題ないだろうことは恐らくこの船の誰もが理解していることだ。まあそれは人間性に関しても信頼するに足るか・・・ということとは全くの別問題であるのだが。ルフィはともかく、ゾロはまだこの女の子とをあまり信用していない風である。
「「ラジャー!ナミの姐御!!」」
二人の声は見事にシンクロした。どたどたと足音が響いてすぐに船は進路を変え波を切って遭難者の下へ動き出した。麦わらを被った髑髏のマークの帆があまり元気がないのは風を受ける位置があまりよくないからだろう。順風であるならともかく、帆船はこういうときに不便さを感じる。じれったいわね、とナミが思った瞬間、板切れにしがみついていたその人間はとぷんと海の中に姿を消した。手品でもなんでもない、恐らくもう体力が限界だったのだ。
「おいおいおい!!ありゃあまずいんじゃねぇか!!?」
「GO!ゾロ!!」
「おう・・・っておれかよ!!」
ナミのまさかの無茶振りにゾロは怒鳴りつつも三本の刀を半ば投げるようにルフィに預けて、そう勢いをつけることなく手すりを越えて海に飛び込む。ドボン、水が跳ねて気泡がゾロの周りを取り囲んだ。視界が真っ白になったのも一瞬、次第に晴れゆく青の世界の中で、白銀の髪が輝きゾロは水を蹴った。冷たすぎもせず、かといって生ぬるく気持ち悪いわけでもない。長時間浸っているには少々きついが、こうして泳ぐには随分と楽な温度だ。
ゆらゆらと海中で揺れる白い髪は人間のそれであるはずなのにまるで人間でないかのような色味と輝きを持っている。伸ばして捕まえた手は、見かけよりずっとしっかりしていてしっかりと鍛えられているだろうことを伺わせた。ぼごっと口から息を少しだけ吐き出して、ゾロは男を肩に抱えもう一度勢いよく水を蹴るとゆらゆらと光が揺れる海面がすぐに近づいてくる。後、少し。水が跳ねて光が目を射すように飛び込んできた。
「ぶはっ!!」
大きく息を吸い込んだゾロに対し、肩に担いだ男はぴくりとも動かない。冷たいのは単に自分も海に入って温度がはっきりとわからなくなっているせいか、それともそれほどまでにこの男が熱を失っているせいか。どちらかと言えば後者な気がして、ゾロは男が落ちないようにしっかりと支えたままゆっくりとメリー号に向かって泳ぎ始めた。船ではゾロの姿を見つけたウソップがすぐに浮き輪を投げ落としてくれる。とりあえずそれに掴まって、ルフィの名を呼べば、すぐに船から船長の手が伸びてきてゾロとその男を掴んで甲板に引っ張り上げたのだった。とはいえあの船長のことだ。何もかも勢いで済ますため、当然のことながら二人を引っ張りあげると言ってもほぼ投げ上げた状態である。空高く舞い上げられて、当然今度は重力に従い落ちるしかない。冗談は程ほどにしてくれと思いながら気絶して受身も取れない男をまさか放置するわけにも行かず、ゾロは男を抱えたまま両足から着地した。びりびりと激しい衝撃が足の裏から足の骨、そして腰から背中に走ってゾロは盛大に顔を歪めた。痛ッー!!と声になったようなならないようなよくわからない悲鳴を上げて、ゾロは男を甲板に投げ出し膝をつく。
「おいっ!!おい大丈夫か兄ちゃん!!」
肌には生気がない。ウソップがぺちぺちと頬を叩いても反応がなく、ナミは即座に男の鼻を押さえて口に息を吹き込んだ。その間にもウソップとルフィはずっと男の頬を叩き呼びかけ彼に意識を取り戻させようとする。この状態がこれ以上続くとまずいとナミが思ったとき、げほっと男の口から魚が飛び出して、男はその反動で体を起こし何度も何度もむせこんだ。背をさすってやれば男は一瞬こちらを見て、何か言いたそうだったが結局言葉よりも先に咳が出てくるものだから、言葉は言葉になりようがなかった。
「無理にしゃべろうとすんなよ。とりあえず落ち着くまでゆっくり呼吸してみろ」
激しく咳き込むもので、むしろ見ているこちらの喉が痛くなる。男はゾロの言葉を理解したのか、二度ほど頷いてゼェゼェと荒い息を繰り返す。時たまひゅっと変に息を吸い込んではまたむせている。咳をする度に男の白い髪が揺れた。
「ルフィ、水持ってきて」
「おう」
ナミに指示されるがままにルフィは船室に飛び込んでタンクの口を開く。コップ並々に注いだ水を今度は溢さないようにそっと男の下へ持っていくと男の変わりにナミがそれを受け取った。
「大丈夫?飲める」
「だ、だい・・・げほっだいじょぶはっごほっごほっ」
ぼろぼろと涙が出てくるのは生理的なものだ。せきを繰り返すうちにいい加減そこかしこが痛くなってきたのだろう。ナミはそっと口元にコップを近づけると、男はそれを自分の手で持って一気に飲み干してしまった。そうすればようやく呼吸器系も落ち着いてきたのか、咳も軒並みに減って男はようやく視線を上げて礼を言ったのだった。
「だ、大丈夫・・・ごめんありがとう」
「いいのよ、お互い様じゃない」
「それよりお前大丈夫か?立てるなら中に入ったほうがいいんじゃねぇか」
男の謝罪と感謝にナミとゾロは気にしなくていいとばかりに声をかける。表面上では色々あるかもしれないが、ナミもゾロも根は良い奴なのだ。こういうときにさらっと口をついて出る言葉からもそれは十二分に伺えて、同時にそういう人間を見抜くルフィの目も並大抵ではない。
「そうだな。よし行くぞ」
「あ、わか・・・ちょっ待ち!ちょ、立ててないいいいい」
男はゾロの言葉に納得したルフィに手を掴まれ一緒に立ち上がろうとするも、足に力が入らなかったらしくそのまままた座り込んでしまう。だが後ろを振り返るということを良い意味でも悪い意味でもしないルフィは男をそのまま引っ張って、結果男はずるずると引きずられて船室に運び込まれる羽目になった。
「・・・・・痛そうだな」
「ああ」
ウソップの言葉にゾロは静かに賛同した。
2012/02/29
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