浅き夢見じ暁の
文字列の合間
古びた書物の合間にうずもれるようにしてサソリは暗い夜の長い時間を過ごしていた。人々の喧騒から遠く離れた文字の羅列の中で、サソリはただ一つの答えを探していたのだ。
ナエウス通りより遠くない町は学生街となっており、図書館も夜遅くまで空いているのが通常だった。盗み取ったIDをベネットが加工し、サソリは今や学生という身分を詐称して図書館に潜り込んでいる。
昼間はハルシャに傀儡造りを教えている。指先一つ一つの動作から視線を逸らすことなく、ハルシャが怪我をすることを避けるように見守った。
夜はハルシャをベネットのところに置いて図書館の中にこもった。医学書をわずかな明かりの中で読み漁り、頭の中に知識を入れていく。体系的な現代医学を皮切りに、特に人体の内部構造とそこに関わる様々な病気に関してをのべつまくなく読み倒したのだった。
昼も夜もサソリが休むという時間は非常に少ない。ある瞬間にこと切れたように意識が飛び、そして目覚めるということを繰り返した。
それは焦燥である。
食事をほとんどとることなく。とったとしても乾燥したサンドイッチをひとかけら口に押し込み水を飲んで出かけていく。空腹を厭うこともない。
それは恐怖である。
サソリは、サソリ自身が認知しない恐怖を持っている。かつて両親の死を受け入れられずに人形に傾倒したその瞬間に、抱えているのが怖いあまりに遠くへ隠してしまった「死への根源の恐怖」あるいは「残された者の悲しみ」と称すればよいだろうか。
つまるところサソリはハルシャの死が怖いのではなく、その時に持つ自身の喪失感を最も恐れている。
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サソリの芸術・傀儡とは恐ろしいまでに洗練された細部の作りこみ、細やかな造形、細緻な部品の組み合わせにあった。それこそは傀儡が武器として機能する最も美しい形である。ではそれを構成するサソリはどのような精神を持っているのか。彼の精神は恐ろしいまでに繊細で、感受性にあふれ、微細な変化を逃さない。サソリは傀儡の設計図をほとんど残さなかったが、それは彼の頭の中に全体と細部までが克明に記されているからであった。そしてそれは己の精神にまで至る。サソリは「悲しみ」を明確に理解したときその全貌を理解する。そしてその細部を一つ一つ見つめ、不明瞭なぼんやりとした形としてではなく形ある喪失をひどく鮮明に自身の目前に突き付けるのだった。しかし人の心はそれを許さない。
時に感情とはぼんやりとした形を持たぬ塊であることを望まれる。悲しみは「ただ、悲しいのだ」というふんわりとした形をまず持ち、それに浸り、そして記憶の忘却と共に「悲しかった事実」の細部が実感できるべきであった。サソリはそれができないのだ。すべてがあまりにも鮮明に克明になってしまう。サソリはそれを受け止めることができない。おそらく、たいていの人間は受け止めることができない。
本来ならば身近な人間が共に支えることで、サソリもこれを乗り越えられたのかもしれなかった。しかし戦時の世界において、サソリの内面を支える人間は圧倒的に少なかった。傀儡師として優れたチヨバアは常に戦場におり、多くの子供たちはサソリと同じような状況に置かれている。サソリはチヨバアから与えられた傀儡のみが支えになってしまったのだ。
いうなれば彼はあまりにも感受性に優れ、繊細であったからこそ、身近な人間の死とそこから生まれた己の悲しみを受け止めきれずに逃避する対象を人形と定めたのである。決して己のそばから離れぬ美しい存在。サソリが傀儡に傾倒するのはある意味、必然であった。
そしてサソリはこの悲しみに向き合うすべてのものを捨てて、死から遠く離れたところに生きることとなった。これを言い換えた時「サソリは身近な人間の死をいまだ受け止めることができず、ただ鮮明な己の悲しみと恐怖を宿す」と言い換える。一度足りとて受け止めて消化した経験がないのだから、当然のことと言えた。
サソリは自身がなぜこれほどまでに焦燥感を抱き、何かを恐れているのかを把握しきれないままに体を動かしていた。そしてサソリは「己は自身の永遠を残すためにハルシャを救う」という大義名分を作り、かろうじて自己を保っている。
だが、昼となく夜となく、食事もなく生きていける人間はいない。ここ数週間をサソリが絶えられたのはたぐいまれなる彼の精神力がなせる業であり、通常の人間であれば三日で限界を迎えただろう。
≡≡≡
明け方にいつものようにサソリは帰宅することにした。ひどい体のだるさを感じながら、なんとか工房までたどり着くと、壊れたシャッターの隙間に体を滑り込ませる。
ベネットはすでに起床しているようだ。キッチンの奥から小さな音が聞こえている。ハルシャはいまだ夢の中のはずだろう。
サソリは工房を通り過ぎ居住区へ入ったところでいつも聞こえるハルシャの寝息が聞こえないことに気づいたのだった。
「ベネット」
「……? ……! ……!」
「ハルシャはどこだ、起きたのか」
「……!! ……!!」
ベネットの顔が歪んでいた。いつの間に整形でもしたのだろうか。いや、それにしてもそもそも手足も逆についているように見える。お前はなんだ。
サソリはそのまま事切れるように倒れ、それきりしばらく目覚めることはなかった。
20250506