八卦図の中に飛び込んだ白琥と普賢の目の前にまず現れたのは美しい花畑であった。目に見える範囲すべてが様々な花で覆われたそこは、どこか異質なものを感じさせる。
「花、畑?」
普賢を追って八卦図に飛び込んだ白琥は、花を踏み荒らしてしまう四足に少々気が引けて人形になるとできるだけ花を踏まないように着地する。
太公望曰く、この八卦図こそが十天君の十絶陣という宝貝そのものであり、十天君はその空間を自由に操るということだが、それらしき姿は見えなかった。
「きれいね」
「そう、花は暖かい季節に栄華を極めては寒さとともに散華する」
白琥の言葉に答えたのは太公望でも普賢でも四不象でもない。ハッとして振り向くとそこには毛で覆われた奇妙な存在がそっと花を掲げていた。先程まで気配すら感じなかったというのに、まるではじめからそこに存在していたような、奇妙な錯覚に目の前がくらりと揺れる。
「ところでこの私、袁天君は寒さという死をもたらすものにして、この宝貝空間「寒氷陣」を支配するものなり。足を踏み入れたるものはこの花のように」
袁天君と名乗るそのものが掲げた花は、先程まで咲き誇っていたというのに突如凛として咲く力を失い、冬に枯れ木が茶色い枝だけ残して消えゆくようにあっという間に枯死してしまう。それと同時に太公望らの足元に咲き誇っていた花も皆枯れていく。暖かかった空気は徐々に寒さをましていく。足元から寒気が入り込み、白琥はぶるりと体を震わせた。
すでに虎の四足は枯れ果てた花の死骸を踏みしめ、人の姿のままの両腕には芭蕉扇が握りしめられている。
「あ・雪」
袁天君がそう言った瞬間であった。四人の足元の地面がぴしぴしとひび割れその下から巨大な氷が現れる。大地を割り出てきた巨大な氷は幾重にも重なり太公望たちの立っていた空間すらも凍りつかせていく。
わずか数秒のうちに麗しい花畑は、寒々とした氷の世界に覆われ、そこに立つのは袁天君一人となっていた。冷たい風が空間を満たしている。仮に氷に覆われずとも、この寒さでは人間はそう長いこと生きていることはできないだろう。
「おやおや埋まってしまわれたのかな__?」
完全に氷の世界となった空間で、袁天君が先程まで太公望たちがいた場所を見つめ、静かに呟く。それはしんしんと降る雪に吸い込まれ誰も返事をすることはなかった。
その瞬間、シュウウウという音とともに氷が水蒸気へと変化し、ちょうど太公望たちがいた場所に大きな穴が開く。
氷から一瞬で水蒸気に昇華したのだと理解したのは、袁天君と、それを成し遂げた普賢だけであろう。
「三人とも下がってて、争いは好きじゃないけどここは、僕が」
三人の前に立った普賢は静かにそう言った。
「普賢!私が出るわ!」
「ううん、ここが十天君の支配する亜空間であるならば、君の宝貝とは相性が悪いから。白琥も望ちゃんもまだ力を温存しておくべきなんだ」
これから先に来たるべき大きな戦いに向けて、と普賢は暗雲に包まれた天空を見上げながらそう言った。その雲もまた、袁天君の作り出す亜空間に用意された仮染の雲なのだろう。そこから降る雪がぽつ、ぽつと普賢の頬に触れては溶け、まるで涙のように顔の輪郭を伝って流れていく。
じわじわと寒さが迫る中、普賢はあくまで落ち着いて袁天君に話しかけるのであった。
「ねぇ毛玉くん。僕は争いというものが嫌いなんだ、まずは話し合おうよ」
「……愚かなり、言葉によって虚飾された真実の行き着くところは人と妖怪が殺し合う、ただそれだけのことに収束する他になし」
「そうかな。僕は決してそうとも言い切れないと思うけど」
「その根拠はそこの仙女なりか?」
普賢の言葉に袁天君は少なからず応じる姿勢を見せはするものの、その言葉は話し合うことそのものになんの意味もないと言うだけであった。しかしそれでもなお話すことをやめようとしない普賢に対し、袁天君は目を閉じすっと白琥を指さしてそう言ったのであった。
「!」
「話し合いを求めるというのではれば、ひとつ問う。そこな仙女は妖怪ではないなりか?人は妖怪を受け入れず、妖怪もまた人を受け入れず。それをときに妖怪仙人の粗暴さ故と言うが、それは違うなり。我々妖怪は人に受けいられずとも同類に対しては寛容である。その理由はそこな仙女が一番よくわかっているはず」
袁天君はそう言いながら白琥に向かって両手を差し伸べた。
「貴女は人間社会の中で真に受け入れられるなりか?そしてそれは本当の貴女なりか?」
その言葉に白琥は答えを持ち合わせてはいなかった。
真に受け入れられるのか、袁天君のその言葉は人と妖怪の間にある深い溝を指し示している。
白琥は答えようとした、答えようとしたがなんと言っていいのかわからなかった。黙る他に言葉を見つけることができなかった白琥はぎゅっと芭蕉扇を握りしめる。その沈黙がそのまま答えになってしまうということを白琥が一番よくわかっているはずなのに、それでもただ一人、自身の思いを伝える勇気が白琥にはなかったのだ。
「それが答えなり」
「それは違うんじゃないかな。人だって本当に相手のことをわかっているのか、それはわからないことだよ。だから僕たちは言葉を交わす。ねぇ毛玉くん、君たち妖怪が半妖態をとるのはそういう理由なんじゃないの?」
普賢の言葉にはっ、と白琥が顔を上げる。
「……妖怪は同類に寛容であると先程言いましたが……それは単に言葉に裏と表がないということではなく、言葉で言い表せないところで直感的な理解があるということ。貴女ならわかるでしょう」
すっと袁天君の視線が白琥に向けられる。同じように太公望と普賢そして四不象の視線もまた白琥へと向けられた。白琥はしばらく沈黙を守っていたが、「そう」と小さく呟く。
「そう、私には確かに彼の言うことがわかるわ。彼の原形は知らない。でももしも私が彼のそばにつくと言えば、十天君は私のことを受け入れてくれると知っている。信じているんじゃないの、そう、わかるの」
「ならなおさら僕は言葉を重ねるよ。妖怪同士の理解は確かにわからない。僕にも白琥がそう確信する理由はわからない。けれど言葉を通じて双方を理解しようと歩み寄ることは決して不可能ではないんじゃないかな」
普賢はそれでもなお諦めることなく言葉を重ねていく。袁天君はそんな普賢の言葉に呆れたような感心したような口調で応えるのだった。
「つくづく貴男の寛容さと争いを厭う心は貴重なり。確かに私達が言葉を話すのは、妖怪同士でも直感による完全な意思疎通は不可能であるためであるなりよ。しかしそれ故に言葉は飾りであると理解する。特に人の言葉は」
「……」
「白き虎の美しき仙女よ、貴女はそこな二人の言葉を心のそこから真実と思うなりか?それともそう思いたいだけなりか?」
袁天君の問に答えを持っているのは白琥だけだった。
普賢は何も言わずに白琥の言葉を待っていた。それは普賢から白琥に対する信頼の証でもあり、積み重ねてきた時間が成すものだ。先程の袁天君の問に応えることができなかった白琥だが、普賢の言葉に背を押されるように口を開くと、今度はすらすらと言葉が口から出てきた。
「私は……」
ふっ、と白琥は一拍おいて話し始める。
「私はあなたの言葉が本当にそう思っているのだとわかる。でも普賢と太公望の言葉が真実なのか虚飾なのかそれはわからない」
「……」
「でも私は二人のことを信用している。私に向けられる二人の言葉は私を謀り厭うものではないと信じている」
「私にはそれがわからない。なぜ信ずることができるのか」
「それはきっと私が普賢と太公望と過ごした時間であって、重ねてきた言葉の数だと思うわ。私たちのような妖怪が千年という月日を共有するように、私と普賢そして太公望は言葉とともに過ごした時間がある。__それが私にとっては全て」
「なるほど、貴方たちは人と妖怪を超えた一つの形にたどり着いたなりか」
袁天君はふうと息を吐いた。まるで歓迎するように両手を掲げ「見事」と一言言う。
「ねぇ毛玉くん。僕はそれこそが真の相互理解だと思っているよ。だから僕たちが白琥と言葉を交わすことで人と妖怪の間に一つの関係を作り出したように、君とも話し合うことはできないかな」
「それは不可能なりな」
袁天君ははっきりと言い切った。
「我々はそも、話し合うためにここへ来たわけではない。そして貴方がたと共有する時間もない。白き虎の仙女の言葉ならばともかくも、十二仙の貴男とは埋めても埋めきれぬ溝が存在すると知れ!」
「そう……」
普賢は少しだけ俯いて少しだけ悲しそうな顔をした。
「それでも僕は説得を続けるつもりだけど……ねぇ毛玉くん、もし三回言っても聞き入れられない場合は、本当にわかり会えないと思っていいね」
「普賢よ、何を語っておるのだ。すでに話は決裂したばかりではないか!」
「そうかな?」
「そうかな?ではない!」
太公望は普賢の言葉にはっきりと言い切った。
「もう話し合いは終わったのだ!すでに戦いは始まっておるのだぞ!いい加減真面目にやらんか!」
「僕は真剣だよ」
普賢の表情は変わらず太公望の言葉は空回りしていく。
「確かに彼と僕の間には溝がある。だけど地道にその溝を埋めていこうよ」
「状況を見て言え!もうその段階はついさっき通り過ぎたところなのだ!」
「でもこれが僕のやり方だから」
ああー!と太公望は頭を抱えた。そんな太公望を見て白琥は笑うと、太公望の背をぽんぽんと叩く。
「諦めて太公望。あなただって普賢がそういう性格だって知っているでしょ」
「そんなことわしとて知っておるわ!だが状況が状況なのだ、ええいもう勝手にせい!」
ぷいっと横を向いた太公望に、白琥は鈴を転がすように笑うのだった。先程袁天君に問われ答えられなかった事実を超えて、今は確かに普賢とそして太公望と紡いできた絆があることがはっきりとわかる。
「大丈夫よ、普賢だってちゃんと太公望が言いたいことはわかってるから。ただこれが普賢のやり方だからもう少しだけ待ってあげて」
「全くおぬしも普賢もどうしようもないやつだのう」
「そう?でも太公望にもそういうところがあるんじゃないかしら?」
「むぅ」
太公望は白琥の言葉にぷいとそっぽを向いてしまう。そんな太公望を普賢はくすくすと笑いながら改めて袁天君と向き合う。
袁天君は普賢の言葉にため息を吐く。
「三回、それは私達の生においてあまりにも小さく、人の生においてあまりのも大きな数字なりな。どうやら頭の柔らかさにおいては、太公望のほうが十二仙よりも優れていると見ました」
袁天君はそう言いながら、いつの間にか晴れ渡った空に向かって両手を広げる。するとどこまでも続くように思える高い空にきらきらと光を反射する何かがいくつも生まれ、それはあっという間に太公望たちの上に降り注いだ。球状の氷の塊は霰や雹と比べるのも馬鹿馬鹿しく思えてくるほどの巨大な塊で、一つ一つが人の身長を遥かに超える大きさを持っている。
「ぬわー!!普賢!おぬしがやると言ったのだぞ!何とかせい!」
「わかってるよ望ちゃん」
普賢はいつも通りの口調で太極符印を掲げた。太極符印はヴウウンと小さく唸るように鳴いて、その表面に「相転移」と映し出された途端、四人に降り注ぐ氷の塊はまたも水蒸気へと昇華したのであった。水分を多く含んだ空気がひゅうと流れていく。寒さがなくなったわけではないが、氷塊は完全に消えさってしまう。
太極符印は次の命令を待つように微かに発光している。普賢はそんな太極符印を抱え込んであくまで停戦を願うために言葉を紡ぐ。
「この宝貝『太極符印』は元素を操る宝貝なんだ。氷を水蒸気に変えることも難しくないんだよ。君ならこれがどういうことかわかるはずだ。だからもう無意味な戦いはやめようよ」
それは普賢にしては珍しい脅しを含んだ言葉でもあった。袁天君の寒氷陣を完全に破ったといっても過言ではないその言い方に、しかし袁天君もそうそう負けてはいない。
ヒュウと吹いたのはこの亜空間を覆う氷で冷やされた空気ではない。雪が混じりさらに冷たくなった空気は、やがて吹雪となって四人を覆い尽くす。
「貴男の方こそ私には決して勝てぬ。貴男はあくまで受け身な分自分からは何も作り出せない。せいぜい氷を水や水蒸気に変えるくらいのこと」
袁天君の言葉と同時に吹雪はいよいよ冷たさをまし雪はその場に立ちすくむ四人を包み込んで溶けることなく重なっていく。
くしゅん、とくしゃみをした白琥の体にももう雪が積もっており、そこから徐々に感覚がなくなっていく。太公望も襟の中から入った雪に悲鳴を上げているが、普賢だけが沈黙を守って太極符印を抱え袁天君を見つめていた。
「この猛吹雪の中でもう一度貴男の宝貝の力を見せてください。聡明な貴男ならどうなるかおわかりでしょう?」
「ふぅむ君の方こそ十天君だけあってなかなか賢い」
感心した様子でそんなことを言う普賢に太公望は近寄ってさっきのように雪をじゅーーと溶かさんか!と詰め寄るが、普賢はあまり乗り気ではない様子だ。とはいえやってくれと言われたことを断ることもなくじゅーーとやった結果はご存知の通り。水蒸気は一瞬で凍りつき、今度こそ完全に氷漬けになってしまう。止むことのない吹雪は次から次へと重なり合って、白琥もそろそろ芭蕉扇を握る手の感覚がなくなってきた。とはいえ、はじめに普賢が言ったように、この亜空間にたいし風や雨を操る白琥の宝貝・芭蕉扇は相性があまりにも悪い。いくら風を吹かせても、いくら雨を降らせてもこの空間そのものが袁天君の支配する宝貝である以上、白琥が何をしてもすぐに消されてしまうだろう。いやそれどころかそもそも雨も風も生むことすらできないかもしれない。
「ふ、普賢、さすがにこれ以上は死んじゃう」
白琥は両手で体を覆うように抱きしめるがいかんせん露出の多い服装のために、そうすることにあまり意味がない。今にも凍りそうな口を動かしてなんとか普賢に言うと、普賢も震える指で太極符印の表面を叩いた。
ヴン、と太極符印の表面に「電気分解」と表示された瞬間、先程まで四人を凍りつかせんとばかりに吹き荒れていた雪が一瞬で消えてしまった。まだ寒さは多少残っているものの、晴れ渡った空に気持ちのいい風だけがふわりと吹いて四人の間を通り抜けた。
「は、」
息を吸って吐いてももう喉は痛くない。体に張り付いていた氷すらも消えてなくなり、白琥は残った寒さを払いのけるようにぶるりと体を大きく震わせた。しっぽの先まで水を払うように降ると、少し暖かくさえ感じる風に吹いてくる。
「な、これは」
「ここまではしたくなかったんだけど、仕方なかった……ごめんね」
普賢はそう言うと最後の最後に一歩近づいて袁天君に話しかける。
「さぁこれが最後だよ、話し合おう」
普賢の宝貝・太極符印を前に、袁天君の寒氷陣はあまりに相性が悪い。どんな氷も雪も相転移と電気分解がある以上生み出しても全て無意味に終わってしまう。さすがの袁天君も成すすべはないのかそれ以上攻撃を仕掛けてくる様子はない。
その姿に普賢はふと思いついたように宝貝を手放すのだった。
「怖がらないで、危害を加えない証拠として宝貝も使わないよ」
「おぬしはどうしていつもいつもそうなのだ!」
「何を怒っているの望ちゃん?」
その様子に太公望も袁天君も流石に呆れた言わんばかりの表情だったが、白琥はくすくすと笑っていた。
白琥は普賢がどれだけ計算高く『守る』ために戦うかを知っている。それは争いを厭いながらも、守らなければいけないものを知っている普賢だからこその計算高さなのだ。太公望ができるだけ被害が出ないように策を練るのと同じように、普賢もまたできるだけ誰も傷つかないように戦うのである。
「本当に二人共似てるのね」
白琥はくすくす笑う。それとほぼ同時に四人の足元から氷が吹き出したが、普賢が手放した太極符印が爆発したのはほぼ同時であった。その爆破は広範囲ではないものの、袁天君が原形に戻る暇も与えずに封神してしまう。
足元に転がってきた太極符印の表面には「核融合」の表示が未だ残っている。それを拾い上げた普賢は「行こうか」と三人の方に向き直って言うのだった。
「昔のこと覚えてる?」
四不象に乗って先に崩壊しつつある寒氷陣から出た太公望を追うように、背中に普賢を乗せた白琥がふとそんなことを口にした。
「昔の話よ、といっても私の感覚だと本当についこの間のようなことなんだけれど」
「?」
「あなたは太公望がいつか戦いに身を投じると言ったわ。表には出さないけれど心の奥底に今も磨いている刃があるって。でもそれはあなたも同じね」
「そうかな」
「そうよ」
白琥はふわりと空に向かって飛び上がる。何もないように思える高い高い空は触れると微かに震えて、すっと二人を邪魔することなく通してくれた。
「ねぇ白琥」
「なぁに?」
「ありがとう。君が僕を信じてくれたように僕も君のことを信じるよ」
2018.10.13