深い山の中

 曜子はバイクに乗るのは初めてだった。実は自転車もあまり乗ったことがない。震える手でイザナの腰のあたりにしがみ付くと、バイクは急発進する。その勢いに思わず振り落とされそうになるが、なんとか耐えて、しばらくの間はぎゅっと目を瞑って体を固くしていた。しかし徐々にバイクの動きに慣れてくると、力を入れるよりも力を抜いた方がバランスがとりやすいことに気づいて、おそるおそる曜子は顔を上げて、イザナ越しにバイクが進む先を見た。夜の道路は思っていたよりもずっと静かで、人もほとんどいない。その中を駆け抜ける三台のバイクは、燕に追いかけられる虫のようだ。しかし今バイクを急き立てているのは、燕ではなく呪痕である。じわじわと鶴蝶を蝕む呪痕は今まさに、表層から深層へ向かって進んでいるに違いなかった。吹き付ける夜風は、呪霊を祓った今も何者かの死を予感させるような、そんな冷え冷えとした寒さをまとっていた。
 ヘルメットからこぼれた曜子の長い髪が風になびいて線を引く。美しい黒髪は闇に溶け込み、時折町の灯りを柔らかに反射した。艶のある髪が長いのは願掛けでもなんでもない。女だから伸ばしている、というわけでもない。ただ呪術を行使するにあたって、自分の体の一部は便利な媒介になるからだ。いざとなれば髪の毛を抜いてよじるだけで簡易な結界を構築できる。簡単に用意出来て、身体的に負担の少ない髪という媒介は非常に便利なので、髪を伸ばしている術師は多い。
 曜子はしばらくぼうっとしていた。バイクから落ちないようにイザナにしっかりとしがみ付いているのだが、初めて迎えた死と改めて与えられた生の実感が、ここへ来てあやふやになっていた。自分は今何をしているのか。ここは本当に生者の世界なのか。そんな奇妙な感覚に取り込まれて、思考はふわふわとどこかをさ迷い歩いている。
 キキィー、というブレーキの音に曜子はハッと現実に引き戻された。そうだ、呪術高専に今から行くことを連絡しなければならない。そもそも高度な反転術式を使える家入硝子がいるかどうかも確認しなければ、わざわざバイクを出してもらった意味もなくなってしまう。
 曜子はバッグの中から携帯を引っ張り出して、震える手で操作した。夏が近づいているが、今はまだ梅雨で、太陽が沈めばよく冷える。特に曜子はしばらく何も食べておらず、さらにバイクで冷たい夜風に当たったことも相まって、手は震えていた。しがみ付いたイザナの背中から温もりを感じるが、手を温めてくれるには不十分な熱量だった。加えて、曜子はガラケーの操作に慣れていない。あちらこちらを押しては戻ってを々ながら、なんとか電話帳を引っ張り出す。幸い携帯には高専の番号が登録してある。それを選択して通話ボタンを押すと、呼び出し音が鳴った。バイクはかなりの速度で走っているため、風の音がごうごうとうるさい。さらにヘルメット越しであるため、うまく向こうの声を聞き取れるか疑問だった。しかし慣れないバイクの上でヘルメットを外す勇気もでず、曜子は結局ヘルメット越しに電話を耳に当てる。電話は三度目のコールでつながった。曜子はそのことにほっとして、相手が「はい」の「は」も言い終わらないうちに話しをはじめる。なるべく声を大きくしたのはヘルメット越しで通話口に声が届くか不安だったからだ。

天野です。呪霊を祓う際に一般人が巻き込まれ、傷を負いました。はっきりと呪痕が出ています。硝子さんはいらっしゃいますか?」

 電話先は補助監督であると思われるが名前は聞き取れなかった。しかし呪術高専に所属している以上、こういった緊急の事案にも慣れているのだろう。曜子の言葉を聞くと、すぐに「承知しました、硝子さんはいらっしゃいますので、車を出しますか?」と訪ねてくる。

「いえ、今バイクで直接そちらに向かっています。負傷者は二名、うち一名が重症です。ベッドの準備をお願いします」

 それから、聞き取りにくいながらもいくつか補助監督と話をして、状況を軽く説明する。今日の任務は埠頭での呪霊抜除であったこと、しかし人が大勢いて、数名が巻き込まれる事態になったこと。後々報告書を提出しなければならないだろうが、状況説明は早ければ早い方がいい。
 ひとまずはこれで安心だろう。高専の方で受け入れて処置を施してもらえれば、それほど心配はない。問題はそこまで体の方がもつか、だったが、先ほど傷を見た限り、傷は表面に限られており、あまり深くまでは呪いが入り込んでいない様子だった。鶴蝶も蘭も、だ。ただ傷の面積が広い。皮膚は火傷をしたのとほぼ同じ状態で、それだけでも痛みは相当なものだろう。加えて呪痕は時間をかければじわじわと対象の肉体を蝕んでいく。呪痕は厄介なもので、身体的な負荷を与えるのは勿論、精神的にも大きなダメージを与える。具体的に言うならば、多くの呪痕は傷つけた対象に「死」を想起させるのだ。死の恐怖がじわりじわりと迫ってくる、それは目で見えなくても脳が理解する。その恐怖に生きるのを諦めてしまう人も少なからずいる。故に、呪痕は早急な対処が必要になる。鶴蝶は現時点では頑強な精神力で保っているようだが、時間をかければかけるほど、身体的にも精神的にも危険な状態になるだろう。そういえばよく確認しなかったのだが、負傷者は本当に二人で間違いないだろうか? 見た限りでは、何人かが上手いこと人を誘導しているように見えた。呪霊と言う異形は、それを見るだけでも精神的に大きな負担を与えるものである。その中で、冷静に判断を下せる人材は稀有であり同時に有用であった。そういえば、里守が少なくなってきたから、有用な人材を確保したい、と祖父が言っていたなぁ、なんてことを曜子はぼんやりと思い出した。
 天野曜子天野家次期当主候補であり、同時に刀鍛冶である。彼女の所属する天野家は、代々刀鍛冶を表家業とし、裏稼業として呪術師を担ってきた。過去に悲惨な事件があって以来、刀鍛冶の里である天野の里は地図から消え、誰も知らない森の奥底で結界を張りひっそりと暮らしている。おかげで人の流入は少なく、いかに外部から優秀な人材を里に引き込むか、というのは里の死活問題でもあった。スカウトできないかしら、なんてことを考えているうちに、バイクが緩やかに速度を落としていることに気づく。
 バイクは下道を走っていく。道路灯が流れて、イザナと曜子の顔を何度も照らし、何度も暗がりに放り込んだ。時刻は夜の十時を回っており、車の通りは少なくなかった。舗装された道はでこぼこがほとんどなく、バイクから伝わってくる振動は少ない。乗り心地とイザナの背中の温もりについうとうととしてしまいそうだ。時折走っている車を軽く追い越して、イザナ、蘭、竜胆の運転するバイクが夜の道を走っていく。

「ねぇ」
「あっ、はい!」

 唐突にイザナに話しかけられて、曜子は危うく飛び上がるところだった。バイクの後ろに乗せてもらっているので、なんとか耐えて、イザナの言葉に返事をすると、イザナは「ここから先は?」と訪ねる。見れば、もう東京に入り込んでいるようだった。案内標識を見ると都内に向かうか、はたまた郊外に向かうかで別れている。スマホがあれば地図を見せてすぐに案内できるのだが、あいにくとガラケーにそのような機能はない。不便さと同時に、いかに自分の生きていた時代が便利だったかを感じながら曜子は標識案内から目を逸らし、周囲の様子を伺った。暗闇でわかりにくいが見知った道に入り込んでいたので、これならなんとか案内できるだろうと思う。少しだけ落とされた速度に、吹き付ける風も落ち着いてきて、曜子はイザナの後ろから道案内を始める。右、左、まっすぐ、二つ先の信号を右、とくねくねと入り曲がる町の中を案内していく。やがて家やその他の建物がまばらになり、田んぼが目立つようになる。東京も都市部を抜ければ田舎町のような風景が広がっているところもある。建物の少ない夜の道は、街灯も少なく少し不気味だった。バイクの明かりが三つ、夜の田んぼの中を駆け抜けていく。

「……こんなところに病院、あるの?」

 ふとイザナがそんなことを言った。それも当然の反応だろう。なにせ人家すら見えなくなり始めて、夜道は雲の切れ間の月に照らされるばかりとなった。人の気配もなく、正面には山がそびえ立っている。その山も静かなもので、到底、病院をはじめとする人の営みがあるようには見えない。しかし曜子は落ち着いて答えた。

「私たちが向かっているのは東京都立呪術高等専門学校というところです、病院ではありません。えっとカクチョーさん、が受けた傷は病院では治せないんです。あれは呪霊の呪力によってつけられた傷痕なので、同じく呪術によって治さないといけません。このまま、山道を登ったら着きます」
「治らなかったらオマエ、殺すからな」
「傷は浅いです。大丈夫ですよ」

 曜子はにっこりと笑った。殺す、と聞こえた気がしたが、なんとなく怖くはなかった。それは殺されないという自信があるわけではなく、ただイザナが恐怖に震えているように感じたからだ。曜子の勘でしかなかったが、なんとなくイザナが何かを恐れているように感じた。その恐れを隠すための強い言葉は、曜子には脅しには聞こえなかったのだ。
 バイクがぐん、と勢いを増して、後続もまた速度を上げたことが音でわかる。
 バイクは山道に入った。山道、といってもくねくねと折れ曲がっているだけで、きちんと舗装はされている。街灯はないので、頼りになるのは月明かりとバイクのヘッドライトだけだ。バイクは少しばかり速度を落としながら急カーブを曲がり、順調に坂道を登って行く。やがて、いくつかの鳥居が現れた。舗装された道路と、何もない森の中、赤い鳥居がヘッドライトに照らされて現れるのは、曜子もいまだ慣れない。いかにも不気味な雰囲気を漂わせる鳥居の先は、さらに暗い闇に包まれているような気がした。しかしこれは呪術高専の結界の一つだ。一般人であれば、ここから先には廃神社しか見えないだろう。ホラースポットにもならない、ただの廃れた神社だが、人の恐怖心をあおるには十分だ。重なった鳥居の間には地蔵がいくつも並べられて、赤いよだれかけがよく目立つ。地蔵はどれも苔むしていて時間の経過を感じさせる。誰も入りたくないと思わせるような空間、それが呪術高専を隠す結界なのだが、時折勘のいい人はこのまま鳥居を通って呪術高専にたどりついてしまうことがあるらしい。それはごく稀な事例だ。しかし今はその稀な事例が発生している。イザナも蘭も竜胆もすでに呪霊を見ている、見えるようになってしまっている。結界の先には古びた神社ではなく、「呪術高専」の看板の掛けられた、建物群が見えていることだろう。
 鳥居を通り過ぎてしばらくすると、大きな門に辿り着いた。バイクを運転する三人はブレーキを踏んで、バイクを停める。曜子はいち早く降りると、ヘルメットを外してバイクの後部座席に置いた。大きな木でできた門扉は、固く閉められている。見ただけでも相当な重量があるはずだが、曜子は迷うことなく門扉に手をかけた。そしてぐっと力をこめる。重そうに見える門扉は扉を押した者の呪力に反応するようになっている。ここでも、一般人が入れないようになっているというわけだ。とはいえ、無理やり塀をよじ登るという方法もあるので、完全に一般人を排除できるわけではないのだが、ただ散歩に来ただけの一般人は、普通塀をよじ登って他人の家に入ろうとはしない。
 蘭と竜胆は鶴蝶をバイクから降ろす。鶴蝶の意識は痛みと呪いですでにあやふやで、まっすぐに歩くのも困難だった。触手に巻き付かれていた左腕もだらんと垂れ下がり、力が入らない様子だ。首と左腕、そして触手の強酸によって溶かされた衣服の下の皮膚にも楕円形の奇妙な印が浮き出ている。あれこそが呪痕であり、人を蝕む負の力である。あれだけ広範囲に呪痕が出ているということは精神的な負担も相当大きいはずだ。蘭も両手の傷が痛むのが、バイクのハンドルから手を外すのに随分と苦労している様子だった。思い切り力を入れてハンドルを握ることで痛みを我慢していたのだろう。その分余計に、力を入れなければ腕が外れない。竜胆が、鶴蝶の無事であった右腕を掴んで体を持ち上げる。そうしてなんとか鶴蝶の体を支えて、曜子は四人を門の内側に招き入れる。すでに曜子と四人の来訪は補助監督によって伝えられているので、警報が鳴るようなことはない。

「その首元の奇妙な模様には触れないようにしてください、傷が移ります」
「わかった、ケド、なにここ。なんか入るときぞわってした」
「呪術高専の結界です。一般人が立ち入らないようになってるんです」
「オマエ本当になんなの?」
「あとで説明します」

 竜胆の問いかけに曜子はにこっと笑った。今は鶴蝶を優先しなければならない。曜子の後ろを鶴蝶を支える竜胆、そして蘭、最後にイザナが続いて入り組んだ高専の中に入り込んだ。
 


20211221