呪術高専

 高専の敷地は暗闇が支配していた。灯と呼べるものがほとんどなく、天高くこうこうと光る月明かりのおかげで建物の陰が見える程度だ。いつの間にか晴れた空にぽつんと現れた月はさみしげに夜の暗闇を歩く生き物たちを照らし出す。砂利の引かれた足元は、同じぐらいの体格の男を抱えて歩くには少々歩きづらい。かと思えば、突然垣根が現れて、そこから先は石畳になっている。池があり、水面に移る月が、揺れていた。鯉がいるのかもしれなかった。一体どういうコンセプトで建造された建物なのか全くわからない、そんな建物がずっと続いている。女はそんな奇妙な建物群の間をはっきりとした足取りで歩いていく。
 鶴蝶を抱えて歩いてどのぐらいの時間が経っただろうか、時計を見る暇もなかったので よくわからなかったが、五分いや十分ほど歩いていたような気がする。気がするというのも、ここの建物はやけに長い通路だと思って足を踏み込むと、意外と短かったりするのだ。まるで目の錯覚のような奇妙な感覚が続いていて、竜胆はすっかり時間という感覚を失っていた。蜃気楼の中で迷っているような、もう二度とここから出られないんじゃないかというような、奇妙な恐怖がじわりじわりと頭の片隅から首をもたげている。
 そんな奇妙な思考が頭を支配するのは、鶴蝶を抱えるのに疲れたからではない。鶴蝶を支える左手がじわじわと痛んでくるのを感じたからだ。痛みに伴って手のひらに現れた呪痕を、竜胆は見ることはできなかったが、呪痕が現れてから思考がどんどんとおかしくなっていくのは感じていた。蘭に触るなと言われたのはこういうことか、と増してくる痛みの中で考える。
 暗闇が視界の四方から迫ってくる。月が雲に隠れると、世界は真っ暗になって、何もわからなくなった。こんな場面で兄を呼ぶのは少しカッコ悪い気がしたが、困ったことに前も後ろもわからないのだ。先を進んでいたはずの女の影がうっすらと見えて、そちらへ向かおうとすると、とんとんと竜胆の肩を叩くがある。さすがの竜胆もこれには驚いてびくっと肩を震わせた。

「そっちじゃねーヨ、竜胆。何見てるんだ?」
「えっ、あっちに女が」
「?」

 蘭が不思議そうな顔をして竜胆の顔を覗き込む。竜胆は慌てて先ほど女を見た方を指さすと、そこは手を伸ばした竜胆が触れられるほどすぐ近くに壁があるだけであった。そしてその壁には人型のようにも見える奇妙なシミがある。だが、あの暗闇の中でこのシミだけがうっすらと見えるということがあるのだろうか。竜胆はぞっとして蘭の近くにささっと近寄った。
 雲が晴れる。暗がりだけだった道の先に、再び光がさして、なんとなく人心地つく気分だった。しかしそれも一瞬のことで、突然道の先に全身真っ黒な人の姿が現れて、竜胆はさらにびくっと跳ね上がった。だが今回は壁のシミでも幻覚でもなかったようだ。先を進んでいた女がささっと駆け寄って「夜蛾先生!」と呼びかける。男は女に一言二言と何か話しかけているようだったが、竜胆の距離では男が何を言っているのかははっきりとしなかった。
 男の身長は高く体格はがっしりとしている。短く刈り込まれた髪、黒いサングラス、そして真っ黒な服装。夜中にあまり遭遇したくないタイプだ。あの体格は喧嘩でも相当有利だろうな、と竜胆は思った。学校と名のつく敷地内にいるにしてはあまり似つかわしくない姿形の男、夜蛾は、女としばらく話をしてうなずく仕草を見せた。その間竜胆は鶴蝶の体がずり落ちないように支え、蘭はぼんやりと女と夜蛾のやりとりを眺めている。竜胆の位置からは、後ろをついてきているはずのイザナの姿は見えなかったが、地面を踏みつける音がしたので迷っていなくなったということはないのだろう。ただ、静かに成り行きを見守っているようだった。
 夜蛾はふとこちらを見た。サングラス越しなのではっきりとはしなかったが、顔の動きでなんとなくこちらを見たのだろうと思った。そして竜胆たちの方へ近寄ってくると手を後ろに組んだまま話しかけてくる。想像通りの太い声、しかし髪型やサングラスから想像される言動は思っているよりも丁寧で、なんとなくちぐはぐな印象を受ける。

「硝子には声をかけてある。医務室へ」

 夜蛾は聞き慣れない女の名前を出した。誰だ、と問うてもよかったのだが、ふいに竜胆の足元に何かが寄ってきて、ぴょんぴょんと跳ね回り始めた。

「うわっ」

 竜胆は思わず声を上げる。
 身長は低く、竜胆の膝ぐらいまでしかないものから、腰ぐらいまであるものまでいる。しかしどれも共通して人間の形をしていない。いうなれば子供が持つぬいぐるみそのもので、生き物ではない。よくよく見ると縫い目がある。ボタンの目、にっこりと口角を上げた口、手の指は四本でズボンのようなものをはいている。ジュジュツコーセンとやらに足を踏み入れてからは奇妙なことばかりで、慣れてきたと思った竜胆だったが、やはりまだ慣れ切っていないらしい。月明かりの下で見ると可愛いというより不気味な人形に周囲を取り囲まれて、どうしたらいいのかわからなかった。

「運びますマス!」
「運びマスヨ!」

 ぬいぐるみは次々にしゃべって、竜胆の方に手を伸ばしてくる。竜胆は蘭に助けを求めたが。蘭は首をすくめた。それが何を意味しているのかは残念ながらわからなかった。とはいえ女は突然現れた男と知り合いであるようだし、女も男もこのぬいぐるみたちが見えていないというわけではないだろう。それでもやめろと言ったり逃げろと言ったりしないのならば、大丈夫だろうか、と竜胆が思っていると、ぬいぐるみたちはしびれを切らしたのか鶴蝶の体をぐいぐいとひっぱりだした。

「わかった! わかったから!」

 竜胆は思わずそう叫んで、鶴蝶の体をぬいぐるみに預ける。ぬいぐるみたちは竜胆が支えている鶴蝶を受け取ると、全く重みを感じさせない勢いで鶴蝶を抱えて走り出してしまった。ふにふにふに、てけてけてけ、ぬいぐるみの足は細く頼りないというのに、転ぶことなく駆けていく。それを止めることもなく眺めていると、ふいに左手が痛むのを思い出す。ちょうど鶴蝶の体に触れたところだ。

「ッ痛」

 震える手で手袋を外すと左手に、鶴蝶の首と左腕に現れたものと同じ模様が浮かび上がっていた。

「竜胆、だから触るなっつったろ」

 蘭が言う。蘭の手はいつの間にか手の甲の部分にまで模様が広がっていた。服に触れるのも痛いのか、体の前に両手を突き出してぶらぶらと動かしていた。

「だって兄ちゃん、鶴蝶重いんだぜ」

 口を尖らせて竜胆が言うと、蘭は竜胆の頭をなでるふりをした。
 女と竜胆と蘭、そして最後尾をついてくるイザナの四人は、そのまましばらく石畳の道を通ってぬいぐるみたちの跡を辿るように歩いていく。幾重にも重ねられた生け垣は、侵入者を拒むためのものなのだろう。その生け垣を超えると、突然風景は開ける。そこは竜胆にも見覚えがある風景だった。校庭といえば多くの人に通じるだろう。鉄棒があって、登り棒がある。半分地面に埋まったようなタイヤと、しかし滑り台はさすがにないようだった。呪術高等専門学校と名を冠するので、一般的に想像できる中学校・高校とはだいぶかけ離れたものかと竜胆は思っていたし、実際、校庭に来るまでの道のりは普通の学校とは思えなかったが、校庭から眺められる校舎や宿舎だけを切り取ってみると、不思議と生徒たちの生活の様子が浮かんでくるようだった。
 夜蛾と女に案内されて建物の中に入っていく。土足で構わないということだったので、それはありがたかった。竜胆の左手はジクジクと痛み、とても靴を脱ぐ余裕はなかったのだ。
 建物の中はしんと静まり返っている。この校舎にどれほどの人間が活動しているのか、竜胆には見当もつかなかったが、上を向いたままの蛇口や、少し開いたままの引き戸に人の気配を感じる。外観は古めかしく、また中身も外見に沿うように古かった。増改築を繰り返したのか木造とそうでないところがごちゃごちゃに入り混じり、統一性がない。廊下も、あるところからはきれいだが、あるところは何度も踏みならされてすっかりすり減った木の床に顔のような木目がある。天井の蛍光灯は時々点滅していた。

「こっちです、迷いやすいので気をつけてくださいね」

 女が声をかけた。竜胆の歩幅で数歩先に立っている女は、にっこりと笑って廊下の角を曲がる。竜胆は蘭と顔を見合わせてから後ろを振り返ってイザナを見た。イザナは先程から何も言わないが、女についていく意思はあるようだ。女が廊下の角を曲がったのを見て「置いてかれんなよ」と蘭と竜胆の二人に声をかける。その言葉に二人で頷いて、二人もまた廊下の角を曲がった。
 ところどころ新しく、ほとんどが古びた廊下を進んでいく。ときたまぎしぎしと廊下が鳴って、その音が不気味に木霊している。夜の学校を訪れたこと、いやそもそも学校そのものに通った経験が少ない竜胆だが、なんとなく不気味な感じを捨てきれないでいた。
 長い廊下の角を曲がると、ふいに明かりが見えて、なんとなくほっとする。教室から漏れ出た光は柔らかに廊下を照らしていた。教室を覗くとそこには女が一人立っている。それからベッド、と言うには少々硬そうな台には鶴蝶が寝かせられていて、竜胆は少しほっとした。ぬいぐるみに鶴蝶を預けてからどうなったのか少し気にしていたのだ。しかし鶴蝶の寝息は穏やかで、首の傷も多少跡が残っているもののきれいに治っている。こんな短時間でどうやってあそこまで傷を治したのか、それは気になるところだったが、なにはともあれ、鶴蝶が無事ならそれでいい。
 部屋の白い壁には血痕がうっすらと残っている。銀色の手術台の上に寝かされた鶴蝶と、そのそばに置かれたワゴンには様々な器具が乗せられており、そちらはぴかぴかに磨かれている。壁際に椅子が何脚か置かれていたが、待合室のようなものはないようだ。部屋の端っこで所在なさげに置かれているベッドは硬そうだった。ベッドのマットレスにかけられたシーツは白かったが、長いこと使われていないようで、少し埃がかぶっている。
 鶴蝶が寝かせられた、手術台のような高さのある台は映画で見たことがある。その手術台の前に白衣を着た女が立っていた。女が振り向く。

曜子、久しぶりじゃん」

 女の名前は曜子というらしい。そういえば今まで聞く機会がなかったので名前を聞いていなかった。

「硝子さん! 夜遅くにすみません」
「まー、いーよ。寝てたわけじゃないし」

 部屋が全体的に煙たかったのは、硝子と呼ばれた女が煙草を吸っていたせいだった。自分たちも煙草ぐらいは吸ったことがあるので責めるつもりはなかったが、しかし怪我人を前に吸うのはどうなんだ、と思わなくもない。

「もう治ったけど、首の傷がちょい深めで危なかったから、一晩安静な」

 硝子は曜子の頭をなでてから、壁際の椅子に座ると、口から煙を吐きながらそう言った。

「で、次は?」
「あっにい「こいつナ。さっき触っただけだから多分浅いけど」
「……見せて」

 硝子が医者であることに間違いはないようだった。竜胆は蘭に小突かれて左手を出す。丸い、奇妙な模様が浮かび上がった手は今もじくじくと痛んでいる。
 硝子は竜胆の手をとってまじまじと見つめた。その手は白く小さく、竜胆のものとは大違いだ。
 硝子が竜胆の手の上に自分の手を重ねる。数秒、まるで手品でもするように、硝子がぱっと手を開くと、竜胆の左手に浮かび上がっていた傷痕はきれいに消えてなくなり、痛みもいつの間にか引いていた。

「……ハ?」
「はい終わりー、次」

 蘭が手を差し出す。硝子はしばしその手を見つめて、竜胆を見て、蘭の顔を見た。

「こっちの方が傷深いじゃん。直接手で触れたな」
「……」

 蘭は特に何も言わない。

「まぁいいや」

 硝子はそう言って蘭の手に彼女の手を重ね合わせた。竜胆は今度こそ何が起こっているのか見るために、少し身長をかがめて、硝子の手を見つめていたが、何がなんだかわからないうちに、蘭の手の傷が消えていくのだ。首を傾げた竜胆に硝子が笑う。

「反転術式って言うの。便利だろ。死にかけを何度も死地に送る術だよ」
「手品……?」
「手品じゃない。まぁー……曜子から説明受けてんの? 呪術、ってとこかな」

 硝子はからからと笑った。煙草の灰が床に落ちたがあまり気にしていないらしい。
 天井のライトがまぶしく部屋を照らしている。部屋の中に置かれたものは白かもしくは銀色をしているためになにもかもがまぶしく感じられた。
 硝子が椅子に座ってしばらくすると、先ほど外で見かけた夜蛾という名の大男が姿を現す。

「やべっ」
「硝子……煙草はやめなさいとあれほど言っただろう」
「すみませーん」

 硝子の口調に謝罪の気持ちがこもっているようには思えなかった。夜蛾は穏やかな口調で、硝子をたしなめつつ、蘭と竜胆の方へ向き直る。
「鶴蝶は今晩はこちらに泊まらせる。明日、傷の様子を見て帰すかどうかを決めるから、君たちも泊まっていきなさい。事情は黒川と曜子から聞いた。硝子、夜にすまなかったな。助かった」
 思わぬところで大将の名前が出て、竜胆は蘭と顔を見合わせた。そして竜胆が少し顔をしかめる。

「バイク、門のところに停めたまんまだ、兄貴」
「あー」

 その言葉に蘭はそれはまずいな、という顔をするが、夜蛾はそうは思っていない様子だった。

「大丈夫だ。夜中に限らずここへ来る人間は限られている。鍵は?」
「一応持ってる」
「なら平気だろう。路駐したところで警察も来ない。一応バイクは放っておけと連絡しておこう」

 思っているより細やかな気が利く。竜胆と蘭は「それはどーも」となんとも歯切れの悪い挨拶をしたが、夜蛾はあまり気にしていないようだった。


20211231