呪霊

 曜子は焦りを感じていた。心の奥底がちりちりと焼けつくような、焦燥感が身を焦がす。それと同時にこれだけ人がいながら喉が苦しくなり、涙が出てきそうな孤独感も感じている。今、呪霊について適切な知識を所持しているのは曜子しかいない。ここにいる人たちは、全員が曜子の守るべき対象であって、誰も手助けしてくれない。里で任務に就くときは、たいてい二人一組だった。その方が生存率が上がるからだ。しかし等級が上がれば一人での任務も増えてくる。それがこの孤独か、と曜子は感じていた。私が失敗すれば後がない。失敗するわけにはいかない。
 呪霊はおそらくは二級相当の実力を持っている。刀で腕を切り落とすも、その体の深部にある核には触手が邪魔をしてなかなかたどりつくことができない。そうしている一方で、鶴蝶と呼ばれた青年が病院へ、呪術の呪痕の適切な処置ができない場所へと連れていかれようとしている。ああ、だめだ。それはだめなのだ。それでは死んでしまう。あれは呪術高専に連れていなければ、と焦れば焦るほど曜子の刀は精細さを欠いていく。

「あ、」

 呪霊が振り上げた腕を一歩下がって避けて、切り落とすつもりで刀を振り下ろした。しかし、がきん、と刀が止められる。ありとあらゆるものをぐちゃぐちゃにつなぎ合わせて、それでようやっと形を保っているような奇怪な形をしているというのに、頭はあるのだろうか。この呪霊は明らかに学習をしている。曜子はぞっとした。背筋を悪寒が走り抜けて、自分の失敗に絶望する。呼吸は浅いというのに脈がやけに遅く感じられる。耳元でどくん、どくんと心臓の鼓動が聞こえる様な気がした。呪霊が腕を引くと、それに合わせて腕に食い込んだ刀が引きずられ、自然曜子の体が前に崩れる。呪霊のもう片方の腕が曜子に向かって振り下ろされる。腕についた目玉がぎょろりと曜子を見て、気孔のような唇が曜子の失態をけらけらと笑っている。そしてどうじに勝利に寄っているようにも見えた。学習すると同時に他者をあざ笑うことができるだけの知能があるのだ。この体格差から振るわれる拳は、下手したら曜子の頭蓋を砕くだろう。硬質化した腕から刀を抜くのは間に合わないだろう。かといって腰に佩いた短刀で受け止めるには短刀に込められた呪力が足りなかった。ここまでか。
 呪霊の腕は速度を持って振り下ろされる。死を間近にすると、そのすべてが遅く見えた。しかし自分の体も疲労しきったかのように重たく、まるで動こうとしなかった。もう一度チャンスをもらえたかもしれないのに、ここでまた死んでしまうのか、と思うとどうにも切なく悲しかった。しかしこれは曜子にはあまりにも重すぎる任務だったのだ。せめて、曜子が殺されることで、事情を察知して、一人でも多く逃げてくれればそれでいいと思った。一瞬、頭の中を傑の笑顔がちりついたが、それで終わりだ。悲しい走馬燈だな、と自嘲して、せめて曜子は死をまっすぐ見据えようとした。

「!」

 曜子が死を確信した瞬間だった。
 突如呪霊の体がふわりと浮いて、吹き飛んだのだ。曜子の手から刀が抜けて、また呪霊の体からも引き放されてカランカランと音を立てて刀は地面に転がった。コンクリート敷きの地面は平らにならされているので、刀は曜子から少し離れたところで転がることなく沈黙する。何が起こったのか一瞬わからなかったが、周囲がひゅっと息を呑むのが分かった。曜子の目の前には紫色の瞳の少年、イザナがいた。その少年が、あの呪霊を蹴り飛ばしたのだ、と幾ばくか遅れて状況を理解した。とてつもない力だ。いや速さだろうか。イザナのしなやかな体は、呪霊を軽く蹴り飛ばしておきながらも、体勢を崩すことなく、膝を曲げて地面に着地する。呪霊はごろりと転がってコンテナに体をぶつけた。しかし、呪力がなければ呪霊を祓うことはできない。呪霊はにたぁ、と笑いながら起き上がろうとしていた。

「割と軽いのな」
「だ、だめです! 呪霊は呪力がなければ__」
「トめといてやるよ、刀拾ってこい」

 曜子の言葉にイザナは何を理解したのか、それはわからない。イザナは曜子に軽く声をかけて走り出し。ぴょん、と大きく跳び上がった。その真下を呪霊の触手が通り抜ける。イザナは触手の上に着地するとバランスを崩すことなくその上を走り始めたのだ。ぐねぐねと蠢く触手はぶよぶよとして足場としては安定してない。だがイザナはそんなことなど関係ないとばかりにさらに大きく跳躍し、足を振り下ろす。今まで血をにじむような訓練をしてきた曜子ですらあっけにとられるような、とてつもない身体能力と戦闘能力は、とても一般人とは思えなかった。しかしイザナの体がまとう呪力は、呪霊が現れたことでそれに共鳴するようにして生まれたわずかな呪力であり、それだけで呪霊を祓うには足りないのは明白である。
 イザナに目を奪われていた曜子だが、今やるべきは自分の刀を拾うことだと、少し冷静になった頭が考える。曜子は立ち上がって、刀の方に走り出す。転がった拍子にこすれた肘と膝がじんじんと熱を持っていたが、そんなものは死ぬことに比べればなんということはない。曜子は少し離れたところに転がった刀を掴んで、呪霊を見た。イザナは呪霊を相手に怯むことなく怯えることなく戦っている。跳躍からの蹴りは見事なもので、一撃一撃が相当な威力を持っていることは確かだった。だがこの呪霊は学習する。何度目かになるイザナの蹴りを呪霊は両腕で受け止めた。にたぁ、と呪霊の口元が笑って、曜子はぞっとした。しかしイザナはそれでも怯むことはない。
 曜子は高く跳躍した。思い切り硬い地面を踏みしめて呪霊に斬りかかるが、当然呪霊は逃げようと体をよじる。だが、逃げようとする呪霊の勢いを止めたのもイザナだった。

「逃がさねーよ」

 片足を掴まれて圧倒的に不利な状況であるというのに、イザナは真っ白なまつ毛で覆われた瞳を閉じる。そして一息吐くと掴まれていないもう片方の足で地面を蹴り、空中で一回転する。自然と足がねじれ、呪霊の腕との間に空白ができた瞬間に、イザナはすっと足を引く。するとしっかりと掴まれていたはずなのに、イザナの足はあっさりと呪霊の腕から抜け落ちた。そしてそのまま回転の勢いを呪霊の体に思い切り叩きつけた。
 呪霊は基本的に呪力がなければ祓うことはできない。しかし、稀に呪霊に近づきすぎたせいで、一般人でも体に呪力を帯びることがある。共鳴と言おうか、人間であれば誰しも呪力というものは持っている。呪力とは人間が生み出す負の感情であり、負の感情は誰にでも生まれるものだからだ。しかし普通に生きている限りは呪力を引き出し武器にすることはできず、当然呪霊に対する防御力は存在しない。だが壮絶な死を形にした呪霊が傍に寄ることで、体の内に眠る呪力が引き出されるということがあると、曜子は聞いたことがあった。これはごくごく例外的な事例ではあるが、今のイザナはその状態なのだろう。もしくはもう一つ選択肢がある。それは天与呪縛と呼ばれる、呪術師の中でも呪力を一切持たない人間が呪力の代わりに絶大な身体能力を得るというものだ。一般人からも呪術師は生まれる。ならば理屈の上であれば天与呪縛の子供も生まれることはあるのだろう。それは通常気づかれることなく生涯を終えるが、果たして今のイザナがどちらの状態なのか、曜子には見当もつかない。
 イザナの蹴りが呪霊の体に食い込んで、ぐらりと呪霊の体が傾ぐ。両手が大きく開かれて無防備になった、核に、飛び込んできた曜子の刀がまっすぐに突き刺さった。何度腕を切り落としても触手を切り落としても再生し立ち上がってきた呪霊は、核を貫かれた途端、「ギエエエエエエ」と大きくいなないて、ぐらりと足から崩れ落ちる。耳障りな叫び声は、ここにいるすべての人間に届いたようで、皆一様に耳を手で覆った。至近距離で、最後の呪力をぶつけられた曜子は刀を握っていることができず、コンクリートの地面をごろごろと転がる。思い切り打ち付けた背中がひどく痛んだが、曜子は死の感覚を噛みしめて何度も「耐えろ」と自分に囁きかけ、立ち上がった。しかし曜子にぶつけた呪力の塊、それが呪霊の最後であったようで、曜子が立ち上がった時には呪霊はすでに倒れた後であった。手足は力を失いだらんと垂れ下がり、蠢いていた触手もまた動きを止めて、そのまま起き上がることはなかった。

「終わった?」
「……うん……」

 曜子は打ち付けた背中の痛みに耐えながらよろよろと呪霊に近づいていく。そして呪霊に突き刺さった刀に手をやったが、刀を抜く手に力が入らない。踏ん張ってみるが、先ほどのように力は出なかった。呪霊はほっといても消える。刀は呪霊の一部ではないから残るので、呪霊が消えるのを待ってもよかったのだが、いつまでも自分の刀が呪霊に触れているのは、曜子の気持ちとして気持ちが悪かった。
 イザナはしばらくそんな曜子のことを眺めていたが、ふいに近づいてくると、曜子の手の上に手を重ねてぐいと刀を引っ張った。少年と称したが、曜子の手よりも一回り大きな手は確かに男の手であった。何の脈絡もなく手を重ねられてどきりと曜子の心臓が跳ねる。刀を握った手だけ、肌が敏感になっているような、そんな奇妙な感覚を覚えながらイザナと共に刀を抜く手に力を入れると、今度はすぽん、とあっけなく刀は抜けて、曜子は何歩か後ろに下がる。イザナは、やはり恐れることなく呪霊に近づくともう一刀も引き抜いた。呪霊はすでに形をぐずぐずと崩しており、直に完全に消滅するだろう。そのことにほっとしてしゃがみこんだ曜子にイザナは近づくと、握った刀をそのまま曜子の首に向けた。
 水銀灯の明かりが刀身を照らし出した。曜子が叩き磨き上げた刀は絶大な切れ味を誇る。きらきらと光に輝く抜き身の刀は、素人が持っても十分な武器になる。しかし刀はそれなりの重さがある。通常訓練していない人間が持っても、その重さで手がぶれるのだが、イザナは刀の扱いにでも慣れているのか、ぶれることなく握りしめた刀を曜子に突き付けている。

「あれは、何?」

 イザナはまっすぐに曜子を見つめて問いただす。無表情に務めているのか、元々あまり笑わないのか、そのどちらであるのかはわからないが、ひどく単調な少年の言葉は曜子の背筋をぞくりとさせた。

「えっと、説明するのは、難しくて」

 曜子はしどろもどろになりながら答えたが少年__イザナの満足のいくものではなかったらしく、刀の刃がぐっと首に食い込む感覚があった。曜子自らが磨き上げたその刀の切れ味は、触れただけであるのに曜子の首の皮をあっけなく切り裂く。つ、と血の筋が制服に吸い込まれていく。そのまま刀をひけば、曜子の頸動脈はあっけなく切り裂かれるであろう。その未来を予想して、曜子は思わずぎゅっとスカートを握りしめる。

「答えろ」

 イザナの言葉はあっけないものであったが、答えなければならないという焦りを生む、絶対的な強制であった。曜子はぎゅっと唇をかみしめてから、一つ一つ言葉を確かめるように、そのうるんだ唇から言葉を吐き出した。

「……呪霊と呼ばれるものです」
「鶴蝶を苦しめているのは?」
「呪霊の一部……呪霊という負の感情そのものに直接触れたので呪いが移りました……そうだ、早くなんとかしないと」

 そのことを思い出した途端、曜子は一瞬自分の首に当てられた刀のことを忘れた。立ち上がると、首筋に赤い線が引かれ、前髪が少し切れたが構わず立ち上がる。しかし曜子はそんなことを気にする様子もなくよろよろとした足取りで鶴蝶の元に向かう。刀を取り返すという選択肢もあったが、呪霊がいなくなった今、脅威と呼べるものは去った。次にやるべきは人命救助だ。少なくとも曜子はそう教わった。もしここに曜子の敬愛する兄がいたら、きっとまずは刀を取り戻すのだろうが、先の刻から続く、わけのわからない事態に曜子の頭は混乱していた。刀を取り戻すことも忘れて、バイクに乗せられた鶴蝶に近づく。
 鶴蝶は今まさに、蘭が自分の体に縛り付けてバイクに乗せているところだった。触手に巻き付かれた胴体と首、そして巻き込まれた左腕には今も力が入っているのか、左手には血管が浮いていた。意識はまだあるようで、曜子が近づいてくると鶴蝶はうっすらと目を開く。

「い、ざ……な」

 鶴蝶の唇がわずかに開いてそう呟いた。曜子は鶴蝶に意識があることに安堵しつつ、今にもバイクを発進させそうな蘭の手に自分の手を置いて言う。

「待って! 病院に連れてっても助かりません!」

 蘭が首を傾げて動作を止めた。

「今、それを」

 鶴蝶の首に巻き付いた触手も放っておけば消えるだろう。だがそれを待っていては鶴蝶が保たない。曜子は太刀の二口ではなく、腰に佩いていた小刀を鞘から引き抜くと、それを鶴蝶の首回りに巻き付く触手にぶすりと突き刺した。ぶよぶよとした感触が、小刀越しに伝わってきて気持ちが悪い。一度では職種はたちきれない。二度、三度と曜子は鶴蝶を傷つけないように小刀で斬り込みを入れていく。

「「!?」」

 蘭と竜胆が目を見開く。先ほど二人が試したときはあっけなくナイフの方が折れてしまったというのに、曜子が刀を突きさすと、触手の方があっけなくぐずぐずと崩れていくではないか。やがて触手は完全に形をなくして、鶴蝶の首と腕そして胴部には焼け爛れた傷痕と、呪痕が残るばかりとなった。

「病院ではこの治療はできません。今から彼を呪術高専に連れていきます」
「ジュジュツコーセン?」
「誰かほかにバイクを運転できる人はいますか!?」

 曜子は聞き返してきた蘭の言葉を無視して周囲に話しかける。曜子の声はすっかり枯れていた。叫ぶと喉がひりついたが、それをぐっと我慢して何度も声をかける。
 突如現れた呪霊、見知らぬ女、今宵はわけがわからないことだらけであろう。ざわめく周囲からはなかなか手を上げる者はいない。それも当然のはずだ、こんな状況で、さらに意味の分からないことに進んで巻き込まれようとする人間はそうそういないだろう。曜子は思わず唇をかみしめた。救急車では間に合わない。この傷では近くの病院に所属している呪術師では対応しきれないだろう。呪術高専に、高度な反転術式を使える術師の下へ連れて行かなければならない。ここで喧嘩をしていただけあって、鶴蝶はかなり頑強な肉体と精神力を持っているとわかるが、それでも放置できる傷ではなかった。
 曜子が焦りで困惑していると、突然人込みが割れた。「どけ」の一言で、人は道を開ける。割れた人混みの先に居たのはバイクにまたがったイザナであった。イザナの纏う赤い服はやけにバイクに似合っている。目立つ服装であろうのに、イザナが服に着られる、ということはない。イザナはバイクに乗ったまま曜子に向かって後ろの座席を示す。そしてぽんっとヘルメットを投げて渡した。

「乗れ。蘭、それから一応竜胆もついてこい。望月と獅音はこの場を収めろ」
「あいよ大将」

 曜子は鞄だけ担ぐとバイクに近寄った。イザナのバイクのそばには曜子の刀が二口揃って地面に突き立ててあり、曜子は慌てて刀を鞘にしまう。そして慣れないヘルメットをかぶって、すぐにイザナの後ろに飛び乗る。

「案内できるの?」
「はい、東京都の__涌和町はわかりますか」
「わかんない。でもとりあえず東京に行けばいいんだな」
「__はい」
「しっかり掴まれ、落ちたら殺す」

 曜子がそういうとほぼ同時にバイクがブォンと音を立てて走り出す。その後ろを鶴蝶を乗せた蘭と、竜胆が続いた。


20211221