街灯の下
混乱する頭で曜子は必死に考える。曜子は確実に死んだ。それはおそらく覆されぬ出来事なのであろう。そして曜子は何らかの理由で、生き返った、もしくは表現を変えるなら時間渡航をした。昔どこかの映画でそんなものを見たことがある気がする。呪術師であるためオカルト的なものに傾倒することはなかったが、それでも、知識として知っている。そんな夢のようなことが起きていると考えるのが不自然であり同時に自然であった。
どのようなことが起こっているにせよ、曜子は一度呪術高専に行くべきであると思う。あそこであれば、呪霊に関する何か情報を集められる可能性は高く、また同時に今曜子の身に起こっていることも聞いてもらうことができるだろう。いかんせん、呪術師の世界というものは奇妙な出来事も多い。一度死んで生き返りました、なんてことは頻繁にあるわけではないが、前例は存在する。呪術高専に行けばこの奇妙な出来事に関して説明がつくかもしれなかった。
とりあえずの方針は見えた。これならなんとかなりそうと思いつつ、曜子は今に集中することにする。何があったのかはっきりとはわからない。ただ、自分はこの世界に生きていて、大好きな兄も、初恋の人も存在する。それだけわかれば十分だった。
曜子は再びコンテナの影からそっと顔を出して喧嘩の様子を見守った。すでに形勢は赤いグループに傾いており、黒いグループは散り散りになろうとしていた。この様子ならそう遅くならないうちに赤いグループが勝って、去ってくれるだろう。それまでの間に呪霊が出てこないことを願いながら、曜子は刀に手を添える。
ふと、コンテナの上に座り込んでいた少年が動いた。少年がコンテナから降りると、赤いグループがさっと避けて少年に道を作る。少年はそれを当然のように受け止めているように見えた。少年はそのまままっすぐに歩き、黒いグループの中でもひときわ身長の高い男の前に立った。身長の高い男はすでに息は切れ切れで、顔も血まみれだ。だがそれでも闘志を失ったというわけではないらしく、赤い白髪の少年に掴みかかろうとする。
その瞬間。
曜子はその一瞬を目に留めることはできなかった。少年の足が上がって、身長の高い男を蹴り飛ばしたのだ。男は一瞬で沈み、それ以降動く様子は見られなかった。一秒もかからなかった、圧倒的早業。身長差から、白髪の少年が圧倒的に不利に思えたが、そんな有利不利など無関係な蹴りの一撃は、無慈悲に男を打ちのめしたのだ。赤いグループが少年に喝采を送る。皆一様に「イザナ」と叫んでいるように聞こえたが、曜子からすればなんにせよこれで喧嘩は終わったのだとほっとした。あとは全員がこの場から退いてくれればそれでいい。
だがそう簡単に物事は運ばない。少年の目が、人込みをかき分けて曜子に向けられる。そしてにやりと口角が上がった。
「隠れてないで出てきたらどうだ。どこの指金か知らねーが、用があるなら相手になってやるよ」
一瞬赤いグループにざわめきが広がって、そして皆が自分の方に視線を向けるのがわかった。曜子は一瞬びくりとしてからそろそろとコンテナの影から光の中に出てくる。
「一人?」
少年が言う。
「えっと、その」
そもそも曜子はなぜ彼らが喧嘩をしていたのか知らない。そして今、何を疑われているのかも、曜子にはわからなかった。
少年がまっすぐに曜子の方へと歩いてくる。さっと人が避けて少年の道を作る。曜子は少年と真っ向から向き合うことになった。
「あの、初めまして……?」
おそるおそる曜子は話しかけてみたが、少年は特に表情を動かさない。光の中で紫色の瞳と、月に萩を模したピアスがきらきらと輝いている。きれいな人だと、思った。
「大将~、誰ェそれ」
「知らねー。さっきからずっとこっちを覗いてやがった。サツかと思ったけど、違うらしいな」
黒い髪と金色の髪が入り混じった青年がやってくる。赤いグループの中でひときわ目立つ黒をまとった青年は、体の前に垂らしたみつあみに触れながら、警棒で自分の肩をとんとんと叩く。
「物騒なもん持ってんじゃん。腰のそれ、刀? 本物?」
青年はぐっと顔を曜子に寄せて、腰の刀を指さした。にこにこと笑っているが、その笑みはどこか物騒なものをはらんでいる気がする。曜子は思わず一歩下がる。青年の警棒を持った手が振り上げられ、そして一歩下がった曜子の頭を思い切り殴りつけた。その攻撃性には何の前振りもなかった。
「下がっていいなんて言ってねぇだろ」
青年は今もにこにこと笑っている。だが言っていることはあまりにも理不尽だ。
予想だにせぬ一撃に、曜子は受け身をとることもできず、思い切りコンテナに頭をぶつけた。細身の体からは想像を絶する、あまりにも強い一撃に頭がくらくらする。足からがくんと力が抜けて、曜子はその場にしゃがみこむ。コンテナにぶつけたところに手をやると、血が出ているのがわかった。警棒で殴られた側もひどく痛んでいたが、このまましゃがんでいると余計にまずいことになる気がして、体をふらふらとさせながら、コンテナを支えになんとか立ち上がる。鞄は肩から外れて地面に落ちた。
「へぇ、立ち上がるんだ」
じゃあもう一発、と青年はやはり笑っている。何がもう一発なのだ。冗談ではない。だが人間同士のいさかいに刀を持ち出すわけにはいかない曜子は、なんとかまっすぐに立って、青年をぎっと見返した。
「蘭、いい」
「いいの? もしかしたらどっかのスパイかもよ」
「ほっとけ」
蘭と呼ばれた青年の動きがぴたりと止まる。声をかけた少年の声はどこか無機質でやる気が感じられなかった。
少年の興味は曜子から逸れたようだった。青年は少年の言うことは聞くようで、「はァい」と言うと曜子に背を向ける。青年の暴行から逃れられた曜子はほっとするが、息をつくのもつかの間、喉の奥にへばりつくような殺意を感じて頭を上げる。人の頭上高くになにかが浮かんでいる。球体をしたそれは膜に包まれた、卵のようにも見えた。そしてその卵の殻を破ってなにかが生まれようとしている。
「……ッ! 逃げて!」
曜子はなりふり構わず大声を上げた。蘭と呼ばれた青年が立ち止まり曜子の方を見る。少年もまた足を止めて曜子の方を見ていた。
「はぁ? 逃げるのはオマエだろ」
「違うの! いいから逃げて!」
前傾姿勢になりながら、腹の底から声を出す曜子の必死さは、多少なりともその場の空気を変えたようで、なんだなんだ、とざわめきが広がる。そんな中一人が頭上を指さして「あれ、なんだ」と声を上げた。ざわざわとした空気の意識は、頭上に浮かんだ何かに吸い寄せられる。
(死が近い! 見えてる!)
一番まずいことになった。人が多いこの中で呪霊が誕生したら大惨事になる。
頭に傷のある青年が飛び出したのはその時だ。
「ッ! イザナ! 避けろ!」
「鶴蝶?」
イザナと呼ばれた少年は曜子の方を見ていたことが災いした。
卵の殻をこじ開けるようにして出てきた太い一対の腕、体の腹部から何本も生えた触手、それらがこの集団の中で一番目立つ少年に襲い掛かる。その少年をかばったのは鶴蝶と呼ばれた、頭に傷のある青年だった。
触手が青年の首と胴に巻き付く。左腕を巻き込んで絡みついたそれは鶴蝶をしっかりと掴んで離さない。鶴蝶は右手でなんとか触手から逃れようとするが、触手からこぼれる液体は強い酸性を帯びているらしく、じゅう、と肌が焼ける臭いがした。
「鶴蝶!」
派手な髪色の青年が駆け寄る。
「ぐううァァアアアア!!」
鶴蝶が痛みと苦しみで叫び声をあげた。
呪霊はすでに完全に生まれている。首から上がなく、首がついているはずのところには大きな眼球が覗いていた。空を見上げる眼球、そして触手の奥に口がある。口からはぎりぎりぎりぎりと歯ぎしりの音が聞こえてきて、それはどんどん大きくなり、耳鳴りを引き起こす。
この場で状況を理解しているのは曜子だけだ。そして、この場を収めることができるのも、曜子だけだった。
曜子は跳躍し、自分に背を向けている蘭の肩に足を置く。
「ごめんなさい、お借りします」
「は?」
ぐっと蹴るが、蘭の体はほとんど動かなかった。体幹がしっかりしているのだろう。自分で鍛えたのかはたまた何か武道を習っていたのかわからないが見事なものだ。
曜子は蘭を足場に大きく跳躍し、鶴蝶を飛び越して呪霊の目の前に着地した。そして抜刀、鶴蝶と呪霊を繋ぐ触手を真っ二つに斬ると、そのままの勢いで、刀を呪霊に突き刺した。
曜子の身長の倍はあるだろう体には、一対の太い腕のほか、首がないことを除けば、形は人間に似ていなくもない。腕の先端にも眼球があり、そちらがぎょろりと曜子の方を見た。腹部からはみ出した触手は、波に揺られるイソギンチャクの触手のように蠢いている。触手は斬られても再生するようで、すでに断面は見えなかった。足が一歩曜子の方に踏み出してくる。
曜子は刀を構えなおすと、ふー、と息を吐いた。そして跳躍する。跳躍した曜子を触手が追いかけてくる。それをすべて斬り伏せながら、呪霊の首の部分に着地する。腕が迫ってくる。その前に曜子は上を向いた眼球に刀を差した。
ギャアアアアアア
耳をつんざく呪霊の悲鳴に、その場にいた誰もが思わず耳をふさぐ。両腕が曜子を捕まえようとして空を掻いた、その頃には曜子はとっくに呪霊のさらに頭上にいた。
曜子は刀を投擲する。本来投擲武器ではないが、まっすぐにとんだ刀は、上を向いた眼球の上で交差した腕を、体ごとその場に縫い留めた。
曜子は二刀使いである。”目白童子”と”目黒童子”と名づけられた兄弟刀が曜子の武器だ。今投げたのは目白童子である。曜子はまだ鞘に収まったままだった目黒童子を引き抜き、頭上からそのまま呪霊の腕を縫い留めた刀の柄に着地してさらに刀を深く食い込ませた。だが呪霊も曜子にやられっぱなしというわけではない。呪霊は刀に縫い留められた腕をむりやり引きちぎる。そうしてぼろぼろになった腕は、じわじわと元の形に戻っていく。触手ほど素早く再生できないのは、触手とその中央にある口が呪霊の核だからだろうか? 呪力も確かにそのあたりに集中しているので、今貫いた眼はあまり意味はなかったのかもしれないな、と曜子は思いながら、曜子を捕まえようとする腕から逃れて、地面に着地する。呪霊は完全に曜子を敵とみなしたようで、背後に着地した曜子を確認するようにぐるりと体を回転させた。大きな目玉には曜子の刀が刺さったままだ。
「何あれ兄ちゃん!」
「知らねーよ! それよりこっちだ竜胆、おい鶴蝶! 平気か!」
蘭は警棒を放り出して、懐からナイフを取り出し、依然、鶴蝶の首と胴体に巻き付いた触手を斬り落そうとするが、手袋越しにも触れた手が痛むのがわかった。鶴蝶を傷つけないようにナイフを触手に突き立てる。だが、ナイフはパキン、と硬質な音を残してあっさりと折れてしまった。
「!?」
「竜胆、ナイフよこせ!」
「うん!」
竜胆は素早く懐からナイフを取り出し蘭に渡した。蘭は再び触手に向かってライフを振り下ろすが、こちらもあっけなく折れてしまう。
「チッ、おい竜胆! 鶴蝶引き離すぞ、足持て! 絶対にこれに触るなよ」
「わかった」
蘭は肌が焼ける臭いを嗅ぎながら、鶴蝶を突如現れた異形の存在から引き離す。幸いにして異形はもうこちらに興味はないようで、今は突然現れたあの女に視線が向けられている。あの女がなんなのかわからない。しかし、自分が殴ったときは抜かなかった刀を抜いたということは、何かしらこの状況を打破する力を持っていると見ていいだろう。そういえば一番最初にあの異形に反応したのはあの女だった。
鶴蝶を異形から引き離したころには、周りはパニック状態だった。望月がなんとか収めようとしているが、末端はすでに逃げ始めている。まぁ、死ぬよりはましだろう。あの異形からは死の臭いが漂ってくる。
「おい鶴蝶、無事か!?」
「うッ……ぐっ、なん、とか」
首を絞められる直前に挟み込んだ左腕のおかげで呼吸の通路は確保されているようだ。だが左腕も首もひどく赤くただれて、そして奇妙な黒い模様が浮かび上がっている。なんとかこの触手を引き離せないかと格闘してみるが、がっちりと鶴蝶に組みついた触手はどうやってもなかなか引きはがせない。
「兄ちゃん! 手!」
竜胆の言葉に蘭は自分の手を見た。つけていたはずの白い手袋は、穴だらけになり、手は赤くただれている。そして鶴蝶に浮かび上がった奇妙な模様と同じものが、蘭の手にも浮かび上がっていた。その瞬間、体が強い痛みを自覚する。思わず叫び声を上げたくなるほどの激痛が手を通って頭をがんがんと殴りつけているようだ。それは身体的な痛みでもあったが、同時に精神的な痛みでもあった。流れ込んでくるのは明確な死というヴィジョンで、今まで自殺など考えたこともなかった蘭にそれを迫るような、切迫した感情が頭の奥底から湧き上がってくる。
「クソッ」
蘭は使い物にならない手袋を脱ぎ捨てる。今は痛みに呻いている場合ではない、このままでは鶴蝶が絞め殺されてしまう。
「兄ちゃん、オレが代わ「だめだ竜胆! オマエは絶対これに触んな!」……」
何もかもがわからない。あの異形も、鶴蝶を絞め続けている触手も、そしてあの女も。
「竜胆! バイク回せ! 病院か、警察か、どこでもいい! なんとか連れてくぞ!」
「うん!」
竜胆はその場を離れた。
蘭はちらりと女の方を見る。女は多少足がふらついているものの、異形の一撃を一度も受けずに刀でさばいている。その腕前は見事なもので、なぜ先ほど刀を抜かなかったのかがわからない。遠くで竜胆がバイクを吹かす音が聞こえた。
20211210