街灯の下
曜子の黒い黒曜石のような瞳がぱちりと開いて、空を見つめた。空は暗く、しかし曇り空であることがわかる程度には明るい。雨は降っておらず、雨の後の少しだけ冷たい湿気を含んだ空気が曜子の頬をなでる。
しばらくの間曜子はぼんやりと暗い空を眺めていたが、そのうちに徐々に記憶が戻ってくる。足を引きちぎられた痛み、胴を引きはがされる痛み、それらを鮮明に思い出すと、喉の奥からこみ上げるものがあって、曜子は思わず起き上がって胃の中をぶちまけた。幻肢痛のように、頭の中で痛みが再現される。喉が胃液でひどく痛み、頭痛までしてきた。曜子はそっと自分の下腹部に手をやる。だがそこに傷はなく、両足も、臓器もきちんと曜子の体にくっついている。それを確認すると頭の内からがんがんと叩くような、ひどい痛みはすっと消えていった。首からの出血もなく、体が冷えていることには冷えているが、こんなところで寝ているからに違いなかった。
曜子は吐しゃ物を避けるようにずるずると移動して、そばにあった壁に体を寄りかからせた。胴を引きちぎられたあの激痛はどこにもなかった。強いて言えば、体の節々が痛みを訴えている程度だ。おそるおそる、曜子は着ている制服をめくってみる。中学生を思わせる制服のような服の下を見て、曜子は愕然とした。
大きな、傷がある。
胴を真っ二つにしたような傷がはっきりと残っている。慌ててスカートをめくってみると、こちらにも足の付け根に大きな傷が残っていた。
あの死の感覚は嘘ではない。なら今生きている、と思しき自分はなんなのだろうと曜子は余計に混乱した。
だがそんな状態でもまず最初に頭に思い浮かんだのは、刀のことだった。はっと気づいて、腰の手をやると、そこには二振りの愛刀がきちんとあって、曜子はほっと息をなでおろした。しかし同時に疑問に思う。普段街中を歩くとき、刀は刀袋に入れて背負っている。そうでなければいろいろと都合が悪いからだ。こうして刀を腰に佩く時は呪霊との対峙が近いときであるので、つまり曜子はこれから呪霊退治に行く、と考えるのが普通だった。またあの時、曜子は刀を手放してしまったはずだ。一振りは建物の下に、もう一振りは呪霊に掴まれたときに取り落した。つまり二振りが腰の鞘に納まっているというのはおかしいことであった。
もしかして、あの死の感覚は夢だったのだろうか。しかしそれにしてはリアルな夢であったし、仮に夢であったとしても、今置かれている状況、こんな場所での任務についての記憶はない。
曜子はますます混乱しながら、体をぺたぺたと触って他に異常がないことだけを確認する。大きな傷痕はあれど、出血はなく、体を動かせば特に何の問題もなく体は動く。
「あれ……」
暗がりであったため、気づくのが遅れたが、曜子はセーラー服を着ていた。あの時死んだ自分はこんなセーラー服を着ていただろうか。思い出せない。昔からあまり服に頓着しない性格であったため、そのあたりの記憶は随分と曖昧だった。黒く見える襟と、胸元の短めの飾りネクタイ、そして黒いスカートは、高専の制服ではなかったはずだ。
しばらく曜子は呆然としていたが、いつまでもこうしているわけにはいかない、と気づく。仮にここが天国かもしくは地獄という概念の場所だったとしても、動かなければ何も始まらないだろう。曜子はすぐそばに落ちていた、自分のものと思しき鞄を手繰り寄せて、中身を確認していく。
「なにこれ」
まず最初に目に入ったのは、鞄の一番上に置かれていた小さな機械だった。四角く、二つ折りになっているようで、曜子は恐る恐るそれを開いてみる。初めはどちらが上かわからなかったが、暗がりの中でなんとか文字盤の文字を読み取って画面が上、文字盤が下であることが判明した。画面が明るかったのは幸いだった。
「?」
曜子は首をかしげる。確か曜子はスマートフォンを持っていたはずだ。こんな機械に見覚えは、いや、と曜子は思う。このような機械をどこかで見たことがある。そうだ、兄が昔こんなものを持っていた。まさかと思うが……曜子は小さく「ガラケー……?」と呟いた。状況はますます混とんとしてきた。
曜子がガラケーを開いた拍子に、ガラケーはスイッチがオンの状態になり、画面には四桁のパスワードを入力するように、という指示が出ている。画面に表示された四角いマスと、一マス目で点滅するカーソル。四桁、四桁と曜子は頭をひねる。そしてひとまず自分の誕生日を入力してみた。はずれ。最後の一つの数字を入力した途端、すべての数字が消えて「パスワードが違います」という文字が出てくる。文字はドット絵で表現されるような、少し画面の表示に粗さがある。そして曜子は再び悩む。そもそもこのガラケーが自分の物であるかどうかさえ怪しい。しかし、もし自分のものなら、自分の誕生日でもなく、おそらく敬愛する兄の誕生日でもなく、自分なら……と曜子は恐る恐る0203と入力してみたのだった。パスワード入力マスの上に表示されていた鍵のマークがカチリと開くアニメーションとともに、画面は移り変わり、画面いっぱいにアイコンが並んでいる。
「傑さんの誕生日……」
我ながら単純なパスワードに曜子は少し顔を赤くしながら、そのままカチカチとボタンをいじってみる。ガラケーなど触ったこともなかったが、画面のアイコンはわかりやすかったし、またボタンも比較的何を示しているのか明瞭であったため、さほど苦労はしなかった。スマートフォンのように直感的な操作とはまではいかないが、それでも、なんとかメールを開くことはできた。
メールの中身はほとんどが次の任務の指示であった。あとは途中途中に兄からの連絡があったり、傑や悟から特になんのこともない連絡もあった。そうしてボタン操作に多少苦労しながら携帯を読み進めて、そして加えて今晩は横浜の倉庫街での任務が入っていることを確認した。
「横浜の倉庫街……」
ぐるりと見回せば、明かりの少ない無機質な建物が並んでいる。でっぱりが少なく飾りもほとんどない建物には、どこぞのだれかが描いたと思われる落書きがいくつもあった。曜子は立ち上がって建物に触れてみる。そして耳を当ててみたが、建物の中から特に音も振動も響いてはこない。もう使われていないと考えるのが妥当なようだ。しかし曜子の倒れていたところから少し離れているところには街灯が点灯しているため、どうやら電気はきているようだ。暗闇にいるのはどうも落ち着かなかったため明かりの下に来ると、曜子は続けて鞄の中を探っていく。ポケットティッシュにハンカチ、ノートには日常生活にまつわるあれこれがいろいろと書き込まれている。自分が今着ているのとそっくりそのままの制服が一着入っているのを見ると、汚れたときに着替えるためのものだろう。ハンカチとは別にタオルも入っている。懐中電灯、折りたたみ傘に救急セット、財布にロープも入っている。ロープだけ少々異質だったが、呪術師という仕事柄、本来立ち入ってはいけない建物に立ち入ることも多い。誰かが入ってロープを垂らしてもう一人を呼び込んだり、脱出する際に二階三階から降りるのに使ったり、また骨折等のケガをしたときに骨折箇所を固定するのに、と、ロープは一本あるとなかなか便利なのだ。財布の中には保険証などが入っており、中学校の学生証と思わしきカードも入っている。記載されている名前は天野曜子、知っている限りそれは自分のもので、となるとこの鞄は確かに自分のもの、ということになる。鞄の中に入っているのはその程度だった。
自分の状況はよくわからなかった。しかしここはどうやら天国でも地獄でもなさそうだ、というのもこの世界がやけに現実味を帯びているからだ。手が刀を握る感覚も、足が地面を踏みしめる感覚も、そして濁った灰色の壁も、なにもかもが天国にも地獄にも見えない。少しばかり古さを感じなくもないが、曜子が呪術師である以上今やるべきは呪霊退治であることに変わりはない。呪霊の発生はこの倉庫街であるということなので、曜子は少し歩き回ってみることにした。なぜ自分が生きているのか、なぜ持っているものが古さを感じさせるものなのか。気になることはたくさんあったが、いくらあの街灯の下で考えていても解決するとは思えなかった。歩いて、とりあえず呪霊を討伐して、その上で、兄にでも連絡をしてみれば、状況がわかるかもしれないと思いながら、ふらふらと歩き出す。ちょっと暗いなぁと思ったところで鞄に懐中電灯が入っていたことを思い出した。
カチリ、と懐中電灯のスイッチを入れると、サイズのわりに強い光が光のラインを引いて、曜子の行く先を照らし出した。曜子が寝ていたのは、倉庫の裏手のようで、小さな窓が壁にいくつか取り付けられている。また倉庫の中から這い出したパイプが、複雑に壁をのたうち回っていた。しかしそのパイプを取り付けているねじは幾か所で外れかかっており、この倉庫自体も随分と古いことが予想される。なんの倉庫であったのかは、残念ながら予想できなかった。倉庫はいくつも立ち並び見上げんばかりの高さに屋根がついているのがかすかにわかる。
倉庫の壁を背にして、右に進むか左に進むか曜子は迷ったが、よくよく耳を澄ますとなにかの雑音と波の音が聞こえる。ということはここはトラックの倉庫ではなく船によって運ばれたものの倉庫である可能性が高い。行く当てもなかったので、とりあえず倉庫の中に入れる場所か、もしくは海に出られないかと波の音を頼りに曜子は歩を進めた。
倉庫の立ち並ぶところを抜けると、使い古されたコンテナと大きなクレーンが見えてくる。次いで曜子のもとに飛び込んできた情報は、音だった。音、それも人間の叫び声だ。一瞬呪霊に誰か襲われているのか? と思ったが、それにしては叫び声の数が多い。何がなんだかわからないまま、曜子は走り出して、コンテナの影からそっと少し開けた広場を見て呆然とした。
そこには揃いの服を着た男たちが集まって喧嘩をしているではないか。それも数が十人やそこらではない。百人を優に超えるであろう人数の男、しかもまだ少年といってもおかしくなさそうな年頃の子までが混じってこぶしを振り上げお互いを殴っている。
曜子にとって喧嘩とは、木刀を持ってのちゃんばらだった。呪術師の家に生まれた曜子にとって、刀と戦いは身近なものであったが、拳を握っての喧嘩は、あまりよくわからない。彼らが一体何をしているのか、何のために拳を振り上げているのか、曜子は唖然としたまま眺めるほかにできることはなかった。
しばらく呆然としながら喧嘩を見ていた曜子だったが、各所に設置された水銀灯が照らし出す中には二つのグループがいることがわかる。片方は人数が圧倒的に多い、黒い服装のグループだ。ゆうに百人は超すだろう彼らは、もう一つのグループ、赤い服装をした五十名程度のグループに押されている。その中でもひときわ早く力強く動いているのが、この乱闘の中心にいる、頭から顔にかけて大きな傷がある男である。赤いコートのような衣装がなびくたびに人がばたばたと倒れていく。曜子でなくてもこの喧嘩が圧倒的に赤いグループに有利に進んでいることがわかるだろう。
ふと顔を上げるとコンテナの上に一人座っている少年がいることに気づいた。少年は日本人には珍しい真っ白な髪の毛をしていた。衣装は赤く、袖の部分に文字が書かれている。文字を読むには遠く、表情を読み取るには場が暗すぎたが、どことなく物憂げな雰囲気を醸し出していた。彼だけは喧嘩に交わらず、沈黙して喧嘩の動向を眺めているようだった。
ふと少年と曜子の目が会う。少年は少し驚いている様子だったが、正直曜子も驚いた。少年はしばらく曜子を見つめていたが、やがて興味が失せたのか、なにか理由があるのかふいと顔をそむけてしまう。その間にも喧嘩は続いていて、騒ぎはますます大きくなるばかりだ。
その時ふいに頭痛がする。くらりと頭が揺れて、立っているのも困難になり曜子は思わずしゃがみこんだ。先ほどのような吐き気こそないが、ひどい痛みが続いている。
「う……くぁ……」
声が漏れ出るほどの痛みは、頭を外から思い切り叩かれたような気分だ。
そして次の瞬間、曜子は唐突に思い出すことがあった。
曜子が思い出したのは奇妙な記憶だった。それは自分が水子であったという記憶、そしてそれが書き換えられるように、天野曜子は次代当主として育てられたという記憶が湧き上がってくる。天野曜子の十五年間が一気に頭の中に流れ込んできたのだ。その記憶は、曜子の今までとほとんど変わらなかったが、一つ決定的に違う事実がある。呪霊にばらばらにされる前、曜子には敬愛する兄と初恋の相手がいた。その人たちは曜子より十三年上で、いつも三人で行動していた。五条悟、夏油傑、天野曜次、の三人である。しかし今新たに流れ込んできた記憶では、この三人は曜子の一つ年上、つまり十六歳であるというのだ。どういうことなのか、さっぱりわからない。自分がどうなってしまったのかも、そしてこの世界がなんなのかも。夢にしてはよくできすぎている。ハッとして曜子は携帯を鞄の中から引っ張りだした。そして携帯の日付を確認して目を見開く。
そこに書かれていた数字は、二〇〇六。曜子が知っている、曜子が生きていた時代は二〇一七、つまりここは十一年前の世界だった。
20211210