強烈な死の香りに満たされて
冷たい雨がそぼ降る中、赤い赤い液体が地面にこぼれる。壊れたコンクリートの建造物の屋上は静かだった。
腹から、足から、首から零れ落ちた血に水滴が落ちて、はじけて、血の海に波紋をいくつも作っていた。
(私……なんで死んでないんだろう……)
倒れている少女、天野曜子はぼんやりとそんなことを思っていた。頸動脈を大きくえぐられ、胴は二つに分かれ臓物がこぼれだしている。ソーセージが膨らんだような腸と、太いチューブの血管が露出していた。まだほんの少し温かみを持った臓物は、冷たい雨と雨が織りなす空気に触れて柔らかな湯気を発していた。だがそれもあとほんの少しのことだ。右足はちぎれたままもうどこにいったかわからない。大腿骨が丸々と残り、筋肉は引きちぎられ、まるで造りかけの骨格標本のようだった。そして左足は__奇妙ななにかの腕に抱え込まれて、天を向いた口と思しき器官の中に飲み込まれていく最中であった。
長く伸びた爪、胴体から生えたいくつもの手、大きく太った体を支える足は幾本もあり、足の爪もまた長かった。時折地面をぎぃー、ぎぃーとひっかいて、思うように動かない体が煩わしいと主張しているようにも見える。くちゃりくちゃりと音を立てて咀嚼する口は、歯が異様に多く、加えて口の中にも喉の奥にも口と呼べるような器官がいくつもあった。肌は青白く、目玉は地面すれすれにある。
これが天野曜子の任務のはずだった。建造途中で、何人もの死人が出た、廃ビル。造りかけのビルは長いこと放置されているために風雨にさらされ、むき出しになった鉄筋も錆ついている。あちらこちらでコンクリートの壁が崩壊し、ばらばらと床に転がって小石のように散らばっている。窓ガラスが取り付けられていない、ただの四角い枠は、簡単に出入りができて、下の階は不良とホームレスのたまり場になっていた。建造途中の事故、そして集まってくる人間の負の感情は自然と形になったのだろう。屋上に呪霊が確認された、と曜子に修祓の依頼がきたのは六月の半ばのことであった。
呪霊は等級が上がれば上がるほど、明確な形を持つ。明確な、というのは例えばバッタであったりとか、人であったりとか、呪霊の持つ負の情念に応じて、何かに区分できる形になるのだ。低級の呪霊は、手の数がおかしかったり、口の数、足の数、そのほか様々な要素のどれをとっても何かに区分できないことが多い。いくつもの形が折り重なっているといってもいいかもしれない。それゆえにこの呪霊は三級程度、と認識されていたのだ。だが実際は曜子の手に負える呪霊ではなかった。
足を引きちぎられたところで曜子の敗北は決まっていた。胴を引きちぎられる痛みは、想像を絶する。そのまま意識を喪失してもおかしくはなかったが、運悪く曜子は意識を保ったまま、胴を引きちぎられ、死の淵を漂っていた。
(寒い……)
頬に降り注ぐ雨が冷たかったのか、それとももう動くことがない体が冷えてきているせいなのか、もはや曜子にとってはどちらでもよいことだった。
七つの頃から幾たびも、見るもおぞましい人の負の情念に触れてきた。そして十五の今日、曜子は死ぬ。これだけ体がばらばらになってしまっては、反転術式をもってしても体を治すことは困難だろう。曜子の前に突き付けられた死は明確で、ひどく冷たくて、ひどく怖かった。
(死にたくない……)
だがどんなに死にたくないと願っても、この死が覆ることはない。ばらばらになった体は血の臭いに寄ってきた呪霊が歯を立てて食べ始めている。きれいなのは首から上だけだ。首から上だけ生き残って何ができるだろうと考えると、生き残ることもまたひどく残酷なことのように思えた。それでも生き残りたいと曜子は願ったけれども、もうどうにもならない。
視界はすでに定かではなく、眼球が雨に当たる痛みすらもはや感じなかった。片手に持っているはずの刀の重みも感じることなく、そうして、天野曜子は十五年の人生に幕を閉じた__
はずだった。
20211210