傑語り
一般人の家庭に生まれた夏油傑は、普通では持ちえぬ感性を持って生まれた子供であった。それがわかったのは、傑が三歳の頃、歩くのも随分と上手になって、公園にも行くようになった年頃であった。傑はふらりと立ち上がり、母でも父でもない、また友達もいない方角に向かって何事か話し始めたのである。その不可解な現象は誰に見ても明らかであり、母も父も困惑し、傑に何度もそのことについて問いただしたが、傑の答えは「あそこにあそびたいっていうともだちがいる」の一点張りであった。それが、傑が呪霊を視た初めてのことである。まだ覚束ない言葉で一生懸命に傑は説明したが、子供の言葉である、なかなか要領もつかめず、結局傑がトモダチと言ったものがなんだったのか、傑の父母も公園で一緒に遊んでいた子供たちとその親もなにもわからなかった。
それからも傑は頻繁に何もいないところに向かって話しかけたり、または何かに追いかけられるというようなことを言ったりするようになった。父と母は困惑したが、それでも傑のことを見捨てることなく、懸命にそれを理解しようとした。ときに傑は言葉で、ときに絵に描いて説明しようとしたが、それはどこか不気味で、父母はますます混乱するばかりであった。傑自身も混乱しているようだった。医者にも何度もかかって、なんの異常もないことは明らかになり、傑の異常性はますます高まっていったわけだが、傑の父母は必死でそんな傑のことを理解しようとした。霊能力者にも見てもらった。その霊能力者が本当に力のある者であれば、確かに傑を導けたのであろうが、残念ながらその霊能力者は自称であり、傑の父母から高い金をふんだくっただけでなんの解決も見出すことはできなかった。しかし霊能力者の真偽を確かめる方法は傑の父母にはない。霊能力者は傑に悪い霊がついている、といったことを説明したが、傑はそんなことはないという。むしろ霊能力者の方に何か黒いもやのようなものが取り付いていると、そう説明するのだった。だがまだ口も達者ではない子供の傑には、霊能力者が嘘つきであることを説明するには知識も技能も足りない。結果、霊能力者とは半ば仲違いをした形で、話し合いは終わり混乱を深めるだけであった。頼みの綱は医者だけとなり、傑の父母は何度も医者の下へ、足しげく通うのであった。この年頃の子供は創造の中に友達を作ることがある、という医者の言葉だけが傑の父母にとっての唯一の救いであったことは間違いない。
傑は賢い子であったから、傑の言葉で父母が混乱していることをよく理解していた。だから父母の前では、他の人が見えない何か、については一切話すことなく、父母だけを見て、父母としか話さないようにしていた。鳥の羽を持ち、人間の目鼻立ちをしたものが、向こうからこちらにむかって飛んできても無視する。排水溝でいくつも腕の生えた、頭のないムカデのようなものが這っていても無視する。そうすることで父母が安心するのを感じ取れたので、傑はとにかく人の形をしてないものは父母には見えないのだと思い気を付けるようになる。
問題は人の形をしているものだった。路地に立っているワンピースを着た女性が、異様なものだと気づくには傑はまだ幼かった。大人が見れば薄汚れたワンピース、季節外れの麦藁帽、首のないぬいぐるみを持ち、白目を剥いて顔をがくがくと揺らしているというのは明らかに異常であったし、声をかけようともしないだろう。だが経験の少ない傑にとっては、まだ人間と言うものを見慣れていない。故に、時たま失敗した。「あれはなに?」と言葉を賭けた瞬間、父母の顔色がさっと青ざめるのを見て、これは見えてはいけなかったのだ、と、察するのである。父母は「また見えるのね」と悲しそうな表情で言い、それから必ず「傑の見えるものが見えなくてごめんね、父さんも母さんも理解してやれなくてごめんね」と言った。傑はそれが一番悲しくて嫌いだった。父母のせいじゃない。自分が悪いんだ、と思い知らされているような感覚になるからだった。
傑の異常性がより際立ったのは傑が幼稚園に入ってからである。入園した当初は、先生の話をよく聞く優等生として先生にもちやほやされていたが、ある時を境に傑と一緒に遊ぶと怪我をする、という噂が立ち始める。事実、傑と一緒に遊んだ子は必ず擦り傷や打ち身をこしらえる。幼稚園の先生が一度傑と遊んだ時も、奇妙なひっかき傷が出来て不思議に思っているようだった。傑自身は自分が怪我をさせているわけじゃない、と説明したかったが、それは難しいことだった。幼稚園に入るころになってから傑に付きまとう何か、黒い靄のようなもので覆われているが、傑のそばに誰かが来ると、足を引っ張ったり手を引っ張ったりして転ばせたり、何かにぶつけたりするのだ。そういうものがいるのだ、と一度幼稚園の先生に説明してみたこともあったが、それは無駄なことであった。幼稚園の先生は傑が他の子をわざと怪我をさせているのだと思っている。傑が見えない何かについて説明すると幼稚園の先生は、怪訝な顔をし、傑の父母にその話をした。
「困るんですよ、そうして怪我をさせられるのは。他の親御さんからも苦情が来ていますし、もしこのようなことが続くのであれば退園も視野にいれていただかないと」
「本当に申し訳ございません」
傑は父母が頭を下げるのを見るのが何よりも悲しかった。
自分のせいじゃないのに。お父さんとお母さんのせいでもないのに。だがごめんなさいと謝ることはできなかった。なぜなら傑は何一つとして悪いことをしていないからである。
そんなわけで夏油傑は幼稚園でひとりぼっちであった。イマジナリーフレンドと遊んでいる、というのが幼稚園側の認識で、奇妙で時折怖いことをいう夏油傑のことを幼稚園の先生方は遠巻きに見守っていた。というよりもそうするほかなかったのだ。傑に近づけばなぜか怪我をする。園に一年ほどいて、ようやっと傑がやっていることではない、ということを先生方も理解しているようだったが、それでも傑と遊ぶと怪我をするのは事実なのだ。それが傑のしでかしたことであろうと、それ以外の原因があろうと、誰もそこを深く探ろうとはしなかった。
しかし怪我の件を除けば、夏油傑は物わかりのいい素直な子供であった。友達は作れないものの、先生の言うことはよく理解し、幼稚園のルールというものも早くからきちんとわかっているようだった。結局幼稚園の先生方も傑を遠巻きにしつつ、また園児たちも傑のことをこそこそと噂にはするものの直接触れるようなことはなく、傑はひとりぼっちで幼稚園を卒園した。
小学一年生になっても傑には友達ができなかった。この年になると、やいのやいのと言ってくる子たちも出てくる。傑は幽霊が見えるんだぜ、ととある男の子が言いふらしてから、傑は教室の中で孤立した。傑は自分が他とは違うことをよく理解していたので、小学校ではみんなが見えないものが見える、だなんて一言も言わなかったのだが、幼稚園から一緒の子が幼稚園での出来事を噂にしてしまったのだ。それからクラスの中で傑の立ち位置というものは「触れるとちょっと危ない子」になってしまったのである。
クラスで孤立したその日、傑は初めて父母の前で泣いた。幼稚園の頃は医者の言うイマジナリーフレンドはさほど怖くなかった。しかし最近になってそのイマジナリーフレンドが、怖いのだと。そして同時にクラスで孤立してしまったのだと。父母は傑を抱きしめて「大丈夫だからね、きっと傑のお友達のことを信じてくれる、友達になってくれる子はいるからね」と励ました。父母はただ傑を信じてくれていたので、傑にとってそれが救いだった。
傑は聞き分けのいい子であったため、学校を休むと父母が困ることも理解していた。だからたとえひとりぼっちでも小学校へ行った。昼休み友達が皆で固まって外でドッジボールをしているとき、傑は教室で一人恐竜の図鑑を眺めた。授業中、皆から少し机の距離を離されても何も言わなかった。教師もあからさまに傑を避けた。傑は学校で完全に一人ぼっちだった。傑にとって学校生活は苦しいものであった。ただ、家族は温かかった。
夏油傑には祖父がいた。祖父は古武道の道場を開いていたが、門下生は誰もいなかった。傑の父母は、いろいろな世界があることを教えてあげようと、学校だけがすべてでないと伝えてあげようとして、祖父の古武道の道場に通うのはどうかと傑に話を持ってきた。傑の一日は学校へ向かって、学校でただ椅子に座って、学校から帰るだけの生活であったから、喜んで通うと言った。
傑の祖父は孫が関心を持ってくれたことをひどく喜び、傑のイマジナリーフレンドについては全く気にしなかった。「子供ならそういう時期もある」とだけ言った。その言葉は傑をひどく不安にさせたが、不安を表に出すようなことはしなかった。なぜなら、傑は「もし大人になってもこの黒い靄のような、あの手の長い女の人のような、首のない何かのようなものが見えてしまったらどうしよう」と思ったからだ。だがそんな不安を押し隠して、傑は古武道の道場に通った。祖父の言う通りに体を動かすのは気持ちよく、また色々なことを忘れることができた。祖父は博識であったから、稽古が終わり家に送ってもらうまでの間祖父の話を聞くのも楽しかった。
小学校では傑をいじめる子たちもいるにはいたが、傑が古武道の道場に通っているという話が広がってからは、いじめはなくなった。というよりも誰も傑に触れないようになったのだ。小学一年生の夏休みの頃から、傑と一緒にいると嫌なものを見る、という噂が経ち始めたからである。古武道の道場に通っていること、そして傑と一緒にいると奇妙なものを見ることそれらがあいまって傑は完全に孤独だった。誰にこの奇妙なものについて説明すればいいのかわからない。見えるのだから見えるといえば怖がられ、見えないと言えば嘘つきと呼ばれる。傑はどうしたらよかったのだろうか?
小学二年生に上がるとクラス替えがあった。友達が一人もいない傑にとっては大したことのない行事であったが、クラスが変わっても傑にとっては何も変わらない、傑はそう思っていた。