pulcherrimum nomen
「よし……それでははじめようか。アルキメデス、準備はいいかい」
レオナルドの言葉にアルキメデスは「いつでも」と答える。
「今回の霊子虚構世界へのダイブは魔術師の魂の霊子化というわけではない。サーヴァントはそもそも現界するのにマスターの魔力供給を受け、霊体化することができる、つまり霊基さえこちらで認識・座標を固定しておけば、トレスサピエンテスの作り出した霊子虚構世界に入り込むことは決して難しいことではない」
「アルキメデスの観測はレオナルドが、そのサポートを僕とレフで行う。それでいいですね、所長」
「……ええ結構よ。そうしなさい。大体私が否定したらそのサーヴァントは座に還ってトレスサピエンテスは崩壊する。そんなことになったらとんでもない責任問題だわ」
オルガマリーの顔にはまだ血の色が戻らない。今まで完全に幽閉してきた1024番___ソムニア・マーレの自我を取り戻させようとする実験なのだから当然だ。ソムニアに何を言われてもオルガマリーが反論することはできないだろう。これは魔術師にとっては非常に重要な実験と成果の一つであっても、それに巻き込まれた本人にとっては非人道的な実験に他ならないのである。
「アルキメデスの霊基をトレスサピエンテスに登録、その霊子体を1024番の内部に出来ている霊子虚構世界へ」
ソムニアの手の甲にはいつの間にか三画の令呪が宿っていた。それはソムニアとアルキメデスを繋ぐパスであり、アルキメデスはそのパスを使ってソムニアの内部にある霊子虚構世界へと導かれるのである。
供給槽の前に立っていたアルキメデスの実体が、頭の先からじわりとにじんで金色の光を残して消滅していく。
「霊子変換開始、10%……20%……この時点でまったく問題が発生しない……50%、さすがはギリシャに名高い天才と言ったところか」
かつてソムニアの霊子虚構世界にダイブさせる実験は、まず霊子変換の時点で多くの失敗を経験した。自らの魂を霊子化し、電脳世界へとダイブすることは、第一に自己をはっきりと認識していなければならない。もしもその精神・魂があやふやであると、霊子化の際に霊子虚構世界に存在する別のものと混じって自己を保てなくなるのである。一度混ざったプログラム化された魂、つまり霊子を再度構成しなおすのは非常に難しい。いくら外部でもサポートがあっても、魔術師の方に霊子化の際の演算処理が間に合わなければ、霊子化とともに自己は消失していく。かつて五名の魔術師がソムニアの霊子虚構世界にダイブしたが、そのうちの二人は霊子化の際の演算処理が不十分で、ソムニアの霊子虚構世界の一部となり分離することが不可能となった。残りの三人はなんとか自己を保つことが出来たものの、迷宮に紛れ込み、座標を見失いこちらも帰還が不可能となった。ソムニアという一個体の中に作り上げられた霊子虚構世界、それはトレスサピエンテスの演算能力があってこそ作り出せるものだが、そこに干渉することは非常に難しいのである。
故にアルキメデスが何の問題もなくソムニアの霊子虚構世界に達し、かつ迷宮を正確に認識していることは驚くべきことである。
『アルキメデス、聞こえるか。残念ながらソムニアの霊子虚構世界で君が存在していることを確認し、座標を固定することは出来るけれども、実際に迷宮探索を行うサポートまではできない。そこはソムニアの世界だ。十分に気をつけて進んでくれ』
『なるほど……霊子虚構世界とは実に興味深いですね。まったくの闇を創造していたのですが、ここは本当に奇妙な迷宮だ』
アルキメデスからの通信はそれだけ。以降何度アルキメデスに話しかけても、音声信号が遮断されているのかそれともアルキメデスが無視をしているのか一切反応がなかった。だがロマニとレフはアルキメデスの存在証明に成功しており、彼は今確かにソムニアの中の迷宮に存在するのである。
「ドクター……ソムニアは」
「……もうこれ以上僕たちに出来ることはないね。後は過去の魔術師たちのダイブのときのように、存在を見失わないこと、今僕たちに出来るのはそれだけだ」
アルキメデスはソムニアの自我が闇の中にいると表現したが、いざアルキメデスが霊子化し虚構世界へとアクセスするとそこは不思議な迷宮であった。単位平方メートルの四角い平面で形作られた座標。その座標は無限に広がっているのではなく、壁が存在し、壁より向こうにはどうあがいても出られないようになっている。しかし壁は透明で、この霊子虚構世界の迷路はどこまでもどこまでも永遠に続いているように見えた。
(これがトレスサピエンテスの演算能力……カルデアを十分にサポートしながらも、同時に1024番の中にこれだけの空間を作れるとは……実に驚くべきそして賞賛に値する)
アルキメデスは召喚されたときよりも幾分機嫌よく、迷宮に足を踏み入れた。
周囲は海を模しているのだろうか、時折足元より泡が立ち上がり、それはアルキメデスを透過して上へと消えていく。光源は近くにないようだがそれでも物を見るのに困ることはない。迷宮の壁もはっきりと視認できる。ただはるか上空には水面を模したようなきらきらと光る光帯が存在し、それはまるで水面のようだった。
アルキメデスはここへ入ったときからカルデアからの接続を意図的に拒否している。もっとも単純な理由を言うならば、自分の思考を邪魔されたくないからだ。座標の固定や存在証明は何もカルデアと通信を保たなくても問題なく出来るはずである。ならばそれで十分だ。どの道カルデアの方も1024番の霊子虚構世界そしてそこで作り出された迷宮を完全に理解していないだろう。となればどの道自分足で出口を、1024番の自我を探すほかない。
アルキメデスは迷宮を歩きながら同時にトレスサピエンテスに接続していた。ここはトレスサピエンテスが作り出した霊子虚構世界、であるから当然内部からトレスサピエンテスにも接続できる。これはアルキメデスの究極に突き詰め整理された思考速度を持ってこそ成し得ることのできることだ。これが通常の魔術師であれば自己保存で精一杯だろう。
トレスサピエンテスが1024番の自我を保存するために作り出したのがこの霊子虚構世界であり、1024番が外部からの接触を拒むために作り出したのがこの迷宮である。トレスサピエンテスはアルキメデスに1024番の自我を救い出すことを求めて管理権限を委譲した。だが1024番はもはや完全に自閉モードに入っており救い出されることを求めていないのだろう。迷宮はただの迷宮ではない。そこには多くの攻勢プログラムが存在した。
「ふむ、まぁこの程度の情報はカルデアにも共有しておいてもいいでしょう」
自分の視界の範囲を、まるで切り取るかのようにして一枚の画像にしてトレスサピエンテスを通じカルデアへ送信する。
『実に多くの攻勢プログラムがこの迷宮には存在します。貴方方は、ええ、言わずともここへ迷い込んだ三人の魔術師を救出できるならばしてほしいと願っているのでしょうが、残念ながらそれは難しいと思いますよ』
それだけ、カルデアに送信するとアルキメデスは正面に鎮座する魚の骨のような攻勢プログラムに注目する。これは1024番が生み出したものというより、1024番の思考が反映されて生み出されたものと言った方が適切であろう。トレスサピエンテスは母体である1024番を守ろうとする。これは同一の肉体を使用しているためだ。1024番と言う器なくしてトレスサピエンテスは存在せず、1024番の自我が崩壊すればトレスサピエンテスも崩壊する。
アルキメデスがトレスサピエンテスに求められているのは自我を救出し、同時にトレスサピエンテスと1024番の自我、魂、精神が同時に存在することが出来る個体に1024番を成長させることだ。
(それ自体はさほど難しくはない、が)
宝具は難なく発動した。この程度の攻勢プログラムを焼ききるには少々多すぎる光量であったが、これはあくまでこの霊子虚構世界においても宝具が使えるかの実験にすぎない。どこから光を集めているのかはわからないが、アルキメデスの宝具は彼がそう思考すればその通りに動く。攻撃の主体となるチャクラムも同様に、正確に座標を指定し回転を計算すれば大抵の攻勢プログラムは簡単に焼ききることが出来た。
あまり攻勢プログラムに足止めを食らうのもばかばかしいので、走り抜けられるところは一気に走り抜ける。
周囲の風景は変わらず海中を映し出しているようだが、アルキメデスがトレスサピエンテスより与えられた知識による海と、この霊子虚構世界の迷宮を取り巻く海はどこかが違っているようにも思う。1024番の生まれがアルキメデスが認識しているものと正しく等しいならば、トレスサピエンテスより与えられる知識としての海も同じはずだ。アルキメデスの時代にはまだ深海にもぐるなどと言った技術はなく、船も帆船だった。今は随分と科学が進み、海から多くの知識が溢れている。
だがこの迷宮を取り巻く風景はなんだろう。青い海、それは間違いない。だが生き物の気配はなく、どこまでも透明に澄み切っていて、そして迷宮の下の方には枝葉の落ちた木が複雑に重なり合って沈んでいる。それらはまだみずみずしく、長い間水中に使っていたものとは思えない。
これは一体何を意味しているのだろう。
?
攻勢プログラムをチャクラムで蹴散らし、迷宮の奥へと進みながらアルキメデスは思考する。何もない海、真新しい木々、そしてだんだんと下っていく迷宮__そして__
「これは……壁……?」
攻勢プログラムを破壊するなり回避するなりして迷宮の最奥へと向かったアルキメデスが見たのは大きな扉であった。巨大な鍵穴が中央についている大きな扉。これはあくまで抽象的な表現に過ぎないので、あれほど大きな鍵を探して来いというわけではないだろう。これは、1024番が作り上げた心の壁だ。
アルキメデスは壁に近づくと手に触れる。ちりっと霊子体が指先から崩壊するような奇妙な感覚を得る。無理に突破することは不可能ということらしい、一応トレスサピエンテスを通してこちらからも攻勢プログラムを投げかけてみたが全て壁に阻まれて霊子の塵となって消えてしまった。
「……ここにいるのか1024番」
見えない、だがここに壁があるということはここにいるはずなのだ。そうアルキメデスが睨んだとおり、彼が声をかけると同時に、大きな扉の前に小さな子供が現れた。青い短い髪をした子供。左半身には、アルキメデスが供給槽の中で見た少女と同じ複雑な回路の模様が刻まれている。
さて、とアルキメデスは考える。この子供はおそらく1024番の自己を投影したものだ。1024番は何かを求めている。それが何なのか、アルキメデスはじっと子供、しかもまだ立ち上がるか立ち上がらないかという幼子の姿を観察する。
幼子はアルキメデスのほうへ手を伸ばして何かを訴えかけている様子であった。だけれどもまだ未発達のその口からこぼれるのは「あ」だの「う」だの言語にならない単体の音。アルキメデスはこれらの音をトレスサピエンテスに入力し何らかの形で答えがないか確認するも答えはなし。
アルキメデスは人の心の機微と言うものにあまり鋭敏な感覚を持ち合わせている方ではない。むしろどちらかと言えば鈍感で、さらにこんな幼子の考えていることなどわかるはずもなかった。何かしらの答えはあるはずだ。それはおそらくこの幼子が求めているもの、それを渡すことでこの心の壁は消えるはずである。
「あ、あ」
まだ十分に立つことも出来ない幼子はアルキメデスを見て懸命に手を伸ばす。それはこの手をとって欲しいと全身で表現しているようで、アルキメデスは万が一に備えて用意したチャクラムを消すとその手を、その幼子を抱え上げる。
幼子は決して泣かなかった。「あ、う」といまだ言葉にならない音を発しているものの、抱き上げられたことで随分落ち着いた様子を見せる。
「お前は、何を望む?」
問いかけても無駄なことはわかっている。故にアルキメデスはトレスサピエンテスの記録をさかのぼった。トレスサピエンテスの誕生、すなわち1024番の誕生までさかのぼり、その光景をまるで走馬灯のように流していく。
「ここに答えがあるのだろう、なら選べ」
アルキメデスは幼子にわかるように映像を流した。
周囲に同じ赤ん坊が寝転んでいる。
いく人もの赤子が死んだ。
供給槽の中でのみ生きられる、計算機としての自分。
自分は何者なのかという意識の芽生えとともにトレスサピエンテスは1024番と衝突を始める。そして霊子虚構世界が築かれる。
供給槽ごとカルデアへ、与えられる情報は少なく、演算装置としての役割のみがトレスサピエンテスの、ひいては1024番の存在意義だった。
「あ!あう!!あ!」
走馬灯のように流れていく過去の記録、過去の風景、そのうちの一つに1024番は反応する。アルキメデスは幼子が手を伸ばすそれを見る。それは演算装置であるトレスサピエンテスを通した1024番の記憶だ。まだこのときは完全に閉じこもっていなかったのだろう、様々な形で外部と接続しようとしてそのたびに失敗していた。送り込まれた魔術師が1024番の自我を救い出すことはかなわなかった。
なんとも味気ないものだと思う。1024番。それは千回を超える実験の末、トライヘルメスの演算回路移植に成功した個体の番号。そう、それは個体を識別する番号であって、1024番と呼ばれ続ける限り、人として認められることは永遠にない。
はたとアルキメデスは思い当たった。レオナルド・ダ・ヴィンチは、アルキメデスが1024番の霊子虚構世界にダイブする際、1024番のことをなんと呼んでいたか。
「……ソムニア・マーレ」
アルキメデスの理路整然とした思考回路は、ただ単純に記録として彼女の言葉を頭の片隅にとどめていた。忘れることはない、彼女は1024番のことをソムニアと呼んでいた。
ふと気がつくと目の前にはあの大きな扉はなくなっていた。そして腕の中にいたはずの幼子の姿はなく、扉の向こうに続く道の中途に、立ち上がれるほどに成長した少女の姿がある。
青い髪、左半身を回路に侵食され、真っ白なワンピースをまとって、彼女はアルキメデスがやってくるのを待っている。
「ソムニア・マーレ」
それが1024番の名前。個体識別番号ではなく、人として自分であることの証明の第一。
ワンピースをまとった少女は口だけぱくぱくと動かしてアルキメデスに告げる。
「私はソムニア、ソムニア・マーレ」
なんとなく美しい名前だと、そう思った。
2017.07.26
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