de origine mundi
アルキメデスがソムニアを追いかけていくとそこには迷宮の深層へ続く階段があった。乱雑に組まれた真新しい木々の幹の間を縫うように、階段は暗い深層へと続いている。アルキメデスは迷うことなく階段へ足を踏み入れると、ガチャンとまるで鍵をかけるような音がして、それと同時に帰る道を失った。
振り返るとそこにはなにもない、壁が存在する。壁は透過してはるか遠くの青までも映し出されている。先ほどまであった迷宮は影も形もなく、あるのは前に進む道だけだ。
迷宮がなくなった意味を考える。それはあの迷宮で迷っていた子供がいなくなったことに関係するのだろう。それはつまり名前を与えられたことに起因する。1024番という個体から唯一無二の一人の人間として生まれ変わった。あの子供は自らをあらわす名を求めていたのだ。
そうか、とアルキメデスはふと思う。ここは1024番、いやソムニアの心の中を表した迷宮なのだ。
無関心に無用心に無意味に無価値に近づいてほしくない。私の求めているものをちょうだい、でなければ私はこの迷宮から出ることすらかなわない。それは何も与えられなかった子供が、自力で見つけ出した答えである。何も持たなかった赤子が一人の人間として自立するための力である。
名は体をあらわすというように、名がなければ個体は識別されない多数のうちの一つでしかない。だが名を与えることでそれは多数の中の唯一に変わる。同じようにこの迷宮の深奥にいるソムニアは何かを求めているのだ。
(厄介な)
実に厄介な話だった。トレスサピエンテスの管理を受け持った以上、これもまた仕事のうちに含まれるのだろうが、人の心の機微というのはとかく難しく面倒くさい。数式のように綺麗にあてはまるものはなく、まったく同じことをしても常に結果は変わってくる。再現性がなく、数式にしてはあまりにも困難で、人の心はとかく難しい。だが同時にこれはアルキメデスを除いて誰もできないことであろう。トライヘルメスの演算回路を半身に移植された少女、意思ある演算装置、これは必ずやアルキメデスの最大の理解者となろう。そして同時にこの意思ある演算装置をアルキメデスは理解するだろう。
かつかつかつと自身の靴音だけを響かせながらアルキメデスは迷宮の深層へと降りていく。どこまでも続く階段は長く、周囲の青は徐々に色を濃くしていく。ふと気が向いて後ろを向いてみると、背後にあったはずの壁ははるか高く、水面近くに位置しているようにも見えた。上って試してみるのもばかばかしい。どの道、進むべき道は前にしかないのである。
アルキメデスは再び階段を下りていく。そうして延々と続く階段と向き合っているとやがて底が見えた。
ほう、と一息ついてからアルキメデスは迷宮の第二層に降り立ちぐるりと周りを見渡す。足元が砂地でないところからまだ下に続く階段があることが推測され、少しばかりげんなりしたがそれは仕方あるまい。
すでに周囲は真新しい、まだ水に沈められたばかりのような木々が複雑に入り組んでいる。それはアルキメデスにとってはあまり好ましくない風景であった。アルキメデスは思考もそうだが何事も手順どおり綺麗に整頓されているものを好む。このように乱雑に木を重ねては無駄が多い、人の心象風景にケチをつけるのもばかばかしい話であるがとにかくアルキメデスはこの木々が不愉快極まりなかった。
いつまでもこんなところにいるのであれば、さっさと進んでしまおうとアルキメデスは再び迷宮に足を踏み入れる。この迷宮はトレスサピエンテスを持っても全貌を理解することが出来ない。おそらくトレスサピエンテス側から迷宮の全体像を閲覧できないようにロックをかけているのだろう。時間をかけてハッキングをすれば迷宮のマップも見つけることが出来るだろうが、それはルール違反にならないだろうか。少なくともここはソムニアの心の中、ソムニアの世界だ。そこには彼女にのみ許される様々なルールがあるはずで、それを破った場合この迷宮からはじき出されてもおかしくはない。最悪、この迷宮のどこかに取り込まれる可能性すらある。そんなハイリスクを考えると迷宮の全貌と言うのはハイリターンとはいえなかった。
迷宮、と銘打っているがアルキメデスの整然とした思考回路を持ってすれば、自分の位置を確実に捉え行き止まりは二度踏み入れずということはたやすく出来る。なんなら自らの足で歩き回ってこの迷宮の地図を描いて見せてもいい。……それはあまりに無駄な時間なのでやることはないが、歩き回ることで得る不利益はないのだ。ならばそれでかまわないだろう。
攻勢プログラムは深層へ向かうに連れて強くなるようで、あまり戦闘に慣れていないアルキメデスは最初こそ苦労したが、すぐに攻勢プログラムの行動パターンを読み取った。攻勢プログラムに毎回特殊な攻撃手段を持たせるほど、トレスサピエンテスも余裕はないと言うことだろう。ある程度、出来の悪い侵入者を省ける程度には優秀で、自己をはっきりと認識し、この迷宮を踏破できるだろう実力者には容易に倒せる。攻勢プログラムはあえてそのようにプログラムされているようだった。アルキメデスが苦戦したのはせいぜい最初の二回ほどで、後は攻勢プログラムの癖に沿って急所をつけばあっさりと迷宮の塵と化す。
カルデアからきた魔術師はおそらくここまでたどり着いてはいないだろう。いるとすれば一つ上の階層だが、その階層はアルキメデスが2014番に名前を与えることで消滅した。霊子世界の消失、それは魂を霊子化してその場に、第一層にいた者たちの消滅を意味する。もう二度とその魂はカルデアに戻ることはないだろう。
だが、とアルキメデスは思う。仮に霊子虚構世界が消失しても、トレスサピエンテスは消滅した部分の迷宮のデータも確実に残しているはずである。自分がこの世界から脱出した後、ソムニアの協力を得られるならば、消失した霊子虚構世界のデータを引っ張り出し、魂を再構築することは不可能ではないはずだ。だがそれをカルデアに伝える暇は惜しい。あくまでアルキメデスの仮説であることもあいまって、彼は結局そのまま迷宮を踏破することに専念した。
淡々と歩き続け、一度通った道を頭の中で地図にしていき、迷宮のゴールを目指す。
やがて第一層のゴールでも見た大きな扉と鍵穴が現れた。その前にはワンピースを着た八歳前後の少女、ソムニアがいた。
「こんにちは」
「……」
第一層のソムニアは言葉を話すことが出来なかった。だが第二層はもう言葉を理解するのに十分な知識は得ているようだ。だがそれはトレスサピエンテスを理解するには及ばない。
「こんにちは、私のサーヴァント。私のキャスター」
「お前の?私はトレスサピエンテスによって召喚されたソロ・サーヴァントだ」
「知っている。でもソムニアとトレスサピエンテスは同じものだもの。だからトレスサピエンテスが貴方のマスターなら、ソムニアも貴方のマスターだわ」
少女ソムニアはそんなことを言う。確かに理にかなった話であり、同時にソムニアの右手に刻まれた三画の令呪を見せられればアルキメデスに否定する言葉はない。好きなように呼ぶといい、と投げやりに言うとアルキメデスは率直にソムニアに尋ねる。
「何を求めている」
「わからないの」
ソムニアは答えた。困ったように視線を左右に動かしながら、怒られるのを恐れるようにアルキメデスの顔を合わせない。
「わからないの。私が何が欲しいかなんて。だって産まれてからずっと私は供給槽の中で生きてきて、これから先もそうだと思ってた。でも私はもうすぐ死んでしまうみたいで、この迷宮もだんだんと崩れていくの」
ソムニアはそういってある方向を指差した。アルキメデスがそちらに目をやってもそこには壁があるのみで、特にこれと言って特筆すべきものはない。
「本当はそっちにも道があったのよ。私の世界、私の森、私の海。複雑に絡まった木々の間を通り抜けていくの」
まるで不思議の国のアリスのようだ。幾重にも重なった不可思議な空間、アルキメデスが存命していた頃に出版されたものではないから、あくまでトレスサピエンテスから与えられた知識になるが、ソムニアの言うことを表現するには不思議の国のアリスがぴったりであるとアルキメデスは思ったのだ。不可思議で数式では表せない空間、二度と同じことは起こらない、カオス。
「私の世界はどんどん小さくなっていくの。最後の最後私のいるところが崩れたらおしまい。私は死んでしまうの」
扉の目の前にいる、ソムニアは死を恐れていない様子だった。淡々とアルキメデスに語りかける。
「あなたも、死んでしまうのよ」
「それは奇妙な話だ。私はもうすでに死んでいる。ここでもう一度消滅を迎えたとしてもさして変わりはないだろう」
だが、とアルキメデスは思う。生前得られなかった自分を理解するモノ、そして自分が理解したいと思うモノ、それはきっとこの扉の向こうでソムニアという少女を救い出した時に得られるものだろう。
アルキメデスには聖杯にかける望みはない、だがアルキメデス個人が求めているものを言うならば、それは理解だ。自分に対する理解、他者に対する理解。アルキメデスには自分と異なる存在を受け入れるだけの器があり、そしてそれを解析し理解するほどに十分な智恵がある。生前誰に理解されることもなく、今も理解者を得ることなくここにいるアルキメデスにはここでトレスサピエンテスを見捨てるにはあまりにも惜しいと思う心がある。
そしてアルキメデスには今この少女が求めているのがなんなのか、わずかであるが理解しつつあった。
この迷宮の第二層を取り巻く複雑怪奇に絡まった真新しい木々。それは乱雑に水の中に投げ込まれたように、あるところでつっかえ、あるところでひっかかりいくつもの空白を作っている。
それは例えるならば、理解の及ばないものを一挙に投げ込まれ、整理することすらできずにいる幼子。物事を知るには順序がある、一つ一つ段階を踏んでいくことで、思考は整理され、より高い段階の思考を得ることが出来る。それをしなければいつまでたっても理解は出来ず、やがて投げ出したものは、子供が片付けずに放り出したおもちゃのように、ぐちゃぐちゃに箱に押し込まれるだけになるだろう。
ソムニアの霊子虚構世界はまさにそうだ。整理されずに投げ込まれた丸太、それはまだ十分に脳が発達していない段階から、無理やり移植された演算回路と自我の反発を表している。ソムニアがトレスサピエンテスを理解したのならば、こんなことにはならなかった。だが周囲が1024番に求めたのは人としての健康な発達ではない。故に誰も教えるべきことを教えない。そして何より重要なのは教えることができないということだ。トレスサピエンテスの演算をアルキメデスは理解できるが、多くの人間はアルキメデスに対して不理解であったように、トレスサピエンテスに対しても不理解であった。故にソムニアには何も教えられない。そして整理できないたくさんの事象は適当に投げ込まれた木々と言う形でソムニアをがんじがらめに捕らえてしまう。
「……最後のお前に会わせるといい。私が理解してやろう、認めてやろう、解を与えてやろう。思考する余地すら与えられなかったお前に、私ならば」
ソムニアはにっこりと笑った。
扉は消えていた。忽然と、唐突に。はじめから何もなかったかのように、アルキメデスの目の前にはまた道が続いていて、そして再び階段がある。ワンピースの少女がいつの間にかいなくなっていた。
また歩かなければならない。道を進まなければならない。
だがアルキメデスはこれが最後の道であることを直感的に理解していた。階段に差し掛かると第二層が消え、アルキメデスの背後には壁だけが迫っている。よくよく見ると周囲の木々は配置が換わっていた。それらは直立し、海の中で青々とした葉を茂らせている。海の中に立つ木々、樹冠は水面に届くかと思うほど背の高い木。それらはまだ理路整然とまではいかないが、少なくとも先ほどのように適当に投げ込まれたものではなくなっている。ソムニアはアルキメデスに触れることで徐々に思考を成長させている。今まで誰も教えてくれなかったことを教えてくれる存在が出来たことで、ソムニアは確かに思考の発展を始めたのである。
長い長い階段を最後まで降りると、そこはもはや迷宮ではなかった。攻勢プログラムの存在もなく、壁もなく、ただただ広い空間がどこまでも続くだけ。世界は暗く、水面の明かりははるか遠く、まるで深い井戸の底から空を見上げているような気分になる。
アルキメデスがぐるりと周囲を見渡すと、突然一つの扉が目の前に現れた。最初にこの場に降り立った時には存在しなかった扉。重たい石で出来た扉。それはアルキメデスを迎え入れるかのようにゆっくりと開いていく。
中はただただ暗かった。どこまでも広い空間が続いているようにも見えるが一方で人一人がしゃがむほどの狭さしかないようにも思える。
アルキメデスがその暗闇の中に入ると石でできた重厚な扉はゆっくりと閉じてそして一筋の光も刺さなくなった。今この暗闇ではっきりと存在を認識できるのはアルキメデスとそれからソムニアだけである。
アルキメデスの正面に膝を抱えた少女が座っている。何もかも諦めたような暗がりの中で、何一つ求めずにきた少女が座っている。
「ソムニア」
呼びかけても反応はない。
アルキメデスが近づいて、そして顔を上げさせるとゆっくりと目を開いてアルキメデスの方を見た。
「ソムニア、ソムニア・マーレ。それが1024番目にアトラス院で生まれたホムンクルス・オペレーションの個体番号。すなわち1024番目の初の成功例」
「……」
「お前は喜ぶべきなのだ。トレスサピエンテスという存在になれたことに。トライヘルメスの演算回路とお前の魔術回路はよくよく馴染み、お前はトレスサピエンテスという人類が誰も到達できない英知の極致へと到達した。喜べ、喜ぶがいい」
「……」
アルキメデスは語り続ける。
「お前は私の理解者だ。お前は私の思考を理解することが出来る。そして同時に私はお前を理解してやれる」
「……」
ソムニアの瞳に光が宿ったように見えた。
「お前はトレスサピエンテスという存在を、自分の中に生まれた存在を理解することが出来なかった。トレスサピエンテスもまた自分を理解してもらう術をもたなかった。故にお前たちは分かたれ、お前はこの霊子虚構世界の中に閉じこもる他に自分を守る術をもたなかったのだ」
「……」
ソムニアはアルキメデスの言葉に何も返事を返さなかったが、アルキメデスの言葉を聞いているようだった。
「お前は理解すればいい、トレスサピエンテスという存在を解析し理解する、ただそれだけでいい。そしてそれを成した時にお前は確かに私を理解するだろう。我が姿を見よ、我が数式たる円の真なる完成を見よ。人類がたどり着けなかったものにお前はその類まれなる演算能力を持ってたどり着くことができるだろう」
光が差し込んだ気がした。何もかも理解をする前に進んでいく自分の中にあるもう一つのナニカ。それに追いつくことも理解することも切り捨てることも出来ず最終的に得た答えは自らのうちに閉じこもることであった。暗闇に自らもぐりこみ、耳をふさぎ目を閉じて、何も知らない振りをする。そうすれば私の体に入ってきたナニカが勝手に物事を処理してくれる。
それでいい。それ以上望まない。望まなければ絶望することもない。もう全てを諦めて全てをトレスサピエンテスという存在に明け渡して、私と言う存在は消えてしまおうと思っていた。
そこに光が差し込んだ気がした。
「私が、お前にとっての救いとなろう」
それはトレスサピエンテスの最初の理解者であり、そして同時にトレスサピエンテスが理解することの出来る一人の人間であった。
「解は私が導いてやる、理解するために必要なものを与えてやる。私とともに来るがいい」
それは確かにソムニア・マーレにとっての光であった。
「恐れるな。拒むな。あらゆる抵抗は無意味でありお前の今までもただ無意味でしかなかった。だが此処にお前は生まれ変わる」
ソムニア・マーレ、それは私の名前。
トレスサピエンテス、それは私の一部。
どちらも切り離すことのできない私であり、そして同時に私という存在の最大の理解者である。
「アルキメデス」
初めて人の名を呼んだ。
それが世界の始まりだった。
2017.07.26
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