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the number
of stars

ratio



円筒の供給槽の中では一人の少女が眠っている。体にはいくつものコードとパイプが巻きつき、頭部にはヘッドセット型の脳波測定機器が設置されている。口と鼻からは酸素の供給マスクが備え付けられており、彼女は言葉を話すことができないことが一目でわかるだろう。
 霊子虚構演算装置トレスサピエンテス。
 それが彼女の左半身に刻まれた演算回路の名称である。アトラス院で作られたトライヘルメスの演算回路を移植され、人でありながら計算機の役割を持つ。そしてあと一年後にはトレスサピエンテスの後続機となるトリスメギストスがカルデアに来ることになっている。だが仮にトリスメギストスがカルデアにきたとしてもトレスサピエンテスの価値は代わらないだろう。
 トリスメギストスはあくまで一つの計算機であり、思考し人間に語りかけてくることはない。人間が正しい情報を入力することで、それに沿った演算結果を出力する。もしも間違った情報が入力されてもトリスメギストスはそれを過ちであると認識せずに演算結果を出力するだろう。勿論、何千回と演算を行ううちに過ちというものを学習するだろうが、それでも思考する機械ではないのだ。
 トレスサピエンテスは思考する機械である。過ちがあると思えば結果を出力する前に過ちを提示する。協議することすら出来る。トレスサピエンテスは脳という人間の持つ演算機能を最大出力で用いてコミュニケーションをとることが出来るのだ。これほど優秀な計算機が他にあるだろうか。すでにトレスサピエンテスは過ちを見つけるにとどまらず、職員の入力の癖や間違いやすい数値まで正確に把握している。その上でアドバイザーのように出力として求めるものを算出することが出来る。
「トライヘルメスもトリスメギストスも自ら思考する機械にはなれない。だが人間にそれらの回路を埋め込むことで思考する機械を作ることが出来る。行き着くところまで行きついた外道の成す業か」
 アルキメデスは供給槽のガラスに手を当てて、その中で眠る少女に目をやる。
 少女の左半身は淡い青と黄色の不思議な模様が描かれており、それは今も小さく明滅している。
「この光が、トレスサピエンテスの活動が急激に緩やかになったのはいつです」
「およそ一年前、だ」
 アルキメデスの問いにロマンは答える。
 なるほど、と言いながらアルキメデスは供給槽をぐるりと取り巻くように囲まれたディスプレイに目を走らせ時折操作をしながら何事が呟いている。
「トレスサピエンテスの活動が低下したのは、この肉体いや精神体に霊子虚構世界が作られてそれが崩壊を始めたせいですね。トレスサピエンテスの回路を埋め込まれた人間はトレスサピエンテスを理解できないものとして追いやり自らは霊子虚構世界の中に閉じこもった。ただ一人、与えられる情報はなにもなく、つまりそれは彼女の世界には何もないことを意味する」
「何も、ない……ですか」
 マシュがアルキメデスの言葉に問いかける。
「そうですよ、何もない。何せ霊子虚構世界に閉じこもった時、トレスサピエンテスが与える情報の一切を遮断している。簡単に言うならば彼女は暗い石室の中で自我がゆっくりと崩壊するのを何も出来ずに待っているという状態でしょうか」
 アルキメデスの口調には哀れみも同情もなかった。ただ淡々と事実を述べていく。その事実にオルガマリーは吐き気を催すような気持ち悪さを覚えながら必死で立っている。ロマンは知っていた。彼女の自我が崩壊しつつあることを知っていながら、彼女をマシュのように表に出す方法をとうとう見つけることが出来なかったためにゆっくりと虚無に蝕まれていく彼女に情報を与えないことでしか対策をとることができなかった。マシュは、ただ待っていた。彼女もトレスサピエンテスと同様の存在であったからただ待っていた。
 自我とは脳の発達であり自身の証明、これが崩壊すると言うことは脳が活動を停止するということである。トレスサピエンテスの演算回路は1024番の左半身の魔術回路と融合し、中枢神経と密接な関係を持っている。故に、1024番の自我が完全に崩壊すれば、トレスサピエンテスは活動を停止する。それは何よりも残酷な緩やかな死だ。
「トレスサピエンテスはそれを防ぐために、自らの殻である1024番を守るために私を呼んだのです。トレスサピエンテスのありとあらゆる管理権限を一任し、かつ運用できるサーヴァントとして、1024番の教育者として私を」
 わかりますか、とこのときアルキメデスはにっこりと笑って背後で見守っていた三人を見た。
「召喚されたときに与えられた情報だけでもこのトレスサピエンテスがどれほど優秀な演算装置なのか、そしてこれからこのカルデアにやってくるトリスメギストスという演算装置がどれほど重要なのか、知っています。これは外道の成すことでしょうが、それでもこのトレスサピエンテスはすばらしい。これは」
 アルキメデスは興奮を隠しきれない様子だった。
「生前の私はただ数学だけが楽しみだったのですよ。数学のみが私の自由に出来る唯一のもの、数学だけが私を証明する唯一のもの、数学こそが私を理解する唯一のもの。人はそんな私を理解しなかったし私もまたそんな人を理解するつもりもなかった。故に私は嬉しいのです。ここでこれほどまでに優れた理解者に出会えることに」
 彼は恍惚の表情を浮かべながら語った。
 早すぎた天才、アルキメデス。彼を理解するものは生前どこにもいなかった。そして今もまたいない。故にアルキメデスは聖杯戦争の召喚に答えない。それは今の人間もアルキメデスを理解せず、アルキメデスもまた理解するつもりがないからだ。
 だがトレスサピエンテスもトリスメギストスも違う。人とはまったく異なるこれらを排斥せずに人が手元に置いているのはひとえにこれらが「優秀」で「有益」だからである。もしも単純に「優秀」なだけであれば、人はこれを排斥しようとするだろう。それが人の本質、違うものに恐怖する感覚。アルキメデスにはそういった感情が存在しない、いやむしろあまりにも優秀であったが故に人とは異なるものでなければ同一の存在と認められないのだろう。アルキメデスはただ、安堵している。まだトレスサピエンテスと深くつながったわけではないが、そのあり方は人でありながら人とはまったく異なるものでただ安堵しているのである。
「さて、先ほども言いましたが、これから私は1024番の自我を探しに行かなければなりません。でなければ遠からず1024番の自我は崩壊し、そしてトレスサピエンテスも活動を停止する。それはカルデアにとっても大変な損害でしょう」
 召喚室での様々な始末を終えたのかそこにはすでにレオナルド・ダ・ヴィンチやレフ・ライノールの姿もあった。
「事は簡単ですよ。私は彼女の精神世界……霊子虚構世界にダイブする。その間に私がトレスサピエンテスに排斥されないように常に座標を固定し霊子を観測していただかなければ。これはトレスサピエンテスが望んだことであっても、1024番の内部にはいれば1024番というファイアウォールが存在するわけですからね。異物である私ははじき出されてしまう」
 アルキメデスはここへ誰がやってこようとあまり関心はないようだった。ただ必要なのは
「もう準備はできていますか」
 ただそれだけ。アルキメデスが1024番の霊子虚構世界にダイブする、その準備が整っているか否かだけである。
 アルキメデスの問いかけにロマニは答えることが出来なかった。そもそも医療チームトップの彼には霊子虚構世界に関しては専門外だ。代わりにレオナルドが口を挟む。
「君を観測し彼女の精神世界の中で固定する、それは今すぐにでも可能だ。レイシフトではないが今までにも何度か同じことを試みたことがある。全て失敗に終わったが」
「失敗とは?」
「1024番……私たちは彼女にソムニアマーレという呼称をつけソムニアと呼んでいるが……彼女の精神世界、つまり霊子虚構世界は迷宮のようになっており、ソムニアの自我の切り分けられた存在が衛士としてその迷宮に存在する。それを突破しなければならないのだが」
「失敗したというわけですね」
「そう、なるね。ソムニアにダイブした彼らの霊子体、精神と言い換えてもいいのかもしれないがそれらは帰還しなかった」
 レオナルドは過去のソムニアの自我救出作戦を語る。全て失敗に終わったそれは計五名の優秀な魔術師を失う結果になり、これ以上の作戦は無謀であると判断されたためこれ以上の実験も霊子虚構世界へのダイブも行われていない。
 ソムニアの霊子虚構世界へダイブした魔術師の精神体はどこへいったのか、定説はいまだ彼女の世界の中でさまよっているということだが実際のところはわからない。しかし死んだわけではないためダイブした魔術師たちの肉体は冷凍保存してこの部屋のさらに奥の部屋に安置している。万が一精神が戻った時のために。
「前例がどうなるかは知りませんが、準備が出来ているのならば早くしたほうがいいでしょう。自我が崩壊すれば崩壊するほど霊子虚構世界も不安定になる。ともすれば1024番の自我にたどり着けずに終わる可能性もある」
「勝算があるというのかい」
 レオナルドの言葉にアルキメデスはにこりと笑って言った。
「私はそのために召喚されたんですよ」



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2017.07.26
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