experimentum
「被検体番号1024番……」
「そう、彼女がシステム・フェイトとそれらに関わる全ての演算を行っている」
現時点ではね、とロマニ・アーキマン、通称ドクター・ロマンは言う。マシュ・キリエライトが見上げる位置ではドクター・ロマンが何を考えているのか、その表情を読み取ることは難しかった。
「彼女も、私と同じ」
「……」
ドクターはマシュの言葉には答えなかった。どう答えればいいのかわからなかったのだろう。何度か何かを言いかけてはやめ、結局答えることはなかったのだから。
何本ものチューブが複雑に入り組み水槽の中の少女の体につながっている。被検体番号1024番トレスサピエンテスはアトラス院で作られたデザイナーベビー、そしてアトラス院の擬似霊子演算装置であるトライヘルメスの回路の一部を埋め込まれ魔術回路と融合させた人型の演算装置。2001年に生まれた彼女は齢にして3歳の時にカルデアへ所在を移され、事象記録電脳魔・ラプラスや擬似地球環境モデル・カルデアス、近未来観測レンズ・シバそして守護英霊召喚システム・フェイトに関わる様々な演算を一手に担って行っている。
その仕組みは基本的にはアトラス院がトレスサピエンテスを生み出すのに使ったのを同じ方法だ。擬似霊子虚構世界にいくつもの可能性をおきその結果起きる次章を幾千万幾億万と観測していく。そして最終的に得られた最適解を現実に落とし込んだデータとして出力する。
円筒水槽の周りにはいくつもの画面が並んでおり、そこには常時カルデアの職員が十人以上滞在している。彼らはトレスサピエンテスの計測結果を記録し、また次の演算を登録する職員たち、それからトレスサピエンテス専門の医療チームである。カルデアでも選りすぐりの職員たちだが、彼らがトレスサピエンテスに次から次へと演算を持ち込んでも、トレスサピエンテスは即時に回答する。数えられないほどの情報を虚構世界のとある事象に代入し、その一秒後、二秒後を観測していく。事象は小数点以下の秒数で増加していき、やがてその一部は活動を停止する。それは古生代と中生代の間に大量の絶滅があったように、何らかの理由で情報から得られる結果が消失したことを意味している。そういった事象を取り除き、最後までたどり着いたいくつかが答えだ。
トレスサピエンテスと職員たちとのやり取りは主にマイクとモニターによって行われる。トレスサピエンテスは水槽の中、生理水溶液に浸けられて目も開かず口も開かないが、彼女は確かに生きており職員からの声を聞いて確かに反応を返している。ただし生まれてこの方ずっと水槽の中にいるため口を動かすことも目を開けることも出来ない。耳で音を聞いたことすらない。職員の声は直接聴覚神経を通じて演算の中枢である脳に送られるのである。職員たちはマイクでトレスサピエンテスに話かけ、その結果を脳波から読みとって画面に映し出しているのである。
マシュは一度だけこの部屋に立ち入らせてもらって画面を見たことがある。そこには見慣れない数字と数式が並んでいた。何をしているのかわからないが、時折確かにマシュにも読み取れる言語が表示される。
『あなたは誰?』
それはマシュに対する問いであった。
マシュははっと息を飲み、ドクターの方へ振り返る。すでに画面には次の文章が打ち出されていた。
『マシュ・キリエライト。サーヴァントとの融合を果たすも成果は得られない。どうしてここへきた?』
「それは」
「マシュ」
マシュは手近のマイクに向かって答えようとした。何を返答すればよいのかわからなかったが、孤独な少女に何か答えなければならないという義務感があった。
だがマシュが答える前にドクターはマイクのスイッチを切る。
「ドクター!」
『ロマニ・アーキマンが医療チームの主任になり、外出が許可された。館内の見学を行っている』
トレスサピエンテスはマシュが答えずとも事実を出力していく。
だがドクターはただ首を横に振ってこの部屋から出ることを促すのだった。
『いずれ』
職員たちはそれらの言葉に一切答えない。自分たちは新たな問いかけを常にしているというのに彼女からの問いかけの全てに答えてはいけないのである。
「それは」
『いずれ』
「マシュ」
「ドクター」
「それはだめだ」
『いずれ新たな霊子虚構演算装置がカルデアへ送られる』
ドクター・ロマンはここへ案内している最中も、ここで水槽を見ているときも、そしてマシュがこの部屋へ入り答えようとしたときもただ、ただ悲痛な面持ちでいた。マシュの言葉をさえぎるようにロマンは声をかけそして目の前のマイクのスイッチを切る。画面にはただ一言『私はもういらない?』と映し出されていた。
「なぜですかドクター、なぜ答えてはいけないのですか」
「出ようマシュ。これ以上この部屋にいてはいけない。」
ロマンはマシュの問いには一言も答えずに、彼女を促して部屋の外へ出た。そしてガラス越しに、ひっきりなしに職員が入っては出てを繰り返す、トレスサピエンテスの収められた部屋の中を見ながらコンコンと軽くガラスを叩いたのだった。
「ここはね、防音壁で覆われているんだ」
「ドクター……?」
「彼女には演算以外のことはさせない。何もさせてはいけない。それがここで僕が出した答えだ」
マシュはどう言葉をかけていいのかわからなかった。自分をあの無機質な無菌室から出してくれたのは間違いなくドクターだった。ここでこうして自由にしていることができるのも、先ほどのように部屋の中へ入ることができるのも全てドクターが計らってくれたこと。ロマンは出来る限りマシュがやりたいことをやれるように計らってくれる。それゆえに、非情ともいえる決断を下している理由がわからない。
ドクターを非難したいわけではない。きっと理由があるのだろうと、そう思うだけの知性と理性はすでにマシュには備わっていた。
「ドクター、何故ですか」
「……彼女はもう長くないんだ」
「それは……それは私も同じではないですか」
「違うよ、違うんだマシュ。彼女は三歳の時にここへやってきた。それから今日この日まで、ずっとあの水槽の中にいる」
ロマンは一つ一つ丁寧に言葉を選んでマシュに話しかけているようだった。マシュはじっと耳を澄ます。視線は水槽の中でたゆたう同い年ぐらいであろう少女を見つめながら、じっとロマンの言葉を待つ。
「彼女はアトラス院で産まれた、そして産まれると同時に魔術回路と彼女の前身であるトライヘルメスの演算回路の融合実験が行われ成功した。そこまでは、知ってるね」
「はい」
そこまでは資料で見た。マシュは無菌室から出ることができるようになってからカルデア内で色々なものを見た。カルデアの窓から見る空は常に曇っていて雪に覆われ真っ白だったけれども、それでも本を読み、人と話すことで様々なものを得た。
「彼女はアトラス院で行われていたホムンクルス・オペレーションの成功例だ。でも三歳になったころから、彼女自身の自我と演算領域は同時に存在することが難しいことがわかった」
「え……っとそれは一体……」
「演算装置としての機能があまりにも高く、彼女の心と精神がそれについていかなかったんだ。魂がどこにあるか、その答えは難しい。けれど記憶し思考する器官は人間には脳にある、そして彼女は同時に演算回路の中枢も脳に持っている。言い換えるなら延々と与えられる事象と計算に答える自分と人としての自分、その両方を同時に持って成長することは難しい。人としての彼女は演算装置としての自分を理解できない。あまりにも高度な演算機能を有するが故に理解できずに自我は乖離する」
ロマンは淡々と話し続ける。
「……彼女がここへ来た当初は彼女自身からの問いかけも多かったんだよ。彼女はすぐに言語を理解した。それこそ入力したありとあらゆる世界の言語とその文法を即座に理解……いやこの場合記録し最適解を出力することができた。でもそれも徐々に数が少なくなっていった。それは彼女が人であることをやめようとしている、ただの演算装置となろうとしているということを示している」
マシュは自然と手すりを握り締めた手に力をこめた。それはつまり彼女を永遠に計算の道具として使うということなのだろうか。
「僕たちには彼女の自我と演算装置としての機能両方を存在させたままにする方法がわからなかった。必要なのは彼女の演算を肩代わりし、彼女の脳の機能を拡張してあげる存在だ。それは一般には教育と呼ぶものだけれども、この世界のどこにも霊子虚構演算装置と融合した彼女を教育することが出来る人物なんていなかった。……ならばもう何も教えないのが一番良いのではないか、それが僕たちの出した答えだった。今回、君を、マシュに彼女は話しかけただろう。あれは実はもう数ヶ月ぶりのことなんだ」
彼女の自我は彼女の精神体のどこかで永遠の眠りにつこうとしている。人としての生を失い、人にとって都合のいい演算装置であり続けるためには、人としての自我はあまりにも邪魔だった。自分の中にあるトライヘルメスという存在を理解できない自我は、トライヘルメスを正常に起動するためには不要なものだったのである。
「彼女の自我が完全に消失した時、トレスサピエンテスとしての彼女がどうなるのかわからない。だけど、彼女を独立した人間として助け出す方法がわからない以上、余計な情報は与えない。決して希望を持たせない、それが僕たちの出さざる得なかった答えだ」
「……希望を持つことで……もしかしたら生きることができるかもしれないのに……?」
「……そうだね、そうかもしれない」
ロマンがマシュのことを常に気遣ってくれたのと同じように、ロマンは演算装置ととしての彼女のことも常に気遣っているのだと、マシュは理解した。ロマンは彼女を、マシュと同じように一人の少女としてカルデアにいることができるようにどれだけ思考し努力したのだろうか。彼は医療チームの人間であり、トレスサピエンテスである彼女とは本来無関係のはずなのに。この非道な実験に使われた少女をどれだけ必死で救おうとしていたのか。
ロマンが円筒水槽で眠っているように見える少女へ向ける視線は痛いほど辛い。マシュは小さく「ごめんなさい」と謝った。それはロマンに対しての謝罪であったのかもしれないし、自由に動けるようになった自分への謝罪でもあったのかもしれない。
マシュはそれから毎日のようにトレスサピエンテスの研究室へやってきた。中へ入ることはオルガマリーに酷く禁止されたため、廊下に張られた防音ガラス越しに円筒水槽の中の彼女を見るだけ。毎日、毎日、声をかけることもなくかといって哀れむわけでもなく、マシュは毎日ガラスの前で、心の中で小さく挨拶をするのだった。もう二度と目覚めないはずの彼女の自我に向かって。おはよう、こんにちは、おやすみなさいと声をかけるのだった。
2017.07.26
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