experimentum
通称「トレスサピエンテス計画」、別名ホムンクルス・オペレーション。アトラス院は寿命が短く性能をある程度絞らざる得ないホムンクルスではなく、虚構世界において想定される最適解を得たデザイナベビーを用いて、人間の演算領域の拡張を行おうとした。具体的には遺伝子のレベルで最適な存在を作り上げ、そこにトライヘルメスの演算回路を埋め込んだのである。ホムンクルスは確かに使い勝手のいい装置だが、人間同様の神経回路を作るのは非常に難しい。人間に似せれば似せるほどホムンクルスの寿命は短くなり、一方で演算装置に寄せれば寄せるほど寿命は長くなるが人間性が失われただの計算機となる。それならばホムンクルスにこだわる必要など無い。いっそ人の子供を使って成長とともに演算回路を育てていこう、それが「後に続くもの」を意味するトレスサピエンテス計画の始まりであった。
アトラス院の記録媒体、トライヘルメス。賢者の石と呼ばれるフォトニック結晶によって作られた、今の地球上に存在する科学の技術では決して作れないといわれるオベリスクの形をした擬似霊子演算装置。これを埋め込むには、受け入れる人間の側に十分な素質がなければならない。
通常人間は脳のほとんどを使っていないという。しかしトライヘルメスの演算回路を埋め込むとなれば、脳は常に最大限活用されなければならない。そのように脳を動かすための魔術回路を作り出す。
目や口や耳といった神経の末端が得た情報を選別し最重要と思われるものを神経中枢ないし演算の中枢へ送るためには末端でも莫大な情報の処理が必要になる。それを可能にするための魔術回路を作り出す。
全ては霊子虚構世界の中で創造された最適解、これらの魔術回路は最終的にはトレスサピエンテスの演算回路として活動するためそれらも前提にして遺伝子の一つから計算された、人間は1990年、ついに霊子虚構世界において完成したのである
1990年、理想的な個体が完成してからそれを現実世界に落とし込むのに丸一年、そしてそこから多くの個体が生み出されたが、そのほとんどは死亡した。
受精卵の分割が開始すると同時に、魔術回路が各部位へ指定されたとおりに埋め込まれるのだが、まずこの段階で発生が止まってしまう個体が非常に多かった。本来ならば一子相伝となる魔術回路を受け入れないのが問題で、結果遺伝子から完成した魔術回路と適合できる個体を作り出すことになり、これに多くの時間をかけた。
その後も失敗の連続で、二十年の間に七万以上の個体が、赤子の姿になることもなく供給槽の中で消失していった。魔術回路の埋め込みに成功し赤子として誕生しうるまでに成長したのは七万以上の実験体のうちわずか千と少し。さらに生まれる直前に演算回路と融合するとなると、未だ成功例はなく、この日もまたアトラス院の錬金術師たちはひたすら研究に邁進していたのだった。
演算回路を魔術回路と融合する被検体は供給槽の中で十月十日を過ごし、問題なく発生した赤子のみである。それ以外の赤子は全て発生が上手くいかなくなった段階で廃棄されている。
時に魔術師は人道に悖ることさえも良心の呵責なく行っていく。魔術はその神秘性から多くの人に対し公開されたものではない。故に多くの魔術の研究は個々人によって定められ、たとえ同期にすらその研究を公開しないということも多々ある。故に非人道的な研究すらまかり通ってしまうのだ。
アトラス院の中でもトップレベルの研究となるホムンクルス・オペレーションはさすがに個人の裁量で行うには荷が重く、アトラス院の多くの魔術師・錬金術師がその研究に名を連ねていたが、その中の誰一人もこの実験に反対するものは居なかった。
受精するとも生まれ得なかった子供、それを人と認めるか否か科学は論じる。だが魔術世界では人道を持ちえて成すものはないとみなされる。そうでない魔術師も少なからずいるようだが、それでも、それでも一般人からすれば魔術とは非道なものである。
被検体番号1023番、2001年生まれ。健康であり胚に埋め込んだ魔術回路は全身に均一に広がっており、優秀。
被検体番号1024番、2001年生まれ。健康体であるが胚に埋め込んだ際魔術回路は左半身に集中しているため魔術回路は不均一に作動。
被検体番号1025番、2001年生まれ。健康体であり、魔術回路は過去の記録から比較して数が不足。廃棄。
被検体番号1026番、2001年生まれ。健康であり胚に埋め込んだ魔術回路は比較的均一に広がっている。右手を動かすことができない。
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ずらりと並んでいるのは今年に生まれた赤子のデータであった。十月十日の発育を追え、試験管という子宮から円筒水槽へ無事移された赤子が一覧になっている。今日、この日は十三体の赤子が誕生した。そしてそのうち四体は試験管から生み出された際に行った魔術回路のテストでその付加に耐えられず死亡、また二体は発育不良が発見され破棄。結果残ったのは七体の赤子であった。外部から直接マナを通し魔術回路の励起が正しく行われている赤子を選抜する。演算回路は基本的に魔術回路と近しいものであるため、まず魔術回路が正常に励起しなければ演算回路を融合することすらできない。それは幾たびも繰り返した実験の結果が示した事実であった。
ホムンクルス。オペレーション主任、シリウス・エルトナム・アデラは無事円筒水槽へ移された七体の赤子を前に演算回路移植・融合の準備をしていく。
胚の時点で魔術回路を、そして魔術回路に問題なければすぐに演算回路を魔術回路と同じ形にはめ込むことで、魔術回路と演算回路は融合し、そしてシナプスの成長に合わせて回路も成長していく。それがこの実験の理論の結果だ。だが実際にはまだ一体も成功していない。それはこの地下に作られた魔術研究所の広い空間の中で、円筒水槽が点灯しているのが七体しか存在しないことで一目瞭然だろう。
全て失敗した。1000番以下の全ての赤子は魔術回路に演算回路を移植した瞬間、魔術回路が暴走し、未発達の神経系を焼ききってしまうのである。その赤子を解剖すると脊椎から脳にかけて、中枢神経系が全て炭のように真っ黒になっており、激しく暴走した魔術回路の末路を示していた。
それでもシリウスは諦めなかった。実験に失敗はつき物であり、そしてその失敗のデータを解析すれば成功への足がかりになる。シリウスはそれを信じ今までの失敗した赤子のデータを詳細に調べ、実験を行うたびに牛歩のごときゆっくりとした歩みではあるが、着実に前進していることをデータとして確認している。
昨日行った移植では魔術回路は一時演算回路との融合が成功したように見えた。約一時間の間、魔術回路は静かに励起し続け、そして赤子は静かに命を終えた。これもまた中枢神経への不可に耐え切れなかったためであるが、今までのように激しく焼けきれるような失敗ではない。シリウス以下の魔術師は徐々に魔術回路と演算回路を移植融合するコツを掴み始めている。
今ここで成功して欲しいと願わないわけはなかった。いつだってそう願っている。虚構世界で打ち立てた理論は完璧だ。あと足りないのは何か、常に考え続ける、シリウスはただひたすらに思考をめぐらせ、1023番から順番に演算回路の移植が始まった実験の様子をじっと見つめていた。
「1023番、トライヘルメスの演算回路を移植完了しました。……魔術回路励起開始、数値上昇」
ぼこりと水槽の中で泡が立つ。円筒水槽につながれたコードが一瞬バチッと激しく光、切れた。1023番を収容した円筒水槽は一瞬暗転、その後即座に呼び電力で酸素とマナを送り込んだ時には、赤子は円筒水槽の生理水溶液に溶けきった後であった。赤黒くにごった水溶液、水槽の中で居場所をなくしぽこぽこと空気を吐き続けている酸素コード。
「リディ、メリコットは詳細を記録、その後1026番の移植準備に移れ。リゲル、スピカは1024番の移植を開始」
慌しくアトラス院に所属する魔術師たちが動き出す。失敗は今更のことで、落胆するものはいない。むしろその失敗をどう記述するかで、次の実験結果がよりよいものになるのであれば、ただひたすらに思考を続けるしかない。
『人間とは運動機能(五感)をもった類い稀なる計算装置である。情報を収集し、解析し、生まれ出る数々の問題に、労働力としてダイレクトに対応できるよう進化した知性体が我々人間である』
そうであるならば今もまた、実験の失敗に落胆し思考をとめるわけにはいかないのである。
「1024番、トライヘルメスの演算回路移植完了」
シリウスはこの個体に関してははじめからあまり期待していなかった。ここへ運ばれてくる多くの赤子は少なくとも魔術回路だけは優秀だ。だが1024番は魔術回路がそもそも全身に均一に広がっていない。励起実験において良い成績とは言えず、廃棄するか迷ったほどの個体である。だがそれを廃棄しなかったのはシリウスが今までこの実験に携わり数えるのも諦めるほど失敗を見てきた故の直感であった。失敗はこれからも続く。なら多少魔術回路が優秀でない個体も実験に使ってみてはいいのではないか。生まれては捨てられる生命に対する一抹の罪滅ぼしのような感覚も、心の奥底であったことは否定できない。
「1024番……魔術回路励起...正常……?」
「なに?」
「1024番、魔術回路と演算回路の移植に成功、演算回路は魔術回路と融合!成功しました!」
リゲルの言葉は伝播していく。ついにやったのか、成功したのか……という呟きは徐々に大きな声になりやがて歓声にかわった。シリウスは震える手でペンを掴んで手元の資料の番号に丸をつける。
「成功……ついに、我々は成し遂げた……これこそが究極の演算装置……!」
これがソムニア・マーレの誕生した日である。
2017.07.26
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