はっと目を覚ますとそこはもう人の気配のなくなった大講義室であった。もともと人の少なかった教室には誰もおらず西日が強く窓から差し込むばかり、
天は一人奥の座席で腕を枕に寝ていたのであった。
ひどい夢であった。いつのものかわからないが、平維茂という男の名を自分が何度も呼んでいたこと、そして鶴丸国永という雪よりも白く儚げな男が常に傍にいたことを
天は克明に覚えていた。
「夢にしては生々しい・・・・・」
小さく呟いてみてこれが現実であることを確認する。最後にきりつけられた背中が痛んだ気がして思わず手をやってみても、勿論そんなところに傷はない。
天、
天と自分と同じ名前で呼ばれていた女のことをずっと空から見守っていたような夢であった。
「つるまるくになが・・・・・・」
それは口にしても耳にしてもひどくなじみのよい音であった。夢の中では何度か五条国永の作、太刀という言葉が飛び交っていたので持っていた携帯で調べればなるほど、皇室御物としての銘国永、名物鶴丸という一口の太刀が出てくる。写真の太刀拵は夢の中で見たものと幾分仔細が異なっていたが、それでも美しい波紋は確かに夢で月夜に輝いたそれであった。
適当に付随する解説を詠み進めていくとやがてそれが今皇室御物の展示と言う形で、一つ隣の駅近くの博物館で展示されていることを
天は知る。展示期間は明後日まで、今から行けばかろうじて閉館に間に合う時間。その時刻に見た夢とは、なんという偶然なのだろうか。
天は一人暮らしの家にそのまま帰る気にもなれず、ならば折角だ行ってみようと思い立って、がらんどうの講義室を後にした。
電車に揺られて、わずか数分。改札を通り抜け、足早に人の流れに逆らう。皆帰り道なのか、
天と同じように博物館に向かう足は少なかった。おかげで皇室御物の展示と言ってももうチケット売り場に並ぶ者もほとんどなく、「大学生一枚」と一言言えばすぐにチケットを購入できたのは幸いであった。
パンフレットを渡され、しかしながらすぐに鶴丸の文字を見つけ出せない。
「すみません、刀剣のある場所は___」
たずねればすぐに答えがあった。
天は他の展示を流しながら、さっさと順路を進みそして鶴丸国永という太刀の下へ急ぐ。閑散とした館内は、特に順路の始めの方はもう人もなく、たった一人
天だけがほとんどの展示に目もくれず奥へ進むばかりであった。途中もっと見ていけばいいのに、と笑う誰かの声がしたが、
天が振り返ることはなかった。
さて、刀剣の展示コーナーの一角にあった鶴丸国永を見て、やはり最初の
天の感想は美しいが夢で見たそれの方がもっと美しかった、と言うものであった。太刀の飾りの鎖は細かな傷によって鈍い光となり、夢の中の金色は見られない。刃もまた美しいには美しいが、人を斬り血を浴びたあの輝きには到底敵わない。光の加減だろうかと角度を変えてみてもそれは変わらなかった。
『なんだい鶴丸国永にご執心か』
ふいに聞こえた声は、
天のほとんど真後ろからであった。だが不思議なのは大きな声であるというのに全くこの空間に響かないということであった。
『えー!!また鶴のじっちゃんかよ!皆鶴鶴って俺のことも見てくれよなー!』
『獅子王、大体貴方は展示の場所が違うでしょう』
『だって暇なんだもんよ』
『そうですとも一期一振殿!鳴狐も大層暇なのであります!!磨かれあの場に放置されるだけなど!!我々は戦刀____はて__あの御仁こちらをみてはいらっしゃらぬか』
はたと銀髪の男の肩に乗った狐と目があった。その瞬間狐が『聞こえておりますか!!なんと一期一振殿、獅子王殿、鶯丸殿!!ご覧下され!!わたくしめもここ二百余年、とんとあのように霊格の高いお方にお会いしたことはございませぬぞ!』と叫びだす。狐がしゃべったのか、それとも隣の男の腹話術なのか、気になって銀髪の男の方に目を向けるとその男は手でばってんを作る。多分、考えていたことが読まれたに違いない。
天はそれこそ狐にでもつつまれたような気持ちになって呆けながら会釈をした。
「あの、すいませんが___えっと・・・・」
『えっ姉ちゃん本当に俺らのこと見えんのか』
おっどろき~!と、獅子の飾りを肩に乗せた金髪の男性が言う。ぴょんぴょんと近付いてきて
天の前で手を振るものだから思わず振り替えすとそれはもう楽しそうな表情で『見えてる!』と叫んだのである。いつだかもこんなことがあった気がする、と
天は思いながら鶴丸の所在を尋ねようと口を開きかけた。
『ああ、なんだ誰か俺のことを呼んだか』
それは夢に聞いた声であった。夢の中でどこまで耳が機能していたかもわからぬというのに声を聞いた瞬間に、夢に見なかった部分まで全てが鮮明に思い出される。
「・・・・鶴」
するりと口から、懐かしい呼び名が出てきた。先ほどの夢は誰かの過去を見ているという感覚であったのに、ここに来るとその記憶は自分の物であるという奇妙な確信に変わっていた。
『ん?ああ・・・・・君はなんだ_____いや待て、待てもしかして君は』
『じっちゃん知り合い?』
『・・・・・
天か?』
実に千余年ぶりの邂逅であった。初めて鶴丸国永と
天が出会ってから、それだけの月日が経った。
天の方はかつてよりも幾分ふくよかになったが、鶴丸国永は何一つ変わらない。美しい白の着物をまとって、赤い紐の飾りをつけて、満月のような目が驚きで見開かれる。
『いやぁ・・・・いや待て待て待て・・・・こりゃ驚いたぜ・・・・・俺も長いこと生きてるが・・・・まさかまさかなぁ。俺のことを覚えているのか?』
天は一拍間を置いてから、結局頷いた。一度目にしたら忘れ難い白である、人違いであるはずもないだろう。
『なーじっちゃんのこと知ってんの?』
獅子王が
天の肩越しに
天の顔を覗き込む。
「君達は、鶴と同じ__付喪神・・・・?」
天は一歩下がってからたずねた。
気付けば館内は人が居ないはずなのに全く静かではなかった。騒がしい女達の声が隣の展示室から聞こえる。きゃらきゃらと笑う子供の声と足音が館内に木霊しているではないか。だが閉館時間も迫るこんな時間にまだこんなに人がいるはずがない。これは、全て博物館の物に宿った付喪神の声だった。
天は今までこういったあやかしの類、化生の者、異形の声を聞いたことも見たこともなかった。だがつい先ほど、大学の講堂で夢を見てからひたすら声が聞こえてくる。それこそうるさいくらいに響くそれらの音に頭が割れそうだった。
『人ごみに居るとでも思え』
「・・・・・鶴・・・随分と格好が変わったね」
鶴丸が触れられもしない手を
天の肩に置く。ふとその手首に結び付けられた赤い紐飾りが目に入って
天がぽつりとそんなことを口にすると鶴丸は一瞬言葉を切ってから笑った。
『君もな。まぁ昔は戦刀だったが、今じゃお飾りだからなぁ。付喪神ってのは周りからの影響を受けやすいもんだ』
鶴丸国永は相変わらず美しい白をまとっていたが、
天が夢の中で見たような袴と脚絆を身に着けておらず、ゆるりと流れる着物の裾は地面についている。しいて言うならば白無垢のような、人形のような格好である。戦刀としての役割から身を引いて久しいからな、と鶴丸は特に感傷もないようで、あっさりとそんなことを口にした。
『もうこの館にはほとんど人はいないな。皆付喪神だ。君の後ろにいるのも含めてな』
「へぇ・・・」
天は鶴丸の言葉に後ろを振り返る。興味深そうにこちらを見るのは、皆全く違う輝きを持った5対の瞳である。
獅子王、鳴狐、鶯丸、一期一振、平野藤四郎・・・・名だたる名刀の付喪神たちは皆鶴丸と同じように美しい姿かたちをしていた。それぞれ生きた時代や主から影響を受けるのか、全く違う姿格好である。だがそんな中共通しているのは鶴丸と同様に、誰も戦に出る姿ではないように思えることであった。綺麗に着飾られているものの、戦に出るには不向きな美しい着物をまとっているのは博物館に「飾られている」からなのかもしれなかった。
『三日月宗近はもう引っ込んだぜ。惜しいなぁ、つい一昨日まで表に出てたんだが』
ガラスケースをこんこんと叩くふりをする鶴丸の視線の先を追うと、なるほど展示の一画はすでに取り払われていた。「三日月宗近の展示は終了しました」の張り紙のみが閑散とした空間にぺたりと貼り付けられている。
『ところで、もう閉館なのではありませんか?』
「あっ」
天が一期一振に指摘されて慌てて腕時計を見ると時計の針はすでに五時を指そうとしていた。しんとしている館内に閉館案内の放送が流れ、
天は慌てて足元に置きっぱなしであったかばんを手に取る。
「もう帰らないと・・・・」
ただ、それでもまだここへ居たい気持ちは強くあった。あの夢のことを鶴丸と話てみたい。鶴丸は先ほど自分とは無関係であると言ったが、本当にそうなのか、あの夢はただの妄想で、付喪神が見えることとは別の要因に起因するものなのか___名残惜しそうに鶴丸の方を見ると鶴丸は肩をすくめてからこう言った。
『また明日来い。俺達の展示は長いわけじゃあないが今日で終わりでもない。俺も一期も平野も鶯も今は皇室にいる。常時展示されてるものじゃあないから、この展示期間を終えたらいつ会えるか俺にもわからない』
「皇室御物・・・・?維茂様からそんなとこまで__」
『俺も色々人の手を移ったという話だ』
ほんの少し寂しげな表情をした鶴丸にそれ以上話を聞く時間はなかった。
天はそれじゃあとその場にいる六名の付喪神に手を振ると早足で博物館を出る。すれ違った警備員に「またご来館ください」といわれて会釈をして、
天は表に出た。
すっかりと暗くなった夜空には月が出ていて、そういえば夢の中で自分が死んだときもこんな月夜であった、と
天は思った。
夢は鮮明に覚えている。それこそ胴を切られた痛みさえも、明確に。そして鶴丸を前にしたときのあのざわざわと体の奥底がうごめくような奇妙な感覚も、また。
天はそれがかつての自分の「恋心」であるとわかっていた。夢の中で見た自分は鶴丸国永という付喪神に恋をしていたのだ。それは主である平維茂に向ける想いとは全く別の想いのカタチであった。夢の中の自分は学がなく、また主に向ける想いと鶴丸に抱いた想いを区別するほどの余裕も何もなかったから、困惑もした。
「今はどうなんだろう」
天は博物館の入り口から、建物を見ながらぽつりと呟いた。勢いのまま鶴丸国永の展示されているこの博物館へ足を運んだが、いざ鶴丸国永と出会って感じたのは千年を超えた恋心と言うよりも、夢で見た人物に会えたという驚きと感動の方が大きかった気がする。あの声に懐かしさを感じるのは事実、あの容姿を美しいと思った自分もいる。だがそれが恋であるのかと問われるとわからない。
天はその晩ずっと瞼の裏にやきついた白を思いながら夢の出来事を考えていた。
時計の短針が10を示しているのを見て、
天は完全に遅刻をしたことにため息を吐いた。
よく晴れた青い空は清清しいが、間違いなく大学の講義は始まっている。一つ講義を逃しただけで単位を落とすことはない。もう今日は諦めようと小さく呟いてからもう一度布団に包まった
天だったが、思うところあってばっと体を起こす。
「博物館いこ」
授業がないのならノートも教科書も必要ない。重くて邪魔になるものを全部机の上に積み上げて、代わりにカメラと携帯とそれから財布だけをつめた軽いかばんを持つ。一人暮らしの部屋に行ってきます、と言うのはもう随分前にやめてしまった。戸締りだけをよく確認してから、
天は早足に家を出た。
博物館は昨日に比べれば人が多いが、人が多すぎて困るということもない。平日の昼間となれば妥当なところであろう。社会科見学中の小学生、外国からの団体、近隣住民があちらこちらで好きなように館内を見学している。
『
天!』
特別展のチケットを購入して、今度はゆっくりと他の展示も見ながら刀剣のコーナーに向かう途中、声をかけられたほうを見ればそこには獅子王がいた。
『鶴のじっちゃんがいつくるかってすげぇやきもきしてたぜ!』
「私学生だからそんなに期待されてもなぁ」
『ははっ、
天は鶴のじっちゃんと長い縁なんだろ?いいじゃねぇかあとちょっとくらい朝から来てやれば!』
獅子王にもまた肉体はない。だがなんとなく手を拾われる動作をされたので同じように手を掴み返すように手を動かすと、獅子王は驚いてから笑った。鶴丸はひどく儚げな笑みをするが、獅子王はまるで太陽のようであると
天は思った。
獅子王に案内されるがままに刀剣の展示コーナーに向かうと相変わらず暇なのか、別室の展示のはずの鳴狐もすでに混じってのんびりと話をしていた五人がいっせいにこちらを向いた。
『遅かったな
天、遅すぎて今日はもう来ないのかと思ったぜ』
「遅いってだってまだ朝だよ朝」
『ここじゃあ見えるやつも少なくて暇なんだ』
天は特に展示を見るでもなく、刀剣の展示コーナーのすぐ近くに用意された休憩用の椅子に腰掛けた。
この博物館はいくつもの館が展示内容ごとにわかれ、かつ一つ一つの館の敷地面積はかなり広いのである。全部の館の展示を一つ一つ見ていこうとすればそれこそ丸一日あっても足りないだろう。一つの館だけでもあっという間に脳が飽和してしまうような情報量があった。展示コーナーごとに用意されているソファーは入れ替わり立ち替わり誰かが座っている。
天はソファーに深く腰掛けたが、付喪神たちはめいめい勝手に好きなところに座っている。獅子王は
天の目の前の床にしゃがみこんだし、鶴丸は
天の座るソファーの背に乗っかって、反対側に座った子供の髪の毛で遊んでいた。
『しかし君も女らしい格好を少しはするようになったんだな』
「うっ・・・・時代が違うから・・・・」
『今でも昨日のように男装をしていたらどうしようかと思ったぜ』
「昨日のも女物だけど!?」
『そりゃあ驚いた』
全く見分けがつかん!と鶴丸が後ろ頭をかくと、獅子王と鳴狐が笑った。
『全く、この時代の服装は西洋のものになってますからなぁ』
『・・・・わかりにくい』
銀髪の男性の方はほとんどしゃべらないが、肩の狐がよく言葉を話す。流暢なその言葉を一体どこで覚えてくるのか知らないが、少しばかり時代がかった高い声からくるくるとつむがれていく言葉は小気味良いものであった。
獅子王も『俺も最初はわかんなかった!』と言って笑っていた。彼らは皇室御物である鶴丸たちとことなりこの博物館に所蔵されている。それゆえ展示に出されることも多く比較的来館者と触れ合う機会があり、かつ人の会話を聞くことも多いのでいいが、皇室御物となった鶴丸は長いこと人と触れ合う機会がない。そうでなくてもこの数百年の間の生活の変化は激しく、皇室にて祭事のときのみ表に出る鶴丸が時代についていけないのも仕方のないことであった。
「大体・・・・その・・・・鶴が知っている私が、今の私と同一かっていうと自分の中で確信はあるんだけど、でも違う気もしてる」
『でも貴女は鶴丸国永のことを覚えていて、その当時のことも今は鮮明に記憶にあるのでしょう?』
「う、ん。今の年齢に十五年丸まるプラスされた気分」
『本当の意味で貴女が夢に見た貴女自身と同一ではないとは思いますが、鮮明に記憶をもっているならば貴女は生まれ変わりである可能性は高い。貴女は私たちと違って輪廻の中にいるので、確率は低いですがそういうことは必ず起こります』
一期一振はなんらおかしいことはない、と
天に笑顔で告げる。
この世の生命は六道輪廻を巡っているという。
天は人であって死後の世界と言うものを見たことはない。だからそういう考え方もあるといいうことしか知らないが、付喪神が言うならばそれこそが事実なのかもしれなかった。
『私達のような付喪神や、あやかしといった類のものはこの輪廻の輪から外れた存在であるため事情は違います。ですが動植物は必ずこの輪廻の中で肉体を持って生きています。前世があり、現世がありそして来世がある。今からこんなことを言うのはおかしいですが、貴女の来世も必ずあるでしょう』
前世の行いによって現世でどのように生まれるかが決まり、そして現世の行いで来世が決まる六道輪廻の世界では全く同じ姿かたちで生まれかわってくるのは珍しいことであった。とはいえそんなことを言われてもぴんとこない
天は「へぇ」だの「はぁ」だのといった曖昧な返事を一期一振に返すしかない。
『じゃ
天は鶴のじっちゃんの昔のこと知ってるんだ?』
「そうなるのかな?」
でも今も昔もさっぱり変わらないよ、と言う
天の髪の毛を鶴丸は手で弄んでいる。
付喪神は実体を持たないために基本的に物に触れることはできないのだが、多少であれば干渉することも可能であった。特に強い霊格を持つ者を主に持っていたり近くに居る場合は、怪奇現象を引き起こすこともある。かつての鶴丸も
天と一緒にいることで維茂の屋敷でそこそこ色々とやらかしていた前例があるのだ、今とて髪の毛に多少触れるは容易いことであった。
『短くしたなぁ』
「あー・・・・」
そういえば夢の中の自分の髪は長かったなぁと思いながら
天は曖昧な返事をする。特に髪を短くしていることに意味はない。動きやすく洗いやすくと利便性のみで髪を短くしていただけのことであった。
さて気付けば
天が博物館に来てからすでに二時間が経過しようとしていた。博物館は何も時間制限があるわけではないので、閉館まで時間をつぶしていても問題はないのだが問題は
天の時間のつぶし方であった。
天には今目の前に居る六人が何の違和感もなく見えているので、それに向かって話かけても何の違和感もないのだが、この博物館に来ているほぼ全員は付喪神など見えないのである。そういう者たちからみれば、
天が一人ぶつぶつと呟いているのは怪しいに他ならず、果ては一人で身振り手振りをつけての演技のようなことまで初めてしまったので、いつの間にか
天の周りにはぽっかりと空白が出来ていた。
「・・・あの、申し訳ありません」
「はいっ!?」
突如声をかけられて、驚かぬはずがなく
天はひっくり返った声を出して注目を集めてしまい慌てて手で口をふさいで体を小さくした。すっかり付喪神たちと話をすることに集中していた
天は近くに誰か近づいていたことにも気付かなかった。付喪神たちはといえばそもそも周りからの干渉を受けないが故に、人の接近にはひどく疎い。鳴狐などは
天に警備員が近づいていたことは知っていたが、それが何の意味を持つのかは全く考えていないのだ、当然
天に声をかけることもない。
とんとん、と肩を叩かれてまだ心臓が早鐘のように鳴っている
天は、「すみません邪魔でしたか、あっすぐ出ます」などと口早に何事か言って慌てて席をどこうとしたのだが、それはもう一人の男性によって止められた。
「いえ、あの、ずっと空に向かって話かけておりましたもので・・・・それでそのご様子を見てお話をお伺いしたいとおっしゃる方が」
おりまして、と警備員も困惑した表情でそんなことを
天に告げた。しかし警備員以上に困惑をしたのは
天の方である。これならまだ誰も居ないところに向かって話しているキチガイだとでも思われた方がマシだった。話を伺いたいなどと、一体何事かと
天は目を白黒させながら、しかし断る良い文句も見つからず「は、い」と引きつった笑みで答えることになった。
『あっはっははこりゃあ驚いたな
天!』
「驚いたじゃなく・・・・・」
はっとして
天は慌てて口を閉じる。警備員が胡散臭げな目で
天を見て、若干距離をとった。どう考えても空に話しかける変な人間に思われているに違いなかった。
『まぁいいさ、俺も行こう。この博物館の敷地内ならそれなりに動けるしな。なにここなら本体を盗まれる心配もない』
『俺も行っていい?』
『君はいい加減自分の持ち場に戻ったらどうだ?』
『ちぇー』
不満そうに口を尖らせた獅子王は後を追うこともなく
天とそれに従う鶴丸を見送った。
天はさすがにこれ以上怪しまれるのは不味いと、いろいろ話しかけてくる鶴丸を徹底的に無視するが、いきなり耳元でささやかれたときには思わず悲鳴を上げた。
「・・・・どうされましたか」
「い、いえなんでも、ないです」
なんでもない、といいつつ
天は警備員の視線を避けて鶴丸を睨む。『構ってくれない君が悪い』とばかりの表情をする鶴丸は、今までさぞ暇だったのだろう。昨日会ったときはあまり光のなかった瞳がキラキラと輝いている。満月のようなその美しさは、太刀の装飾が時代を重ねて鈍い光になっても全く変わらなかった。
順路を遡るようにして展示室を渡っていけば、当然目立ちもする。
天は警備員の後ろを歩きながらできる限り体を小さくして、前を向く。警備員の背中だけを見ていればそこまで周りの視線を気にすることもない。さて、警備員に連れ添われてスタッフオンリーと書かれた看板を超えて、博物館のバックヤードに通された
天はそのまま暗い廊下を通って応接室に案内された。中に人がいる、と言われそのまま一人残された
天は扉を開くのに躊躇したが、ノブを握った手に鶴丸が手を重ねてしまえば帰る道もない。
「相当楽しんでるでしょ」
『ああ、こんな楽しいことは久々だ。何せ今まで一期や平野や鶯しか居なかったもんでな。代わり映えのない日々にちょっとした驚きは必要ってもんだ』
「私は心臓が止まりそうだ」
『なんだまた生まれ変わるつもりか?』
「いやいやいや・・・・」
天はふぅと息を吐いてから失礼します、と小さく呟いて扉を開けた。ぎぃ、と重たくあまりすべりの良くない扉を開くと、中はソファーと机がぽんと置かれてるばかりで閑散としている。机の上の一輪差しに活けられた花がじっとこっちを向いている。
「
天か?」
「
天ですが・・・・」
なんで名前知ってるんです、と相手のこともわからないままに
天は驚いて口を開いた。博物館に入るに当たって芳名帖に名を書いた覚えはない。チケット売り場で学生証を見せはしたが、まさかその名前を控えていたわけでもあるまい。ぽかんとした
天の後ろから鶴丸は部屋を覗き込む。
『おい邪魔だぜ、
天。しかしまぁ・・・・・こりゃあ驚きだなぁ。まさか維茂までこの世にいるとは思いもしなかった』
