雪が溶け始めている。ぽたりぽたりと屋根から雪解けの水が滴り落ちて、軒下に小さな水溜りを作っていた。鳥たちが春の訪れを喜び鳴き交わし、雪が消えた地面に降り立っては小さな木の芽や草の芽そして目が出ずに残った穀物顔を出した虫などをついばんで空へ飛んでいった。
 部屋の中は雪に照り返した光が入ってきて、灯りをつけずとも十分に明るい。火鉢もない部屋であったが、着物が重ねさらにしっかりと障子とふすまを閉めておけばそこまで極端な寒さも感じなかった。
 『おっ目が覚めたか。おおい維茂。こいつ目を覚ましたぞ・・・・つっても聞こえないか、声は出せるか?』
 子供がまず目を開いてみたのは綺麗な金色の満月であった。それは空にあるものではなかったが、かつて夜空に上ったのを見たことがあるのを子供は思い出しながら一度二度と瞬きをしてから咳き込む。暖かな着物につつまれていること、そしてなによりも見たことがない部屋の中にいることに気づいて、子供はぱっと体を起こすと鶴丸がその場に居ることも関わらずに障子を押し開けて外へ飛び出したのであった。包帯を巻かれた足が気になるのか少し手で触れていたが、それから次の瞬間には何の迷いもなく素足で地面に飛び降りる。
 『おい!待ておい!』
 勢いよく飛び出たはいいものの、胃は空っぽさらにしばらくの間寝ていたわけだから、当然力が入るわけもなく、縁側から飛び降りた瞬間に子供はがくりと膝から崩れ落ちる。それでもなんとか這いずっていこうとする子供に鶴丸は呆れて、鶴丸もまた同じように部屋を出ると子供のすぐ脇にしゃがみこんだ。
 『待てと言ってるだろ。君俺の声聞こえてるくせに』
 「・・・・ここにいたらしぬ」
 『死ぬものか。維茂は君を殺すつもりで連れてきたんじゃあないからな』
 「うそだ」
 随分ひねた子供であった。とはいえそれまでよほど苦労していたのだろうと思えば頷けるものであって、鶴丸は後ろ頭をかきながらどうしたもんか、と呟く。それからはた、と今自分は人と会話をしているのだということに気付いて急にぱっと顔を輝かせたのであった。子供は突然のその鶴丸の変化にびくっと大仰なまでに肩を震わせたが、『君、俺と会話が成り立っているな!?』とそれはもう嬉しそうに鶴丸が言うもんで、あっけにとられたようにぽかんと口を開けた。
 『いや、最初はいきなり君が飛び掛ってくるもんでそっちに驚いたが、そうだ考えてみたら今まで夢にも見た会話が出来ているってのは・・・・___まぁ夢なんぞ見ないが___なかなか良い驚きだな!』
 音に気付いたのか女房が様子を見に来て地面に転がっている子供に悲鳴を上げたが、先ほどまで逃げようとしていたはずの子供はと言えば鶴丸の喜ぶ様子に驚いてぴくりとも動かない。
 『今日は良い日だ!まさか三条の三日月や小狐丸と同じように話が出来る人間が来るとは思わなんだ。いや国永も俺と会話が出来たとはいえあれは産みの親だからなぁ・・・・・それに作られてからも忙しくてろくに会話などしたことすらないし、俺とてまだ生まれたばかりじゃあ言葉もさして覚えてなかったんだ』
 鶴丸は長い袖をはためかせてくるくると回る。池の鯉がぽちゃんと音を立てて底に潜ってしまったがそんなことも構わずに、だん、と地面を踏みしめてから『俺の姿はどうだ?』とたずねた。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つめ・・・たい・・・あの」
 『冷たい?そりゃあないぜまぁ刃に触れればそうかもしれんが』
 「つめたくて、・・・あそこ」
 『ん?・・・・ああなんだ雪か。君言葉が色々足りないんだなありゃあ雪だ」
 「ゆき」
 子供はまっすぐ鶴丸を指差してそんなことを言う。鶴丸は満月のように輝く瞳をまん丸にして、それからはっはっはと笑った。
 『雪か!!雪!そりゃあいい、それじゃあ俺は雪の中で舞う鶴ってところだな。ふむ、赤が足りないがまぁいいだろう』
 まだ湿った地面の中でうずくまっていた子供はそうしてようやっと部屋の中に連れ戻されたわけだが、子供と話が出来ることに大層気をよくした鶴丸は、布団の中で丸まっている子供にそれからも次から次へと言葉をかけては子供を寝かせなかった。『君、生まれはどこだ?』とか『ほかに付喪神を見たことがあるか?』だとか色々と問うても子供はほとんど言葉を知らないのかうんだのああだのへぇだの中途半端な言葉しか返さず、また知っている言葉にしてもうるさいだとかしぬだとか物騒なことばかりであった。それでも鶴丸は楽しいらしく触れないくせにぺしぺしと子供の額を叩く。さて、そんな調子なもんで二人とも先ほどから維茂が障子の前にたってぽかんとしていることにさっぱり気付かず、女房がもう一度世話に戻ってきたときに維茂に声をかけたもんでようやっと気付いたほどである。
 「驚いた、童よ本当にそこに鶴丸が居るんだな」
 「つる、まる」
 『俺の名だ。俺は鶴丸国永。維茂の持つ刀の付喪神だ』
 「これもち?」
 「それは我の名だ。誰に教わった?」
 「つる」
 維茂は目を見開く。
 「名前もはっきりとわかるか、鶴丸」
 『わかるさ、なぁに世間一般の一通りの知識は備えてるんだ・・・って言っても維茂には伝わらんか。おい、しってると伝えてくれないか』
 「つたえる?」
 『あー君があの男に向かって「知っている」と言ってくれればいい。ほれ知ってる、だ知ってる』
 鶴丸は維茂を指差しながら言う。
 「しってる」
 『ついでに君の痴態についてもよく知ってると言ってくれ』
 「ついでに、きみの、ちた、いについても__」
 「鶴丸!」
 維茂の怒鳴り声に鶴丸が腹を抱えて笑う。ああ面白い、なんて面白いんだと大層楽しそうに笑う鶴丸のことを維茂が見えないのは残念なことであった。
 元より鶴丸国永という神が居ることを信じていた維茂は、今の会話でさらに確信を強めたこともあったのだろう。女房にこれからこの子供を家来とすること、そして越後の屋敷にも連れて帰ることを告げて下がらせる。それから子供が寝ている枕元に座ると、ゆっくりと話はじめようと、したのだが。
 『おい維茂。そこは俺がいるところだどいてくれ。よし坊主、「君の座っているところは俺の席だ」って言ってやってくれ』
 「きみの、すわってるとこ、はおれのせきだっていえって」
 「全くどこにいるのかわからんのだ!少しは主に譲らんか!」
 『あっはっはっは、嫌だね!』
 「いやだって」
 それと同時に閉まっている障子のほうからひゅうと風が吹き込んで維茂はこれが鶴丸の言葉であると信じざる得ない。わかった、と一言呟いてから一歩どけばやはり鶴丸が笑っている。
 「・・・・痛いところはないか」
 子供ははじめ維茂が誰に話しかけているのかわらかないようにきょとんとして黙ったままだった。
 子供が起きてきたことで、部屋の外はそれなりに賑やかになったものの、少し離れた場所にあるこの部屋は幾分静かだった。遠くで人の声を聞きながら、鶴丸と維茂とそれから名のわからぬ子供の三人が互いに互いを見ながら座っている。いや維茂だけが鶴丸の姿を見ることができないので、お互いをきちんと認識しているのは子供と鶴丸だけである。
 「ああそうか名がないのだな。童よ、名はなんという」
 『そういやそうだな。いつまでも君というのは芸がない。名前だ名前。わかるか?俺は鶴丸国永、こっちは平維茂。君の名前は?』
 「・・・・・」
 子供は問われてすっかりと黙りこんでしまった。困ったように目を伏せてから鶴丸を見る。
 『君いつもなんて呼ばれてるんだ』
 「・・・・これ」
 『は?』
 「それ?」
 「童、名がないのか」
 大きい人はいつもそう呼ぶのだと言葉が足りないなりにぼそぼそと口にした子供に維茂は顎に手を当てた。
 この時代捨て子というのも珍しくはない。特にここいらの地域は飢饉や疫病が続いて大人ですらもばたばたと死んでいっているのだ。養えなくなった子供を捨てることもあり、そして捨てられた子供がまた狙われることも多かった。名がない、ならば名を覚える前に捨てられたのか、それとも何らかの障害で忘れてしまったのか。だがないのは困ったなと維茂は小さく呟いてから手を打った。
 「わかった、なら我が名を与えよう。これよりと名乗れ。いいな」
 『、おい聞こえるか?君の名はこれからだそうだ』
 「・・・・・うん」





 そんなわけでという名を与えられた子供は、それから平維茂の屋敷に住むようになった。しかしながら今まで盗賊まがいのようなことをやって生きてきた子供である。維茂に共だって越後の本拠地についていっても何せ都人のような生活がわからぬ以前の問題を多く抱えていた。熱い汁物ではすぐやけどをし、しかし懲りる様子もなく。着物はボロしか着たことがなく、女房のそれを着せれば重くて動くこともできない。墨はひっくり返して頭から真っ黒に染まり、夜は布団で寝ずに縁の下に丸まっているものだから最初は維茂もどうなることやらと随分と頭を悩ませたが、それでも丹念に言葉を教え作法を教えれば十五になるころには立派な人間になっていた。
 「維茂様、鶴丸が外へ出るなら共をさせろと」
 主の見送りにと出てきたは鶴丸に背をつっつかれて門を出る主を慌てて呼び止めた。だが維茂も今回は目上の屋敷に行くからそうもいかんすぐに戻るから、とだけ告げて表へ出て行く。残された不満そうな表情の鶴丸には仕方ないと声をかけて主を見送ってから屋敷の中に引っ込んでいく。
 『全く驚きのない刃生だ』
 「君の都合に付き合っていたら私たちの命が足りないってことだ」
 は何かについて自分も表へ連れて行け、という鶴丸に毎度毎度かけることばをかけてため息を吐く。
 大変美しい刀であることは認めるがその美しさゆえに狙われることも少なくない鶴丸だ。いつしか鬼女を切ったという話にも尾ひれがついて回って、気付けば魔を祓うとも言われるようになった鶴丸を狙った押し入りもすでに何度かあり、美しい物は人を狂わせるとは本当なのだとは思った。
 だがたとえ美しくなくても人の心が歪むのは、仕方のないことである。
 出自はどこかわからず、ろくな知識もないが維茂の傍にいることを妬む輩もいるにはいたが、そういう輩はないかと災難が続いていつしかに近付けば天罰が下るという馬鹿馬鹿しい噂話も流れた始末であった。それらのほとんどは鶴丸が引き起こしたものであったが、おかげで人の駆け引きに疎いが今の今まで維茂のところにいられるのだから、鶴丸の行いはそう攻められるべきものではないだろう。
 『妬むほうが悪いのさ』
 「何か?」
 『いいや。それにしても。君は女だろう、女房たちのような格好にすればもう少し男も寄ってくるだろうに』
 鶴丸がそんなことを言うとはげぇと吐くふりをしてから冗談じゃあないと言った。
 「男なんてあれだろうろくなことをしないじゃあないか」
 『その言葉遣いも改めたほうがいいぞ、あと維茂も俺も男だ。まぁ俺を単純に男というのはあれだが』
 「維茂様はいいんだ。私を拾ってくれたし、優しいし。お屋敷の男もまぁいいが、屋敷の外の男は知ったことではない」
 『俺はどうなんだ俺は』
 「鶴は知らん」
 ぷんと横を向いては厩の裏手にもぐりこんでしまった。
 は普段はこうして屋敷の下働きと共にさまざまな雑務の手伝いをしている。すでに裳着(女性の成人式、男性でいう元服)を終らせているため童装束ではないのだが、かといって女の着物を着ていてはとても仕事などやっていられぬとこうして狩衣姿であちらこちらの下働きに顔を出している始末である。本来ならば下働きではなく審神者という役を追っているのだ。下働きなどしなくても良い身分であるのに、は日替わりでどこかに首を突っ込んでは何がしか仕事はないかと口にする。
 審神者とは神道の祭祀において神託を受け神意を解釈して伝える者のことである。ここでいう神とは付喪神である鶴丸国永のことを示し、その言葉を受け意思を主である維茂に伝えるというのがに与えられたお役目であるのだ。そんなわけだから、実は結構な位であるのだが、野良育ちのは日がな一日座っていても退屈でしょうがないと言うし、結局維茂が折れてこうして雑用なら勝手にと許したのである。最初は狩衣を着るような方が、と色々といわれもしたがそのうち下働きの者もすっかり慣れてしまって、狩衣を汚れぬようにとあれやこれやと口出ししてくるまでになった。
 『君には文机は似合わんな』
 「だろうとも。字なんぞ書けん」
 『維茂に教わったらどうだ』
 「それで今の仕事をとられたら私は本当に腐ってしまう」
 『体がか?はっはっはそんなこともあるまいよ。なら君の脳みそは完全に腐ってるんじゃあないのか』
 「ええいいい加減静かにしてくれないか!」
 「なんでぇ、様、また鶴丸様が近くにいらっしゃるんで?」
 「ああ・・・・いや気にしないでくれ」
 からからと本来の厩の担当が笑いながら、虚空に向かって一人怒鳴りかけるに声をかけた。
 この屋敷でが審神者であることを知らないものはいない。それが刀の付喪神だと聞いても平安の人々はそう驚くことでもなかった。自分らに害がないのなら、そりゃあきっと良い神様だと皆見えもしない鶴丸のことを受け入れ、時々どころではなくしょっちゅう虚空に向かって話しかけるを邪険に扱うこともない。おかげでとしては助かっている部分もあるが、同時にしょっちゅう視界に飛び込んでくる鶴丸に飼葉桶の一つも投げつけてやりたくなるのが心情であった。
 「鶴!君はなんで私の邪魔をするんだ!」
 『邪魔なんぞしてないさ。何せ君、俺が目の前にいたって普通に通過できるだろう』
 「その白いのが気になる・・・・・」
 『あっはっはは、初めて会ったときは雪のようで美しいと評した癖に』
 「・・・・・雪のようにとは言ったが美しいとは・・・・」
 言ってない、とごにょごにょと口の中で呟いたはため息をついてから水を抱えて厩へと運んでいった。その後を楽しそうに鶴丸がついていく。
 その白い姿は相変わらず以外には見えなかったが、それでも月のない夜には、の後ろに白い男性を見たという話は相変わらずついて回った。しかしそれらの騒動もが一緒にいるならばそれは鶴丸国永だといわれるようになって、騒がれることもなくなり今では鶴丸の姿が見えないかとの後ろへ目を凝らす人間まで居るほどである。人間とは考え方一つでこうも行動が変わるんだから幸せなものだなぁと思いながら、は後ろをついてくる鶴丸に足元の馬糞を蹴っ飛ばした。
 『やめろやめろ、折角の白が汚れる』
 「汚れてしまえ」
 『折角汚れるなら赤がいい。そしたら鶴らしくなるだろう』
 「そういえば・・・・」
 ふっとが何かを思い出したように体を起こした。
 むわっと馬の臭いが最初は鼻につくものの、なれてしまえば差して気にならない。時々蹄を踏み鳴らして、勝手に狩衣に顔をこすり付けてくる馬の首筋を叩いてやると彼らは鶴丸の白が目にうるさいとばかりにいなないた。
 「鶴は人を切ったことがあるのか?」
 『なんだ、そんなことか』
 鶴丸は首をかしげて笑っていた。
 鶴丸の口調は軽かい、だがその目は全く笑っていなかったものだから、は思わず背筋を伸ばす。少し節目がちな瞳がきらきらと輝いているのだが、それはいつもよりも幾分剣呑な光を湛えているような気がしてならなかった。これは聞いては成らなかったか、と思って慌てて今のは忘れてくれ、といおうとしたところで先んじて鶴丸に唇を押さえられる。
 『あるさ』
 霊魂である鶴丸国永はに触れられないはずなのに、まるで触れられているかのように錯覚する。口を開けずにはじっと鶴丸を見返すと鶴丸はくっと喉の奥で笑った。
 『でなけりゃなんのための太刀だ?』
 その声音にぞっとしては目をそらした。これ以上鶴丸の目を見ていたらそのまま吸い込まれてしまいそうで恐ろしかったのだ。
 『欲はいくらでも出てくるな。君に触れられないのが、残念だ』
 それは要するに、と口にしようとしたところでは自分の名を呼ぶ雑用の声に気付いた。
 「___様ぁ!維茂様がお呼びです、様ぁ」
 「今、行くから」
 出来る限り大仰な動作で、鶴丸の手を振り払うようにすれば、鶴丸はまるで演じるかのように手を振り払われて見せた。それから先ほどのひどく暗い光を消して『なんだ君は相変わらず忙しいな』と笑うのである。その笑みに毒気を抜かれては「君が暇なだけさ」と返すと慌ててきびすを返して走っていった。
 『逃げられたか』