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No.21

SS

忘れること

第三回夢境ワンドロワンライ提出作品で、記憶の話です。

 大きな耳と大きなしっぽ、大きな翼を持った二人が教令院アムリタ学院に早期入学した時は大いに話題になった。
 教令院は入院試験も難しい。一定の点数で足きりがあり、最低点数を越えなければそもそも入院を認めてすらもらえない。さらにその試験の具合でクラスが割り振られるのだ。教令院ではまず最初にどの学院に入ろうとも限らずあらゆる学問の基礎を学ぶために学派混合で基礎科目の講義がある。これらは私たちの知る小学校や中学校に当たるだろう。教令院では基礎を初等教育、より専門性が高まる内容を中等教育、そして実際に研究を始め論文を書き始める高等教育、さらに上の専門教育に分けている。主に中等教育から学派で学ぶ内容が別れ始めるのだった。どの等級においても半年に一度の進級試験を合格しなければ上の等級へ上がることはできず、一定回数この進級試験に落ちると教令院を強制退院することになる。その一方で教令院の学問は幅広く門を開いているため、年をとってから初等教育課程に入ることも可能なのだ。逆に言えば試験にさえ合格できるのであれば文字をようやっと書ける年齢でも問題なく進級できる。それがティナリと蒼月だった。
 早期入学の上わずか二年で初等教育を終え中等教育へ、そしてあっという間に高等教育まで行った二人は玩具で遊び外で走り回る子供たちを尻目に卒業論文を書いている学生ですら難しい本にかじりついてその端から端までを暗記していたのだった。当然そんな二人が目立たないわけがなかったが、しかし人の噂も七十五日と言うように周りの学生たちも試験が近づけばあっという間に二人のことを忘れていった。

 アムリタ学院は生物学・医学を扱うだけあって他の学派と比べると少し泥臭いイメージがある。特に動植物関係は研究のために動植物を飼育するので糞の清掃や水やり雑草抜きといった環境を整える作業が非常に多くある。さらに研究に追われる学生は着替える余裕もないまま研究発表に挑むこともあり、結果としてなにか臭うなと言われることも多い。実のところ先週はとある学生が飼育していた大量のニオイムシが大繁殖からの大脱走を繰り広げ、学院の建物全体が猛烈な臭いに包まれ学生だけでなく教師も悲鳴を上げて逃げ出すほどであった。ニオイムシは周囲に大きく動くものが近づくと体を震わせてとてつもない臭いを発する性質がある。トイレから図書室から食堂までありとあらゆるところでニオイムシと遭遇し、ついにはアムリタ学院の学生の一部は嗅覚がおかしくなってビマリスタンに運び込まれるまでになった。とはいえこういった苦労・事件というのは学派ごとにあるものである種の名物でもありそしていつかは笑い話になる……とよいなと皆思っている。笑えない時もあるのだ、たまに。
 ともかくアムリタ学院の高等・専門教育はそのようにして思うようにならない動植物との戦いが研究発表の裏に隠されている。今は中等教育にいるティナリと蒼月も一週間後に控えた試験を合格すれば高等教育に進めることになっていた。これは長い歴史を持つ教令院の中でもフサフサニチリンヒトデの腕数で数えられるほどの数だ。__失敬。これは生論派のちょっとしたネタである。とはいえ完全にネタとも言えないのはテイワットは実に多種多様な種族に溢れているため手足の指の数を数えても必ず二十になるとは限らないためだ。あなたの手は十本指だが隣人がそうとも限らない時はあるだろう。そんな時にフサフサニチリンヒトデが登場するわけである。計十本の腕を持つため、旅人風になじみ深く言うならば十本指に入る珍しさということになるわけだ。話がまた逸れてしまったことを少し謝罪してティナリと蒼月の話に戻ろうと思う。
 二人はアムリタ学院の敷地内にあるガゼボで試験に向けた最後の追い込みをしていた。学院には様々な用途に分けた教室が用意されており、また自習室もある。それでもあえて広い庭の端の方にあるガゼボを二人が勉強場所に選ぶのはここが静かだからだ。自然に隣接しているため夜中まで勉強をしていると明かりに群がる大量の虫と戦う羽目になるが昼間であれば涼しく落ち着ける良い場所だ。学院内のガゼボはそのほとんどが勉強や議論に使われるためしっかりとした机と椅子が備え付けてある。ティナリと蒼月はその机いっぱいに教科書とノートを広げるとあっちをひっくり返しこっちをひっくり返し片端から頭の中に内容を叩き込んでいるところだ。しかし実のところ今回の試験は暗記が中心となっており、小論文の配点はそこまで高くない。そのため一番困っているのは暗記物が苦手な蒼月の方であった。
 ガゼボに居座ってもう三時間は経過しようとしている。ノートの上に書き連ねられた同じ単語とそれに付随する重要な意味は頭より先に手が覚えてしまったのではないだろうか。さすがに疲れてきたのか蒼月がごとん、と頭を机にぶつけるように落として「もういやだぁ」と呻いた。
「頑張って」
「ティナリは暗記が得意だからそんなこと言えるんだよ。私は苦手だもん」
 頭を机の上に乗せたまま蒼月が頬を膨らませると「でも僕は小論文がそこまで得意とは言えないからお互い様じゃないかな」と言う。
「嘘だ! ティナリの小論文は毎回講義で先生に読み上げられるぐらい出来がいいの知ってるんだから! ティナリはもうほとんど試験に合格してるようなものじゃない! 私はぎりぎりよ!」
 蒼月はそう叫んでそれから大きくため息をつく。
 夏の気配を孕んだ風が二人の間を通り抜けていった。試験は夏が本格化する直前に行われる。今はティナリと蒼月の二人だけでなく誰もがこうして呻きながら最後の追い込みをしているところだろう。
「なんで忘れちゃうんだろう」
「なんで忘れちゃうの?」
「わかんない」
 ティナリが不思議そうにたずねれば蒼月も不思議だと言わんばかりの口調で答える。
「私だってわかんないわ。でもニオイムシなんて五十八種類もいるのよ、そのうちのいくつかは最近見つかったばかりで分類も不明瞭だからあっちの学説をとれば八種類、こっちの学説をとれば十二種類、加えてなんでそんな違いが出てくるかが議題に上がるんだから全部覚えなきゃいけない……なぜ人間には骨があるの……こんなに……細かく……全部融合してしまえ……」
 蒼月の頭の中は覚えるべきありとあらゆる項目でいっぱいのようだった。
「全部融合したらこうしてペンを持つこともできないじゃない。植物だってもっと柔軟だよ」
「わかってる! わかってるわ覚えないと始まらないことは! 特に私たちの専攻はね、覚えないと学術会議に出ても話がさっぱりになっちゃうもの。でもやっぱり覚えるのは苦手」
 蒼月は決して頭が悪いわけではなかった。応用力が高く一度覚えるとそこからさまざまな話を広げていくことができる。また全く違う分野であっても自身の分野との比較で普通とは違う話を広げていくこともできるために蒼月と話をするのは面白い。もしこれで彼女が暗記が得意であったならば彼女の脳は実に不思議な世界を描くことがさらに容易になったかもしれない。でも蒼月は暗記が苦手だった。
「誰にでも特異なことと苦手なことがあるよ。ユエが忘れることはきっと意味があることなのかもしれない。ねぇ面白いと思わない? 僕とユエはほとんど同じ環境で育って同じようにアムリタ学院に入ったのにこんなにも違いがあるんだ。一人一人全員が違ってだからこそ出てくる結論が面白いことになるんだろう? 試験に合格するにはやっぱり暗記しないといけないことも多いけど、でもユエの頭と視野はきっと次の研究で役に立つよ」
 ティナリは広げた本をぱたりと閉じた。
「……もう覚えたの?」
「うん。少し頭の中を整理したい」
「本当になんで私はこんなに忘れちゃうんだろう……全部忘れなければ楽なのに」
「そうかな」
 ティナリは雑紙を広げた。ノートのようにきちんとまとまりのあるものより今は読んだばかりの本の内容について自分の考えをあちらこちらに適当に書き出してつなげていきたいのだ。真っ白でなくてもいい。汚れていてもいい。ただそこに書く場所があればそれで十分だった。ティナリはそこに適当に文字を書いては丸をして、時々文字と文字を線で繋げながらゆっくりと話す。
「忘れることはきっと大切なことなんだ」
「……私がお父さんとお母さんのことを覚えてないみたいに?」
「うん」
 蒼月はティナリと本当の兄妹ではない。蒼月は璃月からスメールへ渡航中に船が水元素生物に襲われた際の唯一の生存者だった。オルモス港で救助された蒼月は一緒に船に乗っていた父のことも母のこともそして自分のことも全て忘れていたのだ。自分がなぜ神の目を握っているのかもわからなかった。その後に渡る調査で蒼月の本当の名前や両親のこともわかってはきたが、しかし蒼月はそれらの情報はただの紙の上の文字列にしかすぎなかった。蒼月はあの当時のことを思い出すことができないままでいる。
「覚えていたらきっと蒼月は壊れちゃうかもしれない。忘れることは僕たちの頭が一番最初に知っている僕たちを守るための大切なことなのかもしれないよ」
 船で何が起こったのかは誰もわからないが推測はできる。蒼月は背中に大きな青い翼があるがその片方がちぎり取られたようになくなっている。しかしそのちぎられた痕跡を見るとどうやら半ばまで刃物を入れてそこからちぎられた様なのだ。
 とある学者の推測はこうだった。蒼月は襲われた際に翼を掴まれた。父と母のどちらかが翼をナイフで切り落とそうとした。全部を切り落とす前に父かもしくは母は死んでしまったが、ナイフによる切込みがあったために蒼月は翼を引っ張られた際に翼が体重を支え切れずに千切れてしまったのだ。学者は最後にこう言った。
「きっと彼女は目の前で両親が死ぬのを見ていたのだ」
 幼い子供にとっては両親というものが子供を取り巻く環境の全てである。子供は成長と共に環境を広げ、いつしか親元を離れていくが少なくとも三歳の蒼月にとって世界は父と母の顔だけでできていたはずだった。その二人が無惨に死んでいくのをいつまでも覚えていることは果たして幸せなことなのか、もしかすると両親の顔を覚えていることが幸せなのかもしれない。しかし蒼月の脳はそれを選ばなかった。忘れることで蒼月を過去と恐怖から切り離し、蒼月の心はたくさんの幸せに満ちている。
「一緒に試験に合格して卒業しようよ、ユエ。そしたら僕はレンジャーになる。僕は、教令院で教師になるのは向いていないと思うし」
「……私もレンジャーになる……」
「じゃああと少し頑張ろう」
「うん……」
 蒼月は机の上に転がしたペンを拾って大きくため息をつくと顔を上げる。広げた教科書を睨んで乱雑な字の並ぶ紙にもう一度文字を書き始めた。畳む


2022/9/8 執筆
#ティナリ #蒼月 #賢者は翠海に揺蕩う

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