ゆるゆると意識が覚醒して、真っ暗だった夢の世界から、カーテン越しの朝日の中に戻ってきた。すでに子供の声は遠かったから、始業間近なのであろう。ベッドサイドテーブルの上の時計の短針が8をほんの少し超えていることを確認しながら、掛け布団を引き剥がして一思いに体を起こした。
待ちに待ったこの日が来た。じりりりとうるさく呼びかける電話を無視して、
キーラは母譲りの白銀の髪を一つに縛りなおすと、それからようやっと受話器を持ち上げスピーカーをオンにしたのだった。
『・・・・・・』
「なによ」
『・・・・・今宵が最後だ』
「知ってるわ。それだけいいに来たっていうの」
『昨晩のうちに残っていた三騎のサーヴァントのうち二騎が召還された。これによりお前の持つサーヴァントは確定した』
「それを教えてくれないの?」
キーラはほんの少し皮肉を込めて此度の聖杯戦争の監督役に言葉をかけるも当然それに返答はなかった。一介の魔術師であるならばこの聖杯戦争における情報収集もこなして見せろということなのであろう。ただ繰り返し、サーヴァントの召還を行うようにとの連絡をだけを寄越す監督役にはいい加減飽き飽きしていたし、このところ心労でか幾分しゃがれた彼の声を聞くのもうんざりであった。
「間に合わせるから問題ない。それじゃあね」
相手方の返事も聞かずに
キーラは受話器を元に戻す。ダイヤル式の電話は随分と古かったが、格式にこだわるという意味では歴史と確かな存在感を秘めて賃貸の一軒家の廊下にすえられていた。悲しきかな、家の真新しい壁紙は
キーラが自らの故郷より持ち込んだ様々な家具とはあまり調和しなかったが、それでもこの数ヶ月を使って徐々に魔術師の工房へと換えられていったのだから何の問題もない。
一家心中があったのだとか、それで安く売り出されていた家を買い取った
キーラは日本の法律に抵触しない程度に色々と中を作り変え、ついには地下室まで工房の一つとして作り出したわけだが、ここはあまりいい空間ではなかった。砂漠地帯と違って湿気の多い日本の地下はひんやりを通り越してどうもじめじめとしている。しかしながら他に場所があるわけでもなし、天井裏は低くて腰が痛くなるし、庭は顔を上げるとすぐ隣の老夫婦と顔が合うのでとてもじゃないが召還の魔方陣など描けたものではない。
日が真上に昇る頃までに、じっくりと時間をかけて
キーラが描いた円はほぼ真円で、線の上にはさらに細かい文字が描かれていた。
サーヴァント召還の陣は、魔術師によって異なるがこれほどまでに細やかにサーヴァントとの繋がりを深くするための術式もあるまい。だがそれほどまでに
キーラはこの手にと切望するサーヴァントがいたのだった。準備は万全にまで整った。あとは祖国の夜明けを待って召還を行えばいい。その時刻にはすでに聖杯戦争は始まっているのだから、多少のリスクは伴ったが、それでもそうするだけの価値が
キーラにはあるのだ。
首からぶら下げた、さび付いた鉄の塊は、触媒の矢じり。ペルシャ神話の中で、ただ一条の矢を放つことで戦争を終結させた紛うことなき大英雄・アーラシュの遺物である。彼の放った矢は2500kmもの距離を飛び、そして領土を分け戦争を終結させた。言い伝えではその矢のやじりこそが今
キーラが手にしているものであるはずだった。もしやすると偽者なのかもしれないが、それでもそうであると口伝えに伝えられてきたというそれだけで確かな力が宿る。これは必ずや
キーラの求める英霊の召還に役に立つだろうと、彼女は確信していたしそしてそのためにありとあらゆる準備を行ってきた。英霊召還にあたって、出来る限り召還できる対象を限るための下準備は、完全なものであった。過去の文献よりかつての英雄が死んだ日と時刻を割り出し、今日この日、と選んだ日取りは、幸いと言おうか災いと言おうか、聖杯戦争が始まってすでに4時間が経過した頃であった。その間、サーヴァントを所持せず戦争の最中にいることはマスターとして大変危険な行為であったが、それでも
キーラにとって召還するサーヴァントを選ぶことが重要だったのである。サーヴァント召還までの間、生き残れるよう対策は幾重にも練ってある。最悪の場合には多少のリスクを犯してでもサーヴァントの召還を行うかもしれないが、できるならばそれはしたくなかった。
自分では見えない背中に浮かび上がった令呪を思いながら、
キーラは深く息をつくと、最後の最後の確認のために一人で住まうにはあまりにも広い一軒家をもう一度ぐるりと巡るのだった。
直に夜明けがやってくる。しんと静まり返った冬木の地はついに始まった聖杯戦争による魔力の変動を受けながらも、未だ大きな変容を見せることはなかった。だがそれもわずかな間であろう。
初手、斥候を騙すために作り上げた外形のみを取り繕った仮初のサーヴァントはすでにアサシンによって見破られ、幾重にも張られた結界が破られようとしているのを
キーラは小さな家の地下で感じ取っていた。目を瞑れば次から次へとほころびが広がっていく、結界が手に取るようにわかる。すでに、他のマスターにも未だ
キーラがサーヴァントを召還していないことは伝わっているのだろう。早くにこの冬木の地に入り、設置した魔力の変化を伝える触媒がひっきりなしに震えて、膨大な魔力の塊が
キーラの工房に迫っていることを伝えていた。数は、2。すでに踏み込んできているアサシンの他どのクラスのサーヴァントが向かってきているのかはわからないが、おそらくは偵察だろう。
あと三分。
もとより
キーラは魔術師としては格下であり、この聖杯戦争においてその階梯は第七位、つまり七人いるマスターのうち最低のランクに当たる。それでも長い時間かけて準備をした結界は、相手を惑わせる術式と共に複雑に作用して、容易にアサシンをこの工房へ侵入させることを防いでくれているようだった。だがそう長くはもたないだろう。それに今ここへ訪れた相手がアサシンでなければ、そう例えばランサーやセイバーであればその重すぎる一撃で持ってこのような結界は破られていたに違いなかった。ある意味アサシンであって幸運と言うべきか。
あと二分。
キーラは工房の床一面に書かれた召還の術式を前に、触媒を握り、正面を向く。
最後の結界が破られたのがわかった。アサシンが
キーラを探している。最後のごまかしにかかったようだった。仮初の自分が屋根裏にいるのだ。
「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 祖には我が神代の王マヌーチェフル。
降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
屋上にて自分の空っぽの抜け殻が崩壊すると同時にアサシンが地下の工房を感知した。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する」
だがこれよりアサシンがここへ足を向けようとももう間に合わないだろう。すでに六騎のサーヴァントは召還された。そして今ここに最後のサーヴァントが召還される。
「――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!!
誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、 我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
地下工房に続く戸が破壊される。衝撃と共に湧き上がった白煙が視界を覆い隠し
キーラは一瞬何も見えなくなった。するりと頬を撫でた冷たいものが、此度召還されたアサシンの刃であることを感じたが、恐怖はなかった。すでに矢は向けられている。弦が爪弾かれ、高速の矢が、
キーラの耳を掠めて、彼女の耳元で風が唸った。
「___お前を俺の主として認めよう__アーチャーの名に賭け、誓いを受ける!」
低く、それでいて明朗な声が耳に届いた。視界は未だ晴れないが、ふいに腰に手が回されぐいと引き寄せられる。
ちょうどその場を掠めるようにアサシンの刃が掠めて、
キーラの髪を縛っていた髪が解けた。一瞬、白煙の向うに褐色の肌の男性を見たが、すぐに煙の向うに隠れてしまい、それと同時に動き出した体に
キーラは思わず目を瞑る。
轟音はすぐ耳元で聞こえて、腰を支える腕にすがり付けば、より近くになるよう腕に力が籠められた。
少しばかりの湿気が篭った工房から出た瞬間の朝の空気は、どこまでも透き通っていて清清しい。冷たい冬の朝の空気が頬を切って、瞑った瞼を通して朝の光が冬木の地を照らしている。
目を開ければ、そこには精悍な横顔があった。それはかつて幼い
キーラが幾度もせがみ、幾度も耳にした手織り絨毯に刻まれた物語に登場する男性とそっくりそのままであった。
「・・・・・アーラシュ」
ぽつりと名を呟くと、男性はほんの少し驚いたようにちらりと
キーラの方を見たが、後ろより迫るアサシンの気配を受けて、即座に視線を正面に戻すと、高く跳躍する。アサシンを除いた二つの魔力の塊は、アーチャーの召還により一度足を止めたようで、ある程度の距離を保ったまま動く気配がない。おそらくは、追ってはこないだろう。今問題となるのは、すぐ背後に迫るアサシンのみだ。
「一端降ろすぞ」
高いビルの一番上に着地と同時にぱっと腰に回されていた手が離れる。足が追いつかずに地面に膝をつく羽目になったが、その瞬間頭上を掠めた投擲武器が脳天にささるよりましであった。振り返れば、先ほどまで
キーラを支えていた手に真っ赤な大弓が握られ、そしてそれを
キーラが認識したときにはすでに数十の矢が放たれた後だったのである。
「ダミーが多いな。マスター、幾分進路を阻むなりできるか。俺の矢はここで放つには少しばかり被害がでかすぎる。できるなら進路を一方に絞りたい」
アーチャーの言葉に駆け寄った
キーラは、すぐにいくつものアサシンの影がビルを取り囲んでいるのを察知した。だがそれらはアーチャーが言うとおりただの影でしかない。複製か、あるいはもしかするとアレ一つ一つがアサシンに匹敵する実力を持っているのかもしれないが、なんにせよ数が多く散っているせいで厄介な相手だった。今でこそアーチャーの広範囲射撃を恐れてある程度の距離をとっているが、この膠着状態を解くためには何らかの策が必要なことは確かだった。アーチャーの言うとおり
キーラとて始まったばかりの聖杯戦争、アーチャーの手の内をアサシンとそれからもう二つ、こちらを監視するサーヴァントに見せたいわけではない。息を、一つ吸って覚悟を決めた。
「・・・・不可能じゃないわ。___私は、貴方を信頼する」
アーチャーが止める間もなく、
キーラは地面を蹴った。魔力による保護も強化も何もなく、この高さから飛び降りるのはそれなりの勇気が行ったが、必ずアーチャーが助けてくれるという確信を胸の奥底に抱えて、
キーラはその身をビルから投げ出したのである。
アーチャーが息を呑むのと同時に何事か叫ぶ声が聞こえたが、落下による風の唸りで彼の焦った顔を見ることしか出来なかった。アーチャーに手を伸ばすことなく、じっと彼を見つめる。
キーラの思惑通り、ただ一人ビルから飛び出したアーチャーのマスターにアサシンは一瞬動揺し、それから確かに攻撃を仕掛けるため飛び出したのだった。アーチャーの矢よりも速い自負があったのか、それとも全て使い捨ての影であるから、出来る限りのことをせんと考えたのかアサシンの真意はわからない。だがほんの一呼吸のうちに数十の矢の雨を降らせるアーチャーの腕は、圧倒的かつ正確であり
キーラを目指して動いたアサシンの影を全て打ち落とすには十分であった。
キーラの身がビルの高さの半分を落ちるよりも早く、アサシンの影はアーチャーの矢に射抜かれた。そして再び腰に回された手に支えられ、
キーラの身は再びバランスを取り戻した。
「お前は__!!」
移動の中、今度はかけられた声に驚いて顔を上げると、言葉に詰まったらしいアーラシュの顔がほんの少し歪む。馬鹿なのか、と叫ぼうと思ったのか、それとも別の言葉かはわからないが、アーラシュは言葉を飲み込み一瞬目を瞑ると「どこか落ち着ける場所はあるか」とつとめて落ち着いた声を発するのだった。
南に、とこのときのために用意していたもう一つの工房を伝えれば、アーラシュは周囲の別のサーヴァントの気配を気にかけながらも、追うことをやめたアサシンとの距離を空けて
キーラの指差すその場所へと足を向けたのだった。
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2015.09.12