警備も何もかも手薄になるとき、と言えばやはり夜だろうか。観覧室に客がいなくなり、電気も消えれば美術館はまるで別世界のようだ。もとより隔絶された世界である美術館は夜、人がいなくなるとその独特の世界観がより研ぎ澄まされるようだった。
空間に響く足音は警備員のもの。
マチは天井からぶら下がったまま、くいっ、と指を動かした。それだけで警備員は不可思議な(少なくとも警備員にはそう思える)力によって首吊り状態になり声も出せぬままに絶命する。
警備員の腰の無線機に向かってこちら、異常なしと無駄とも思える行為。それもそのはず、すでにこの時間にはシャルナークが監視室を制圧しているはずなのだ。了解、と返ってきたのは恐らくブラックボイスによって操られているのだろう。
ひた、ひた、ひたと歩くたびに静かな足音が響く。ここから先はあまり隠すつもりはなかった。周囲に一般人の警備員はすでになく、残るはシャルナークにして厄介と言わしめた、イヴァンだけである。


「やぁマチ。こんなところで奇遇だね」

「私は何回か連絡入れたんだけどね」


今日の襲撃の前に、と付け足すと、ごめんと笑う。
イヴァンは美術館のロゴの入った制帽のツバを押さえ被りなおして、改めてマチに向き直る。


「さて、俺の当直の時に幻影旅団とは運がないな、全く・・・・それともシャルとクロロはこの日をあえて狙ったのかな?」


一瞬イヴァンの目が鋭く光って、その目の奥にマチは流星街出身の自分達と同じ危うさを見た。狂気ともいえる。
聞くべきところは数多くある。彼は昔からシャルナークとクロロを知っている口ぶりで、その関係は果たして何なのだろうか。そしてマチが幻影旅団であるということは一言も口に出していないのにも関わらず知っているのは何故か。クロロとイヴァンはなぜ戦うことになったのか。最後の疑問はここでイヴァンと会って確信に近い物になった。イヴァンがあの傷を負ったとき戦っていたのはクロロであり、クロロが戦っていたのはイヴァンだ。所詮勘であろうが、それでもイヴァンの目を見たとき、それが真実なのだろうと思った。
だが聞く時間はない。イヴァンの白い手袋に握られた試験官の中はぼこぼこと不吉な色の液体が泡立っている。


「 狂科学者の実験 ( ラボラトリー ) 、って言うんだ。俺のオーラはどんな原子にだって変化し化学変化を起こす。本当はクロロに硫酸ぶちまけて殺してやろうと思ったんだけど失ぱッ・・・ッ!」

「おしゃべりがすぎるんじゃないかい?」


イヴァンの表情が一瞬歪んで、手が首に伸びる。だが細く強くイヴァンの首に巻きついた。気道が狭まり息が詰まる・・・はずだったのだ。


残念


と彼の口が言った。呼気がないため言葉こそ聞こえてこないが、彼の表情は酸欠で苦しむこともなく、ただ食い込んだ念糸の痛みで顔を歪めるだけのようだ。


俺のオーラは原子に変化する。OにもHにも、組み合わせは自由。


イヴァンは指を自分の肺のある部分に当てる。


体内でも合成可能だ。


つまり彼は肺の中で二酸化炭素を分解し酸素を合成したということである。余計なものは他の物質に変えて体外に排出も出来る。そして通常なら首くらい簡単にねじ切るマチの念糸も、首周りのイヴァンのオーラのガードに邪魔されてそれ以上細く締めることが出来ないのだ。
マチが軽く指を動かすと念糸が解ける。その瞬間一気に肺に入って来た空気にイヴァンはむせた。
イヴァンの念、 狂科学者の実験 ( ラボラトリー ) はin vivoとin vitroの二種類に分けられる。つまり体外と体内の両方で自分のオーラを変化させられるということだ。体内in vivoにおける制限はほとんどないが、体外in vitroにおいては試験管、三角フラスコ他ある一定大きさの密閉された空間でなければ合成はできない。また原子・分子の組み合わせが複雑な大きな物質になればなるほど合成には当然時間もかかる。この点がイヴァンの弱点でもあったが、それでもこの能力は自然科学に特化した彼にとっては随分と使い勝手のいいものであることは間違いなかった。
マチの足元に投げつけられた試験管は割れると同時に水素爆発を起こして、試験管の破片を遠くまで飛び散らせた。鋭い破片は避け切れなかったマチの足に裂傷を作る。


「そんなにべらべらしゃべって、後悔したって知らない」


強がりのようにそんなことを口にしたが、現状だけ見れば追い詰められているのは完全にマチの方だ。念糸が通用しない相手とは厄介だ。最初から奇襲を仕掛けてさっさと仕留めてしまえばよかった、と思うも後の祭りである。
立ち上がろうとしたとき、マチは一瞬視界が霞んでそのまま床に膝を着いた。


「!?」

「・・・今のヤツは一瞬で勝負がつくと思ったんだけどな」


イヴァンは余裕の表情で手元の試験管を揺すっていた。試験管は一瞬紫色に変色したと思ったが、その次には透明に変化していて、ほとんど水と変わらない。


「さっきの試験管の中身は水素だけど、試験管の内側表面にはたっぷり毒が塗ってあったから」


にっこり笑ったイヴァンの顔をマチが認識できたのはそこまでだった。











2013/04/30 →

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