馬鹿みたいな話だとは分かっている。
長年の自分の思いがかなわないことも、たとえ億分の一の確率で叶ったところで彼と自分が思っているような関係になりえないことも全部分かっている。それでも、たとえ現状を頭がどんなに理解したところで、どこか諦めきれないような何かが心の奥底でくすぶっているのだ。


「わかってるさ」


ネオンの光がちらちらと視界だけじゃなく心の中まで煩く照らし出している。
小さく呟いてみたがまだどこか納得のいかない何かが涙となって両の目から零れ落ちた。
マチの中に、子供の頃よりあったどうしようもない思いは結局当人に吐き出されることもなく終わった。自分で見切りをつけた。
繁華街はとにかく男と女の声が騒がしい。そんな中たった一人、沈んだ表情をしたマチはやけに目立って当然声をかけてくる男もいた。殺気もなく、本当にナンパ目的のその男に乗ってやってもよかったが、今はそれすらも気分ではなくマチは念糸で男の足を縛り上げて地面に引きずり倒した。ものの数秒の出来事だ。地面にしたたかに頭をぶつけた男は最早何が起こっているのかすらもわからなかっただろう。
物好きな、とマチは思いながらその男の脇を通り抜ける。いつも頭の高いところで結んでいる髪を下ろして、フィンクスと似たようなジャージとジーパンでふらふらと歩くマチに色気というものは感じられない。だがその整った容姿と、ジャージの上からでも分かるバランスのいい肢体に上物だと男共は感じたのかもしれない。近寄ってきた二人の男のズボン同士を縫い付けてやれば、前に出ようとしたタイミングで勝手に転んだ。
マチはその男にも目をくれずに歩き続けた。
目的地があるわけではない。ただ、なんとなくその場にいることすらも落ち着かなくて、動いていないとどうしようもない考えに頭が囚われそうで、必死で何かすべきことを探して視界を動かし続けているのだ。
一件のバーが目に留まった。本当はこんな格好で入るべきところではないのだろう、それなりにお高い様相だが、金を渡してしまえば何も言われなくなる。彼女には少々高すぎる椅子に座って足をぶらぶらさせながら、マチは顔にかかる前髪をよけることもしないで、棚に並ぶ酒をじっと見つめる。すぐにただ酒のラベルを見るということすらも落ち着かなくなって、マチはそれからゆっくりと周りを見回した。
静かな店内の天井ではほんの少し軋みながら天井扇がぐるぐると回って店内の空気をかき混ぜている。端っこのオーディオから流れる音楽は人の心を落ち着かせるようで、マチの心には酷く突き刺さって聞こえた。
隣のカップルが恨めしい。男と付き合っていることが、ではない。あの人とそういう関係になれなかったことが、だ。そこまで思ったらまた胸がチクリと痛んだ。
それ以上店内で幸せそうに声を潜めて話をする男女の姿を見ていられなくて、マチはふいと目をそらした。目をそらした先で、男と目が合った。
まるでマチと目が合うのを待っていたかのようなタイミングで男はにこりと笑う。人好きのする笑みだ。


「隣失礼」


だがその口調ははっきりとしていて、ナンパ男のそれではなかった。甘く優しく女に声をかける、というよりはもっと他人行儀なところから礼儀を重んじているような口調だ。
髪の短いその男は二席ほど空いていた二人の距離を詰めて、マチの隣に座る。マチは特に否定する理由もなかったから度数の強い酒を片手に正面を向く。


「何か用」


つっけんどんなマチの物言いにはやけに殺気が込められていて、一般人だったらそれだけで怯んでどこかへ言ってしまうだろう。今は誰かとはなしたいようではなしたくない。一緒にいる相手は誰でも言い訳ではなかった。


「何も。ただなんとなく、俺が一人で寂しくって誰かと一緒に居たかったっていうこと。片思いが破れた後の一人は辛い」


そう言って男は笑った。暗いバーの中で男の顔の細部まで表情は読み取れないが、なんとなくマチと同じ雰囲気を感じ取ったのだろうと思う。
なるほど、彼も女に振られた口か。
そう思うとなんとなく共通するものが出てきて男に付き合う気になった。
飲む?と自分の目の前にある酒瓶を男の方に押すと、男は律儀にありがとうと言ってから瓶を傾けて中身を自分のグラスに注ぐ。泡が立って、ぷちぷちとはじけていった。
一般人ではないことはオーラの安定した様子から分かるし、先ほどの殺気に動じないところから見てもそれなりに裏世界に足を踏み入れている様子でもある。油断は禁物だが、男は笑って酒を飲んでいた。時々沈んだような色の瞳に敵意はない。


「名前は?」

「イヴァン。それだけ」


マチが覚えているのはそこまでだ。





















マチが目を覚ましたのはちょうどそこまでの記憶がゆるゆると浮上してきたときだった。覚醒しつつある頭は勝手に昨日の思い出を再生して、胸がまたちくりと痛む。だが、そこで途切れた記憶にマチはぱっと目を覚ます。
周囲に人がいればついいつのも癖で目が覚めるのだが、今日は妙なことに随分と平気で眠りこけていたようだ。誰の物とも知れないベッドの上で、時計の針はいつの間にか正午を越えようとしている。
ここはどこだろうと思った。一瞬記憶のないままにホテルにでもチェックインしたのかと思ったが、その部屋はやけに生活感に溢れていて、とてもホテルのあの無機質な感じではない。窓際の鉢植えの植物に触ると、肉厚な葉はマチの指を押し返す。
一つ隣の部屋から誰かが動いている音が聞こえてくる。自分はなぜこんなところで眠りこけているのだろう。こんな、人が近くにいるところで。だがその疑問に反してマチの頭はこの現状を受け入れていた。シーツから香る誰か別の人間の匂いが、嫌なものではないと勝手に頭が判断している。


「起きた?頭痛くない?」


ひょっこりと戸口から顔を覗かせた男が笑った。


「・・・痛い」


名前は・・・・そう、イヴァンだ。素直に現状を伝えるとイヴァンはすぐに水を用意してくれた。それをそのまま飲み干して、それからふとマチは自分の格好を見てさっと青ざめる。昨日、着ていたジャージではない。


「ああ・・・いや、別に何もしてないから」


大丈夫だと、イヴァンは言ってマチのもと着ていた服をベッドの上に置いた。


「昨日、俺の部屋に着て寝にくいって勝手に着替えたのはマチだから。俺何も見てないし大丈夫」


その大丈夫、というのはマチに気遣っての言葉なのだろう。だがその辺りに無頓着なマチは、あっそ、と言って何もなかったならいいやともぞもぞと自分の服に着替え始める。イヴァンは肩を竦めて後ろを向くとそのまま部屋を出て行った。カツ、カツ、カツ、と奇妙な音がしてイヴァンの足元を見ると彼の左足は義足だった。










着替えが終わってさして何もない荷物を持ってマチは部屋を出る。そしてそのまま適当に当たりをつけて玄関に向かうと、特に家主に挨拶するでもなく家を出て行こうとした。靴をつま先に突っかけたとき、イヴァンが玄関口を覗き込んでなぁ、と声をかけてくるので少しだけ動きを止める。


「おなか減ってるなら、ご飯」


フライパンを見せると中には綺麗な卵焼きが乗っている。それを見てぐぅとお腹が鳴って、それが無性に恥ずかしかった。


「今日は特に用事もないんだろ?だったら折角だし食べていきなよ。朝ごはんと思って用意したけど冷めたから温めなおしたし」


朝から酒・・・はやめとくか、とイヴァンは笑って冷蔵庫から冷えたココアを取り出した。冷たいままでいいか、と聞くのでそれでいいと答える。ココアはほんの少し苦いくらいで、昨日の酒でやけに舌が甘ったるかったマチにはちょうどよかった。
狭いテーブルを挟んで向かい合って座る。揃っていない食器とフォークにスプーン、それから部屋の様子を見る限り長いこと一人暮らしをしているのだろう。職業は、なんだろうか、とマチは思いながら適当に部屋の中を探る。とはいえそれは不躾な視線ではなくごくごく自然な視線配りで、イヴァンすらもマチが部屋の様子を観察していることに気付いていない様子だった。
本は色んなジャンルが重なるように机の上にあって、職業判定の材料にならない。机の上はほぼ本だけ。精々部屋の中で気になるのはやけに緑が多いことだろうか。だがそれで園芸関係の職、と言うには少々決定打に欠けていた。


「ん?」


イヴァンが顔を上げて、どうした、と言う。


「別に。あんたが何してるんだろうと思って」

「俺?ああ、うん俺は薬屋さんだよ」


何してる、とは直近の行動を指して言っているわけではないとイヴァンも知っているのだろう。隠すこともなくそう言い切ってそれからズボンのポケットから財布を取り出した。


「これ」


そういって差し出したのはとある製薬会社の名刺だ。薄っぺらいそれに書かれた名前と、その上の肩書きはあまり大層なものではない。さして才能がないのか、それともこれは表の世界の顔なのか。相変わらずぶれることのないオーラを見ながらマチは名刺を机の上において「ごちそうさま」と言った。立ち上がって再び玄関に向かう。「帰るの?」という声が後ろから追ってきたけれどもマチはそれに答える義理もなく、今度こそ靴をしっかりと履きなおして玄関の取っ手に手をかける。


「名刺あげたのに」

「連絡先はまた会うことがあったらね」


イヴァンの渡した名刺の意味はつまりまた連絡が欲しいということなのだろう。裏にはさり気無く自分の携帯のアドレスが書き込まれていた。マチは名刺を裏返さなくてもそれを名刺のかすかな凹凸から知ってたからあえて置いて返ってきたのだ。一晩泊めてもらったぐらいでわざわざ連絡を取り合うような仲になるつもりはない。もしも、もう一度どこかで顔を会わせる機会があったら連絡先ぐらい教えてもいいかな、と思ったが今のマチにとってはその程度のことだ。
ピンク色の髪が揺れて、がちゃりと扉が閉まる。
イヴァンは目の前から消えてしまったマチの姿に頭をかいて、少しだけ悔しそうに口をすぼめた。


「なんだよ、ようやっと見つけたのに、俺のこと覚えてないのか」


ま、当然かな、と続けてイヴァンは自分の義足である左足を軽く手で叩いた。










2013/04/30 →

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