太公望が着替え終わって秋穂の部屋に戻ってくると秋穂は使い終わった茶器をあらかた片付け終わったところであった。茶器から丁寧に水をふき取って戸棚にしまう。カルデアの部屋はシンプルでほとんど何もない。秋穂も最近まではあまり元気がなく部屋に色々と物を置くことはしていなかった。秋穂がこのように自分の部屋や自分のことを顧みるようになったのは太公望を召喚してからだ。そのことを考えるとなんとも誇らしいような気持ちになる。
太公望は普段のチャイナ服と漢服の間のような衣装ではなくカルデアの職員にあつらえられた白い衣服であった。男性は緑、女性は橙の色が刻まれているが実のところこの色は選択することが出来る。自分の性を選びたければ自由に選べた。スカート仕様とズボン仕様も同じだ。太公望は心身共に男性であると自覚しているので緑色でズボンを纏っている。一般職員とは区別するように緑の割合が多いのは所長やドクター・ロマンのように少し特別な立ち位置にいる職員であることを示していた。寝起きには少し乱れていた黒い髪は丁寧に櫛で梳いており、女性が羨むような美しく流れる黒髪が部屋の空気をかき混ぜている空調に揺れている。しっぽのように長く伸ばした後ろの髪はきれいに三つ編みにされていた。
秋穂もその間に着替えている。カルデアに来たばかりの頃は制服ばかり着ていた秋穂であったが、今は色々な服装であった。正規のカルデア職員ではないので職員用の服ではない。どちらかと言えばダ・ヴィンチのようにフリーのカルデア所属といったところなので衣服に制限がない。ダ・ヴィンチが気を利かせているのかはたまたダ・ヴィンチの趣味なのか秋穂はアオザイのようなチャイナ服のような少し特殊なデザインの服を着ることが多かった。どうもダ・ヴィンチ自身がデザインしているらしい。万能の天才と本人が自負するがなるほど衣服のセンスまでよいとなるとその言葉はただの戯言にはならないようだ。
「これ」
秋穂が太公望に渡したのはサンプルの香水であり実にシンプルなアトマイザーであった。透明なボディの中には水のように形を変えていく流体が入っており少しだけ黄色味を感じる。ポンプ部分には蓋がついておりそれを外すとシトラスの良い香りがふわりと漂った。ボディにはトップ・ミドル・ラストそれぞれ何が入っているのかが記載されたシンプルなシールが張り付けられている。販売するものではなくあくまでサンプルであるのでポンプ部分もそこまで高級ではないがそれでもしっかりとした作りであることがわかる。
「それでは」
太公望はそう言いながら右手にアトマイザーを持って左手で秋穂の右手を握った。秋穂は何をするのか不思議そうな顔をしている。
太公望は自分の顔より少し高いぐらいの位置でポンプを何度かプッシュする。霧状に噴き出した香水は、もしはっきりと目に見えるのであれば雪のようにはらはらと落ちていくことだろう。まるで霧のように香水のアーチができると太公望は秋穂の手を引いてその香水のアーチの中をくぐる。香りは二人の体にまんべんなく降りかかり、お互いに近づくとシトラスの香りがかすかに漂う。
秋穂はふふっと笑った。
「こんな方法どこで知ったの?」
「さぁ忘れてしまいました」
「嘘ね、太公望が忘れるわけないもの!」
「それは買いかぶりすぎだなぁ」
太公望も笑ってもう何度かプッシュすれば、シンプルな白いだけの部屋が鮮やかな柑橘系の様々な果物に包まれているような錯覚さえ覚えるほどであった。
「それでは仕事に行きましょうか。帰ってくるまでには空調が全部香りを吸い取ってしまうかもしれませんが……」
「とっても素敵だった。いつか香水を選びに行ってみたいな」
カルデアが南極にあり、秋穂がカルデアに保護されている状態が続く以上それは難しいだろう。しかしいつか、と言葉を濁して二人は部屋を出る。秋穂はダ・ヴィンチのところへ、太公望はその日割り当てられた場所へ各々別れていくのだった。
* * *
さてその日の秋穂に声をかける職員はなかなか多かった。男女問わず香水を好んでつける職員も多いらしく、秋穂にはその香りが似合うねと声をかけたりはたまたもっと似合う香りを知っているよと声をかけたりさまざまだ。太公望はそのことに気付いていたがあえて泳がしていた。声をかけてきた人たちはあくまで公共の場での会話に留めている。部屋まで誘う者は今のところはいない。そう、今のところは。
昼が終わりそろそろ昼当番の仕事が終わろうとする頃、その男は秋穂に声をかけた。
ダ・ヴィンチに書庫まで持っていくよう頼まれた段ボールを抱えた秋穂は廊下を歩いていた。そこへ向かいから来た風を装って秋穂に声をかけたのは太公望が前々から気にかけていたマーク・リー・アータートンである。最初は挨拶から始まりその後案の定彼は秋穂の香水について言葉をかけていく。マークは自身の家が香料を扱うことを理由に「もしよければ君にもっと似合う香水を選んであげようか」と言い出した。「よければ夜部屋に来てくれ」とも続ける。秋穂もさすがに困惑してどう断るべきかと迷っているが、マークはだいぶ強引に約束を取り付けているようだ。これが頃合いであろう。
太公望は秋穂を探しているという様子で廊下を歩いていく。秋穂と一緒にマークがいることを見ると少し申し訳なさそうな表情をすることも忘れない。
「おや奇遇ですね。マーク殿もこちらにいらしたとは。遠目に歓談中であったので話しかけるか迷ったのですが、ダ・ヴィンチ殿が至急マスターに話したいことがあるとのことで。ああ荷物は僕が預かります。これは書庫へ持っていくものですね?」
「はい、ありがとうライダー。すみません、マークさん。香水の話はまたいつか」
「あ、ああ。君のためにいい香りを選んでおくよ」
秋穂は荷物を太公望に預けるとそのまま廊下を小走りに去って行った。残されたのは無機質に続く廊下に荷物を持った太公望とマークの二人だけだ。
「何をお話されていたのでですか?」
太公望はにこにこと笑いながらマークに話しかけた。
「香水についてだよ。僕の家は香りを得意とする。今日は秋穂が珍しく香水を纏っていたから、少し話をしていただけさ」
「そうでしたか。邪魔をしてしまったようですみません」
「いやダ・ヴィンチが至急ということなら仕方ない」
マークは肩をすくめていう。太公望はやはりすまなそうな表情で「それでは」と彼の脇を抜けて書庫へ向かおうとした、その時であった。マークは驚いた表情をして太公望の方を振り返った。
「その香りは」
「ああ、これですか。本当にお詳しい。なんでもマスターがダ・ヴィンチ殿から貰ったものらしく、せっかくなので僕もお借りしたんです」
「ああ、そ「虫よけにはなるでしょう?」……え?」
はっきりと口にする。今までの申し訳なさそうな表情ではなく、笑顔を浮かべてそれを言えばマークはしばらく何が起こったのかさっぱりわからないという顔をしていた。追い打ちをかける必要はないだろう。彼ならば太公望の言葉の意味をすぐに理解するに違いない。「虫」とは誰のことなのか。そしてその「虫よけ」とは何を意味するのか。
太公望はそれ以上マークと話をすることなくさっさと歩いてその場を去った。これで最低限の牽制の効果はあるだろう。しかしあと一押し欲しいところだ。彼はこの後どう行動するだろうか。ライダーとマスターと呼び合う関係の二人に魔術的ではない繋がりがあったことを知ったら……
「今晩は秋穂の部屋にいた方がよさそうですね」
ぽつりと呟いたがそれはおそらく誰にも聞こえなかっただろう。
* * *
その日の晩である。お互い仕事を終えて食事もシャワーも済ませた後、太公望はいつものように秋穂の部屋を訪れた。毎晩太公望が秋穂の部屋を訪れるわけではなかったが、今日は意図的に秋穂の部屋で秋穂をベッドに誘った。秋穂はいまだ慣れないながらも太公望に身を任せる。
服を脱がすこともなくキスをして、そのまま秋穂の首筋に軽く歯を立てた太公望に秋穂はくすぐったそうに笑いながら「なぁに」と言った。
「いえ、甘い香りがしたのでどうやら甘味と間違えたようです」
「貴方からも同じ香りがする」
「そうですね、食べてしまいたいぐらいだ」
そのまま秋穂を押倒せば秋穂は身をよじって笑った。
秋穂と体を交えるのはこれが初めてではない。特に今回は太公望にとっても深い意味がある交わりだった。秋穂自身は気づいていないだろうが、ふと扉の前に何者かの気配を感じてちらりと一瞬だけそちらを見る。秋穂はそんな太公望の視線に気づいていないようだ。
あの男だろう、と太公望は思う。やはり確認に来たことに満足しながら、秋穂は自分の者であることを証明するように彼女の深くを穿てば秋穂は甘い声を上げた。
これであの男とそれから彼女を狙っているその他の誰も彼もに十分な威嚇と牽制を与えられただろう。
秋穂は、自分だけのものだ。
202207104 サイト掲載