香水に知る 3

 頭はまだぼんやりとしていた。部屋には光が満ちており白い天井が今まで真っ暗闇であった眼球を刺激して太公望は思わず目を閉じた。少しずつ目を開いて光に慣れさせていくとここがカルデアに用意された自室ではなく、秋穂の部屋であることを理解するいや思い出していく。昨晩は秋穂と交わったあと先に寝てしまった秋穂の体を丁寧に労わってから自分もすぐ隣で寝たのだ。普段より乱れている寝間着の前身ごろを整えながら体を起こすとすでに起きていたらしい秋穂が「おはよう太公望」と声をかけた。

「おはようございます」
「今日はお寝坊さんね」
「ええ、すみません。ダ・ヴィンチ殿から色々と技術的な面で助力を請われてそれがなかなか神経を使うもので疲れていたようです」

 太公望はそう言って笑いながらベッドから起き上がった。とはいえ何もすることはないのでベッドに腰掛けたまま秋穂を見つめる。秋穂は部屋に備え付けられた洗面所とは別の飲用水をこぽこぽと瞬間湯沸かし器に注ぐとスイッチを入れる。その間に忙しなくお茶の準備をしていた。
 お茶は日本にいた頃からの秋穂の趣味だそうだ。色々な茶葉を楽しむこともまたお気に入りのものを何度も使うこともある。最近は太公望に合わせて中国茶などを用意してくれるが中国でお茶を飲む習慣が広まったのは唐代の頃であると聞く。つまり太公望は普段から茶を飲むという習慣はあまりなく、しかしそれを秋穂に告げるのも随分と無粋な気がして今の今まで特に指摘したことはない。それに秋穂のお茶は趣味だと言うだけあって香りも口に入った瞬間のとろけるような味わいも非常に見事なものだったので、最近は秋穂のお茶を飲むのが太公望の趣味になりつつあった。
 こちらに背を向けて茶碗にお湯を注いで温めて、その間に茶葉を丁寧に開かせてと忙しなく動き回る秋穂の姿を見るのは新婚の夫婦のようでもあった。太公望も生前妻がいたことはあったが、正直なところ彼女と静かな幸せを歩む道はあまりなかったので最後には結局離縁してしまった。太公望なりに気を使ってはいたが、それは一般の愛とはかけ離れたものだったのかもしれない。それを思うと少し申し訳なく思う。できればサーヴァントとして得た第二の生では秋穂を幸せにしてやりたいと思う。彼女が笑っていてくれる世界があればそれが一番良いことな気がした。

「太公望?」

 ぼんやりと考え事をしていると秋穂がお茶の器を持ってすぐそばに立っていた。

「おや、ありがとうございます」
「今日は鉄観音茶にしてみたの。本当は先に器を温めてその中に茶葉を入れて香りを楽しむみたいなんだけど、それより喉が渇いているだろうから」

 秋穂から受け取った器の中には湯気の立つ鮮やかな透明感のある緑色の液体が満たされている。茶器から伝わる熱で手を火傷しないように注意しながら口に運ぶと適度な渋みが頭に伝わり、呑み込めば少しばかりいがいがとしていた喉が潤されるようだった。秋穂も太公望の隣に座って同じようにお茶を飲んでいる。

「……最近はいかがですか」
「ダ・ヴィンチちゃんのところの仕事? やることは大体覚えたからミスも減ったかも。でもほら、私が聖杯戦争のマスターだって公表があったでしょ。あれから……色々声をかけられることは多くなったかも」

 魔術師にとって万能の願望器を巡る聖杯戦争は非常に有名なものだ。西洋魔術の本拠地である時計塔から遠く離れた東洋の地で行われた魔術闘争だが、根源を目指す魔術師にとってはより現実性のある手段として注目を集めている。各地で偽聖杯戦争が行われるほどに、特に歴史の無い魔術師にとってはこれから何百年とかけて根源へ至るための研究をしていくよりずっと手早く確実にその力を得る可能性があるという点で聖杯戦争は興味深い存在なのだ。故に、聖杯戦争で生き残ったマスターとサーヴァントという存在はカルデアにおいても興味を引くものであった。

「何かあれば僕に相談してください。僕にできることならなんでもしましょう」
「ありがとう。声をかけてくれる人は大体聖杯戦争に興味があるだけみたい。私の打ち出の小槌のことは知らないし、私もマスターって言っても太公望のおかげで生きているだけだからいつもちょっと誤魔化して話は終わるんだけど……」

 しばらく秋穂と付き合ってみてわかったことは彼女はとにかく人がいいので頼まれごとは断れず、そして多少強引な手段に出られればどう対応していいかもわからない。人生経験が少ないことも理由の一つだが、何事も穏便に済ませたいという秋穂の生来の気質も影響しているようだった。目に届く範囲であれば、太公望がさりげなく会話に混じったりもしくは強引な手段に出ようとする相手に対して邪魔をするが常に完璧に彼女を守り切れているかと言われればそれは違う。秋穂も太公望の知らないところで傷ついているのかもしれないと思うと心が痛い。
 秋穂は自分のマスターで、そして彼女の心も自分だけのものだ。しかしそうとわかっていても不安が残ることは確かだった。
 秋穂の実家である霞流家はすでになくなっている。とある魔術師が霞流家の所有する打ち出の小槌を狙って襲撃し秋穂だけが生き残ったのだ。霞流家は魔術の家として有名ではなかった。しかしそれは打ち出の小槌という日本に伝わる万能の願望器を隠すために常に隠ぺい工作が行われていたためであり、もしその存在を明らかにしたのであれば霞流家は世界でも最も有名な魔術師の家系として知れ渡っていただろう。徹底された隠蔽工作のおかげで秋穂の存在は初めはカルデアでも軽く見られていた。しかし霞流家断絶の事実が徐々に広まるにつれて、秋穂は千年という長きにわたって続く魔術回路の保持者であり魔術の知識こそ使えないが魔術師からすれば喉から手が出るほど欲しいと思わせる存在であることが明らかになった。それからはその魔術回路を求めて男女問わず声をかけてくる者が増えたのは事実だ。幸いここがカルデアであるため誘拐されたり監禁されたりといった直接の被害は出ていない。しかしそれでもかなり強引な方法で秋穂を自らの家に引き込もうとする輩は多くいる。
 カルデアには良い人も悪い人もいる、というわけだ。これはどこでも同じことだろう。しかしながらその悪いというのは一般人の道徳と倫理に基づくものであるので、魔術師の思考の中では決して悪いことではない場合もある。それが厄介なことだった。太公望は秋穂にも周りの魔術師にも気づかれないよう様々な魔術防壁を秋穂にかけているがそれでも心配事は尽きなかった。
 空になった茶器をサイドテーブルに置いて秋穂の赤い髪を撫でると秋穂は嬉しそうに太公望に体を寄せた。何もないこの時間が何よりも愛おしいと思う。

「そういえば」

 ふと秋穂が口を開く。

「昨日ねダ・ヴィンチちゃんから香水をもらったの。ダ・ヴィンチちゃんが何をしているのかはわからないんだけど香料にもなる素材を取り寄せたときにサンプルとして入っていたんだって。それでいらないからって私にくれたんだけど……」

 太公望は香水ってつけたことある? と秋穂は首を傾げた。

「香水ですか……香りそのものは様々な儀式にも用いられるので僕も多少は知ってますが、秋穂の言う香水は液体状になっていて噴霧するタイプですよね? そうですねぇ僕自身は今まで特につけたことはないですが……」

 ふと太公望はいいことを思いついた。実はこのところ秋穂に積極的に近づこうとする男が一人いることに太公望は気づいていた。彼の思惑は見え透いていて秋穂を妻に迎えたいというところだろう。どうもカルデアの全職員に認めさせる形で秋穂を自分のものにしたいと考えているらしく、そのためにあまり強引な手段をとってこないため見逃してきたが、そろそろ厄介になってきたころだった。名前はマーク・リー・アータートン。太公望は彼の家について別段詳しくなかったが彼は香りに関わる魔術を使うと聞いている。ならば香りには相当詳しくまた敏感であろう。もし秋穂がつけている香水を太公望も共有しているとしたら? とそこまで考えたところで太公望はにっこりと笑って「そういえば香水にも色々つけ方があると聞きました。早速試してみましょう。ああその前に着替えないといけませんね。少しだけ待っていてください」

202207104 サイト掲載