秋穂はカルデアに来てから努めて明るく振る舞った。結局自分の身に起きたことは自分から離れて他人に伝わるわけではない。他人が自分の苦労や悲しみを知るはずがないのだから、それを押し付けて泣き叫ぶのはあまりにも無意味に思えたからだ。カルデアの魔術師たちを本当に信用していいのか、という疑念もあった。カルデアに所属する人間のほとんどは魔術師である。彼らが、秋穂の裡に眠るものを知った時、あの日家が襲われたときのようにまた秋穂は襲われるのではないか、それが恐ろしくてならなかったのだ。ドクター・ロマンは信用に足る人物であるように思えたが、たかだか一週間程度一緒にいただけの人物である。本当に信用していいのかは、まだ秋穂には判別がつかなかった。また彼は忙しく、彼に何かを相談するのは申し訳なく気が引けた。所長についても秋穂はその人柄を掴めずにいる。外見も話しぶりも優しそうな人物であったが、秋穂は所長について何も知らない。
結局のところ秋穂はカルデアで誰に頼ることもできなかった。だから明るく振る舞い、人を不快にさせないことしかできなかった。といっても秋穂がカルデアに与えられた部屋を出るのは、食事のときだけで、その時は笑顔で、挨拶を絶やさず、何かをしてもらったら必ず礼を言う。それを心がけて悲しみに皮を被せ、何事もなかったかのように振る舞う。そうすることはひどく心を消耗したが、それ以外に良いと思われる選択肢は見つからなかったのだ。秋穂は部屋に戻るとベッドの上で一日を過ごした。何もやる気になれず、ただ天井を見つめて死んでしまった姉妹たちとの思い出を思い出すほかに、この悲しみを癒すには時間が必要だったのだ。時間が解決してくれるまで秋穂はただ泣くしかなかった。
そうして一年がたった。カルデアで一人ぼっちの彼女にとってこの一年は長かったようで短いものであった。カレンダーも何もない部屋の中で、一つ季節が巡ったのを知ったのは、季節行事にまめな職員が食堂の共有スペースに四季にまつわる何かしらを飾っていたからだ。秋穂はその職員の顔も知らなかったが、どうやら日本出身のようで、秋穂もよく知るものが置かれていた。それで秋穂は季節を知った。食堂の共有スペースで鏡餅を見たときは、ああ、一年が終わったのかと思ったが、特に何も感じない。職員たちの中には少し浮ついた空気が漂っていたことを秋穂もなんとなくは感じ取っていたのだが、しかし秋穂にとってのあの賑やかな正月はもう思い出の中でしか存在しないのだ。「Happy New Year!」と声をかけられるたびに、秋穂は同じ言葉を笑顔で返したが、それだけだった。
カルデアの職員も秋穂がどうしてこのカルデアにいるのか疑問に思っている者も多いだろう。秋穂がカルデアに身を寄せることになった理由を所長もドクター・ロマンも特に触れ回っていないようなので秋穂も極力話をするのは避けた。誰が敵になるかわからない以上、自分のことを必要以上に話すのは危険な気がしたのだ。だからカルデアの職員は誰も秋穂のことを知らない。きっとなぜかカルデアに所属している不思議な小娘、程度に思われているだろう。秋穂はそれで構わなかった。
その日、無意味な日常を繰り返していた秋穂が、ふと目を覚ますと何かが違う気がした。部屋に誰かが侵入した、といったような物理的な話ではない。なんとなく再び日常が壊れていくようなそんな得も言われぬ不安が秋穂の胸に去来したのだ。その不安がどこからくるものなのかわからないまま、食堂で朝食をとっている時、その不安の理由が確定する。顔も名前も知らぬ職員から、「所長が呼んでいる」と声をかけられたのだ。秋穂はきっと悪いことが起こる、と思いながらも心はどこか冷めていて「わかりました、ありがとうございます」と返事をすると、もう味もわからない肉の一欠片を喉の奥に押し込んだのだった。
秋穂は随分に通ったきりだった所長室を訪れる。所長室の扉は相も変わらず無機質で、何もない。ノックをする前に扉は音もなく開き、秋穂は「失礼します」と声をかけた。部屋の中は廊下と比べると随分暗い。廊下の明るさに目が慣れた秋穂には部屋は真っ暗に思えたが、秋穂の背後で扉が閉まってしばらく時間が経つと部屋を照らす柔らかで強調しすぎない橙色の灯りに目が慣れてくる。天井ではやはり天球儀がくるくると回転していた。動力はわからない。
「こうして顔を合わせるのは久しぶりになるね。カルデアの生活には慣れたかな」
「はい」
秋穂は流れるように嘘をついた。慣れるどころか何もしていない。ただ無意味な時間を過ごしただけである。
「それは結構」
マリスビリー・アニムスフィア所長は秋穂の言葉を本当だと思ったのか、はたまた嘘だと思ったのか、それはわからない。ただ所長の関心はそこにはないような気がした。それは事実だ。
「まわりくどい話をしてもいいのだが、それに意味はないだろう。だから本題に入るとするよ。君の力を借りる時が来た、と言おう。我々カルデアは君の打ち出の小槌を使って疑似聖杯戦争を執り行う。すでに七人のマスターは選出済みだ。君はここで君の父君が望んだように聖杯戦争の器としての役目を果たすことができる」
「……はい」
「霞流の血はここで絶える。しかし君は根源へと至る一歩を踏み出す。それはきっと千年の血がなによりも求めたものだと私は思う」
「……はい」
秋穂にはいつかこの日が来るような気がしていた。魔術師が、他の魔術師を匿うにはそれ相応の理由があるだろう。そして秋穂の価値、とは日本の伝承の中に伝わる願いを叶える打ち出の小槌そのものである。本来は四人で管理するものであるため、秋穂一人ではその出力は大きく落ちるだろうが、秋穂は他の三人の姉妹たちが死ぬときにかけられた呪いがある。その呪いはきっと疑似聖杯戦争の器として相応しい役目を果たすほどに、打ち出の小槌の力を増すに違いなかった。
マリスビリーの表情からは憂いも喜びも見いだせなかった。ただ魔術師らしい魔術師として、その役目を果たすために手に入れた駒を使おうとしている、それだけだった。
秋穂にはもう何も期待はなかった。マリスビリーの言う通り、疑似聖杯戦争が執り行われ願望の器としての役目を果たすのならば秋穂はきっと死ぬだろう。霞流の血が途絶えることはもはや秋穂にとって気にかけるほどの価値はなかった。同時に他人にとって秋穂の命の価値は気にかけるほどのものではないという事実だけが彼女の気持ちにひどく重くのしかかる。秋穂を守るものは何もなく、そして秋穂は自分の身を守る術を知らなかった。そしてそれら全てをうすうす感じていたため、秋穂の口からは存外素直な返事が出た。もし嫌だと言ったらどうなったのだろう? きっと何も結果は変わらない。秋穂はどのような形であれ疑似聖杯戦争の器になる。そういう運命だったのであろう。
「準備は整っている。召喚は日を選ぶ。日時は追って伝えよう。それから、召喚そのものは君が行うことになる」
「……?」
それは少し意外だった。全て疑似聖杯戦争で召喚されたサーヴァントを使役する、マスターが行うものだと思っていたので、まさか自分が召喚をすることになるとは思ってもいなかったのだ。聖杯戦争の話は、秋穂も魔術師の家だったので多少は知っている。
「土地、器は揃った。しかし実質的にサーヴァントを支配する令呪そのものを生み出す力、システムと言えばいいか、それは打ち出の小槌の力を借りなければできないものだ。そして打ち出の小槌を管理できるのはもはやこの世界には君しかいない。君が七騎のサーヴァントを召喚し、宿った令呪を七人のマスターに譲渡することでカルデア式疑似聖杯戦争が始まる。サーヴァントの召喚方法は知っているかな」
「……いいえ」
「ではそれも追って伝えるようにしよう。君が当日やるべきことはサーヴァントを召喚し、令呪を譲渡、その後器となることだ、難しいことはない」
秋穂はもはや何も感じなかった。これで自分も姉妹たちと同じところにいけることを喜ぶでもなく、自分の死を自分のために悲しむでもなく、心の中は空っぽで、世界は灰色で、救いはない。
所長からの話は以上だった。所長は最後に「来るべき日を待ち焦がれるといい」と言った。それはきっと根源を目指す魔術師にとってはこの世に生まれた価値そのものとも言える喜びなのであろうが、秋穂にとってはただ死にゆくだけの行事だ。
所長の部屋を出て、秋穂はゆっくりとカルデアの廊下を歩く。歩きなれた、というほど馴染んだ場所ではなかったが、一年近く滞在した場所だ。窓から見る吹雪も白く無機質な廊下も、見納めだと思えばなかなか良いものに思えてくる。不思議な感覚だ。今まではただの通路であったというのに、美しく調和を保つように作られた円形の建物や、滑らかに切り取られた柱、分厚いガラスまでもがきらきらと輝いているように見える。
その日から秋穂は特に何も見えない窓の外を見て過ごすようになった。カルデアは南極の山脈に作られた地下工房である。外と面している部分は少なく、その少ない場所はきれいに透き通ったガラスで覆われていた。そしてその大きな窓を眺めていられるように、いくつかベンチが配置してあった。誰もが通り去るだけの場所は、誰も気に留めないので秋穂が過ごすにはちょうどよかったのだ。窓の外は吹きすさぶ雪の白に覆われている。秋穂の実家は東京にあったので、基本的にほとんど雪は降らなかった。年に一度、積もるか積もらないかの雪が降ると嬉しくて姉妹たちとともに庭に走り出したのを覚えている。それと同時に冬になると世話をしている花を縁の下やビニールハウスの中にしまうのが大変だったことも思い出した。何もかも遠くへ来てしまったなぁ、という実感が今湧いた。雪は止むことなく降り続け、吹き続け、世界は真っ白に染まっている。せめて一日だけでも、青い空が見えたらいいなぁ、などと思うこともしたが、結局そんな日は来なかった。疑似聖杯戦争が開始されるちょうどその日も、外は吹雪いており、窓の外は真っ白だった。
20220206 サイト掲載