南極大陸の中央に近づいてくると、比較的平坦だった氷の道は急に凹凸を増し、そりはがたんがたんと揺れるようになった。その度に秋穂は尻からロマニの膝を滑り落ちてしまいそうな感覚になるので、思わずロマニの腕をしっかりと掴む。
「ははは、大丈夫だよ。同乗している魔術師は優秀だから、僕たちは落ちないさ」
「は、はい」
秋穂は尻すぼみになりながら返事をしたが、なにぶんそりの後部に、後ろを向いて座っているものだから前の状況が全く分からない。おかげでいつ心臓ごと飛び跳ねてしまうような振動が来るのかさっぱりわからないのだ。そりに同乗している魔術師たちは多少そりが飛び跳ねたところで何と言うこともないという表情で座っている。話素振りも平常通りで、何事もなかったかのようだ。
やがてそりは山を登り初めた。秋穂には一体何がこのそりを曳いているのかわからなかったが、とにかくそりは単体で山を登っていくのである。しかし不思議なことに、多少の凹凸にそりは跳ねるものの、山を登っているにしてはそりの傾きは平地を走っているのとほとんど変わらなかった。これも魔術なのだろうか、と秋穂はぼんやり思う。秋穂は魔術と言うことを正しく学んだことがなかったため、魔術らしい魔術を使うことはできず、また魔術を見ることも得意ではなかった。ただ魔術という神秘が存在するということを知っており、魔術回路を所有しているという点において、魔術師の端くれだったわけである。
徒歩や犬ぞりよりもはるかに速くすすむそりは、時折休憩をはさみながら進んでいく。山を登りながらも凹凸があればそこにそりを止めてしばらく休憩というわけだ。しかし秋穂は、平地ならばともかく急勾配な崖の最中で足を延ばす気には到底ならず、ロマニがそりを降りてもそりの上でじっとしていた。十分もすればロマニも戻ってくるので、そうしたら、またロマニの膝の上に座って、そりが滑るように山を登っていくのをただ見ている。そりの後ろは、何もない。そりはほとんど空中に浮かんでいるような状態だったので、後ろの方に座っている秋穂には、まるで壁もなにもない観覧車に乗せられているような気分だった。強い風が吹きつけないこと、そしてロマニがしっかりと体をおさえててくれることが幸いだった。もし一人でこんなところに座っていたら、秋穂は目を回してそりから落ちていたかもしれない。きっと誰も助けてくれないだろうな、と秋穂は思った。
秋穂が持っているものと言えば、中学校の指定の鞄だけである。南極に行くというので防寒対策のコートなどは確かに購入したが、それ以上のものは持っていない。鞄の中に入っているのは、財布と、手紙と、それからあの日の授業ノートと教科書だけだった。鏡は旅の途中で割れた。香りが好きだったリップクリームは使い切った。色とりどりのペンが入ったペンケースは持っていたが、使いどころがわからない。薄っぺらい鞄の中には思い出すらも詰める時間はなく、ただ、あの日のことを象徴するように赤黒い血が飛び散っている。鉄の臭いこそなくなったが、ロマニに血の跡について聞かれるのが嫌で、秋穂はいつも、血が飛び散った部分を隠して鞄を持っていた。
そりがカルデアにたどり着いたのはちょうど船を降りてから一週間後のことだった。
その日は偶然にも空は晴れわたり、遠くの山までよく見える。青い空は何日ぶりのことだろうか。山腹ではなく、平らな地面も秋穂には久々だ。ロマニの膝の上から降りて、地面の上をそろそろと歩いてみたが、足がすっかりなまってしまっている。ふらふらとしながら、秋穂は、荷物を下ろす者、小さな荷物を抱えてカルデアに向かう者、に別れてそれぞれ活動を始めた魔術師たちをみやる。とりあえずロマニについていこうと思った秋穂は、ぐるぐる周囲を見回して、ロマニのオレンジとピンクの間の髪の毛を探した。白い雪の中で目立つその髪色はすぐに見つかって、秋穂は急いでロマニのそばに近寄る。カルデアに入るのに手助けを貰おうと思ったわけではない。ただ秋穂には『カルデアが見えなかった』のだ。皆、ここにカルデアがあるという風に話すのだが、秋穂には、平地のような山腹のようにしか見えない。だからロマニについていけば、カルデアを見ることぐらいはできるのではないか、と期待したのである。ロマニは山に向かって歩いていく。秋穂もそれについていく。そしてある境界、それは雪がかき分けられてできた溝のように見えた。クレバスのように深くはなく、子供が雪をかき分けて遊んだように引かれた線、それが斜面に向かって引かれている。随分と雪が降っただろうに、こんなところに子供がいるわけでもないだろうに。その奇妙な溝というか、線というか、それに気づいているのか気づいていないのかよくわからなかったが、とにかく同行者はみな線の向こうに行ってしまう。あっちに何かあるのか、と思って秋穂が線を越えた瞬間であった。視界に現れたのは、山の斜面に張り付くように、いや山そのものに寄生するように張り付いた巨大な白いカーブを描く建物であった。秋穂は思わずぽかんと口を開けてしまう。壁面は硝子で覆われているが、なぜか中の様子はよく見えない。建物のほとんどは山の中に埋まっているようだった。これだけの建物が今まで見えなかったことに秋穂は驚いたが、すぐにここが魔術師の建物であることを考えると、そんなに驚くほどのことでもないのかもしれないと思いなおす。とはいえ秋穂には魔術によって何ができて何ができないのかよくわかっていない。なぜ魔術を魔法と呼ばないのか、すらもわからないのだ。秋穂は呆然としながらもロマニを見失わないように慌てて、人の波についていく。
カルデアの入り口はいたって普通に見えた。よくあるビルの正面玄関のようなもので、不思議な機械をくぐるところは空港にそっくりだ。機械は鈍い青で統一されており、すべての機構が中に閉じ込められており、表から見る限りは何もない。これは何を見る機械なんだろう、とおそるおそる秋穂が通り抜けようとすると突然「__塩基配列」としゃべりだして秋穂は飛び上がるほど驚いた、し、実際飛び上がった。
「__塩基配列 ヒトゲノムと確認、霊器属性 善性・中立と確認。指紋認証、声紋認証、遺伝子認証、エラー。カルデアに登録されていません。係員が来るまでしばらくお待ちください」
「は、はい……」
秋穂は事前にカルデアの所長、マリスビリーと連絡を取る手段はもっていなかった。マリスビリーとつながっているのは秋穂が今、鞄の中にしまっている手紙だけで、それ以上のものはない。カルデアでは通常、入館には事前登録が必要ということも知るはずもなく、エラーによってはじき出された秋穂は慌てて後ろに飛びのいて、そしてそっと機械の横に立った。
「秋穂ちゃん!」
先に入館していたロマニが慌てたように走って戻ってくる。そして機械越しに秋穂に話しかけた。
「ごめん、まさか事前登録もすんでなかったとは知らなかったんだ。ええっと、所長に用があるって言ってたけど、何か紹介状のようなものは持っているかな」
「あ、あの手紙が」
「もしよければボクがその手紙所長に届けるけど……所長の方から許可が下りればカルデアにも入れると思う、から」
どうする? というような視線を向けられて秋穂はしばし迷った。一週間あまりそりで世話になった人だ。悪い人ではないと思う。しかし秋穂にとってこのカルデアと唯一繋がる手紙を渡していいのだろうかという一抹の不安があった。今はどんな形であれこの手紙が秋穂の将来を担保するものであるということは、秋穂も薄々気づいている。しかし、ほかに良い方法も思い浮かばなかった。警備の人に手紙を預けるのは余計に気が引けたので、それならば自分の人を見る目を信じようと秋穂は思った。
「あの、これっ」
機械越しに鞄の中から取り出した手紙をロマニに渡す。ロマニは受け取って、そしてその手紙に血がついているのを見たのか少し顔を歪めた。しかしすぐ笑顔になって、「ボクも所長にすぐ用があるからね、椅子に座って待ってて。もしかしたら係の人がくるかもだけど、係の人についてもボクの方がなんとかしておくよ」と言った。
「あっ、ありがとうございます!」
ロマニが廊下の向こうに消えてしまうまで秋穂はその背中をぼんやりと見ていた。しばらくの間立ったままであったが、近くに椅子があることを、ロマニの言葉を思い出して、そっと椅子に座る。カルデアの中は、思った以上に暖房が効いているのか暖かくコートが暑いくらいだ。秋穂は防寒用のコートを脱いで、そっと隣の席に置いて、ぼんやりと天井を見る。シミ一つないきれいな天井だった。おかげで時間つぶしに使うこともできなかった。
なんとも不安ばかりがよぎる時間であった。マリスビリー宛の手紙に何が書いてあったのか秋穂は実のところ知らないのである。他者へあてた手紙を読むなど礼儀に反すると思い、あえて読まなかった。今となれば少しでも目を通しておけば、秋穂の今後についてマリスビリーがどう対処するのか、ぐらい予想がついたかもしれないが、今となっては後の祭りである。不安はじわじわと頭の中を支配していく。もしマリスビリーに受け入れられなかったら? その時は南極のこの寒い世界に放り出されてしまうのだろうか? 秋穂にはとても一人で砕氷船まで戻れる気はしなかったし、そもそもこの山を下ることだって難しいだろう。金ももうないので、帰りのそりにも乗せてもらえないかもしれない。そうしたらどうすればいい、この先どこへ行けばいい。未来の見えない不安はどうしようもなく秋穂を蝕んでいく。入口の機械が再びしゃべりだすまでの間、秋穂はめまいがする思いであった。事実何度も視界が揺れ、異常に喉が渇く気がした。
「霞流秋穂、入館の許可が下りました。再度認証を行い、カルデアへ入館してください」
「あっ、はい!」
機械なので返事をする必要はないのだが、あまりにも長く感じた空白の中で自分の名前が呼ばれたので秋穂は思わず立ち上がりざまに返事をしたのだった。そして慌てて荷物をかき集めて__といってもさほど荷物はないのだが__機械をくぐる。
「__塩基配列 ヒトゲノムと確認、__霊器属性 善性・中立と確認。ようこそ、人類の未来を語る資料館へ。ここは人理継続保障機関カルデア。指紋認証、声紋認証、遺伝子認証、クリア。魔術回路の測定……完了しました。登録名と一致します。貴方を霊長類の一員であることを認めます。所長がお待ちです、所長室までお越しください」
先ほどと同じセリフに続いて聞きなれない言葉もあった。ジンリなんとかについてはほとんど聞き取れず結局ここがなんの施設なのか秋穂にはさっぱりわからない。しかしとにかく所長室まで行けということらしいので、秋穂は館内地図を探す。ところが、多くのビルでは入口に館内地図かもしくはそれに類するものを用意してあるというのに、カルデアでは全くそういうものが存在しないのだ。これでは所長室がどこかわからない、困った、と秋保が早速途方に暮れていた時であった。きゅっきゅっきゅという足音がして、秋穂がそちらを向くと白い白衣のような衣服をまとった男性がこちらへやってくるところだった。
「えーっと、霞流、秋穂さん?」
「あ、はいそうです」
「所長がお待ちです、こちらへ。僕は__係員ってわけじゃないんですけど、カルデアにはお客さんが珍しいので専門の案内役っていないんですよね。なので仮の案内人なんですけど」
彼はそう言って一度言葉を切る。
「いけないけない無駄口を叩くなといつも怒られてるんでした。さぁいきましょう」
男性に言われて秋穂はカルデアの中に足を進める。
そこから秋穂がどのような道を通って所長室にまでたどり着いたのか、秋穂自身よくわからなかった。カルデアは全体的に似たような廊下ばかりであるということも理由の一つだが、それ以上に考えようとするとなんとなく頭がぼんやりして考えがまとまらなくなるのだ。疲れているのだろうと秋穂は思いながら、男性に遅れないようについていく。そしてカルデアの随分奥までやってきたところで、一つの扉が現れた。別段、ここに来るまでの間途中で見た廊下に面した扉とデザインは変わらない。
「こちらです。それじゃあ僕は仕事に戻るので」
「はい、ありがとうございます」
ここまで来てしまうと、先ほどロビーの椅子に座って考えていた不安はどこかへ消え去り、なんとも表現しがたい覚悟のようなものが決まっていた。
ノックをしようと手を伸ばしたところで、しゅっと扉が音もなく開く。秋穂は面食らってしばらく扉の前に立っていたが「入りなさい」と存外優しい声が聞こえて慌てて秋穂は中に入った。
調度品はほとんどなく、シンプルに片づけられた部屋は天井から天球儀がぶら下がっていた。明かりは部屋を構成する四辺の天井からもたらされるようで、部屋を均等に照らし出している。天球儀は不思議なことにゆっくりと動いていた。動力はわからない。
「ようこそ、秋穂。私がマリスビリー・アニムスフィア、このカルデアの所長だ。そしてこちらが__」
「やあ秋穂ちゃん。改めて、ボクはロマニ・アーキマン、カルデア医療班の班長をやってる」
「まさか秋穂と彼が同じ船で同じ日にカルデアにやってくるとはね。私も少し驚いた。さて、秋穂、私は君からの手紙を読んだ。正確には君の父上からの手紙だね。手紙には、君をアニムスフィアの名前で保護してほしいと書いてあった。なぁに実のところ私と君の父上とは知り合いでね。この程度のお願いをお互いにする程度には__」
仲がよかったんだよ、とマリスビリーは不思議と耳に心地よい声で言う。
「もちろんこの手紙の通り、君を保護しよう。ようこそ秋穂、カルデアへ。ここは人の未来を保証するための機関だ。君の未来もまた保証する。君が物語伝承者(ストーリーホルダー)ということも知っている。そのことで、君に手伝ってもらうこともあるが、今はゆっくりするといい」
秋穂は何か、とは言えないがひどく嫌な予感がしてその予感に身震いした。家霞流の家での秋穂は、文字通りストーリーホルダーとして消費されるだけの存在であった。マリスビリー所長の言葉は表面的に受け取るならば秋穂を保護する、と受け取れるが、その真意は別にあるように感じる。そもそも、魔術師が他の魔術師を匿う・保護するということはただの善意ではないだろう。それでも笑っていなければいけないだろう。泣いて喚いたって、何も変わることはないのだから。心は空っぽでも笑顔を貼り付けることは、難しいことではない。
「あの、ありがとうございます」
「案内を呼ぼう。もしほかになにもなければ、私も少し忙しいのでこれで失礼する」
「はい、本当にありがとうございます」
秋穂が所長室を出てすぐに案内だという、先ほどの男性と同じ格好をした人が来てくれた。そしてカルデアの一室に案内すると、今後はここを自由に使ってくれていいという。かなり広い部屋はがらんとしていて、調度品も部屋の雰囲気に合わせたのか、どこか近未来的であった。それでも一人の空間が与えられるのはありがたいことだった。秋穂は鞄を机の上に置いて、少しだけ備え付けのシャワー室や洗面台を覗いて、そしてベッドに倒れこむ。思っていた以上の疲労がたまっていたらしく、秋穂の意識はすぐに暗闇へと落ちていった。
* * *
所変わって、所長室。秋穂が去った直後、ロマニは所長に食ってかかる。
「所長、ボクは反対です。彼女本人が根源を求めるというならボクに口をはさむことはできない。でも彼女は家にもここでも利用されているだけだ。まだ十三の子供ですよ」
「魔術師であれば十三なら十分大人だろう。それに手紙にはそのようにと書いてあるんだ。彼女には疑似聖杯戦争を起こすだけの、そして器となるだけの力がある。それを利用し、根源の渦へ近づけと、彼女の父親がそう手紙に託して私に預けたのだ」
「しかし」
「彼女も魔術師であれば理解するだろう。根源への到達こそが魔術師の最たる目的であることを、その礎となるならば決してノーとは言うまい」
ロマニは魔術師の在り方も、人の在り方も知ってしまった。故にどちらも選び難いものであることを知っている。
「霞流が魔術師によって襲われたと聞いて、君をよこして正解だったかな。まさかこんな形で東洋の秘宝を手に入れることになるとは思わなかった。これから忙しくなるよ、改めて召喚式を組みなおさなければいけないね」
マリスビリーの言葉はあくまで淡々と、興奮しているわけでもなければ、焦っているわけでもない。ただ着々とやるべきことを見据え、進行する。それだけであった。
ロマニはそれ以上所長に口をはさむことはできなかった。静かに所長室を出て、医務室へと戻る。せめて少しでも彼女が健やかであるように、ただそれを祈ることしか今の彼にできることはなかった。
20220121 執筆・サイト掲載
20220206 加筆修正
マリスビリーの一人称と二人称、すぐに調べられる範囲では見つからなくて、「私」と「君」にしたのですが、正確なところを知っている方がいたらひっそりとでも堂々とでも教えていただけると幸いです。
補遺 20220207
『Fate/Grand Order -終局特異点 冠位時間神殿ソロモン-』にてマリスビリーの一人称が「私」、二人称が「君」であることを確認しました。テキスト体では確認してないので漢字なのかカタカナなのかひらがななのかはわからないのですが、一応漢字で統一していこうと思います。