カルデア 1

 大きな砕氷船は、海面に張った氷をばりばりと割りながら進んでいく。幸い天気は晴天に恵まれ、眼前に広がるのは氷の白と青い空だ。それが水平線までずっと続いており、世界は白と青でしか構成していないのかと勘違いしてしまう。魔術師でも、南極を訪れた経験がある者は少ないだろう。事実、秋穂と同じようにカルデアを目指している、という魔術師もこの光景に魅入られたように何時間もずっと寒い甲板にいた。
 人理保障機関フィニス・カルデアは人類の未来を観測し、人類の存続を保証する魔術と科学の融合した特務機関である。そこを訪れる人員は当然のことながら魔術を知っている。しかしこの砕氷船の乗組員の大半は一般人であり、この南極へは科学的な目的で訪れている。であるから、南極のさらに奥地に建てられたカルデアを目指そうという魔術師たちは、表向きは科学者ということでこの船に乗っていた。秋穂もまたその一人だ。

 甲板に出る気にもなれず、秋穂は船が出港してから、ほとんどずっとこの割り当てられた寝室で丸くなっていた。細長い部屋の長辺の壁際に沿うようにして二段のベッドがある。入り口から入って右側のベッドの下が秋穂のベッドだった。左側のベッドには名前だけ交換した魔術師が乗っていた。といっても魔術師は夜寝るときぐらいしか部屋に戻ってこなかったので、秋穂と話をすることはほとんどなく、そして秋穂も自分から話しかける様なことはなかったので、生活音を除いて部屋の中はしんと静まり返っている。今日もまた夜遅くになって部屋に戻ってきた魔術師は、秋穂を一瞥することもなくベッドにもぐりこんで静かな寝息を立て始めた。秋穂も、ずっと同じ姿勢でいたためにがちがちに固まってしまった体をのろのろと動かして、掛布団の中に潜り込む。一応、部屋に暖房はあるが、古くあまり良くは機能していなかった。秋穂は布団の中で小さく震えている。
 霞流秋穂はつい数週間前に日本を初めて出た。そして右も左もわからないまま、偶然乗り合わせた英語の堪能な日本人に助けられて南極へ向かう船に乗り組むことができた。それ以前の秋穂であれば、南極を訪れるなど考えたこともなかっただろう。
魔術師の家に生まれた秋穂は物語伝承者(ストーリーホルダー)という役目を追っていた。物語にのみ登場する秘宝をその身に宿し、東洋における聖杯として、管理していたのである。秋穂にはほかに三人の姉妹たちがおり、四人で一つの器となっていた。その秘宝とはすなわち「打ち出の小鎚」。日本人であればだれでも読んだことがあるだろう、一寸法師の話に出てくるあの小槌である。一寸法師の物語の中では、姫様が「大きくなあれ大きくなあれ」と唱えながら打ち出の小槌を振ることで、一寸法師は成年男性になることができたと言われている。その他の物語にも登場する打ち出の小槌は、なんでも願いを叶えてくれるいわば万能の願望器であり、魔術師であればだれでもこの願望器をつかうことで根源に至れると考えるに違いなかった。事実、秋穂の祖先もまた同じことを考え、四人の器を選出し、疑似的に打ち出の小鎚を再現することで、物語の中にだけ存在するはずの秘宝を現実のものとした。そして聖杯をつかった聖杯戦争とはまた違ったアプローチで根源に至ろうとした、それが霞流家であった。しかしその霞流家は、とある魔術師の襲来により断絶することとなる。それがわずか数週間前の話であった。秋穂霞流家の唯一の生き残りであり、そして願望の揺籃である。
 秋穂は逃げなければいけなかった。家を襲った魔術師がどこの誰なのか秋穂は知らなかったが、秋穂は他の三人の器が守ったこの打ち出の小槌を守り抜かねばならなかった。そのために秋穂はカルデアを訪れるのである。秋穂の父親はかつてマリスビリー・アニムスフィアと交流があり、万が一の時があればマリスビリーを頼りなさい、と秋穂と三人の姉妹たちは父親から手紙と、旅費、パスポートを預かっていた。マリスビリーを頼ることで何か事態が好転するのか、と言われれば秋穂にはそれはわからない。だが、日本に居れば必ずまたあの魔術師はやってくるだろう。今度こそ秋穂の中にある打ち出の小槌という願望の揺籃を奪うために、襲って来るに違いなかった。秋穂は死ぬのは怖かった。他の姉妹たちにしてもそうだろう。秋穂も姉妹たちもまだ十三の子供で、学校にも通っていて友達もいた。秋穂と姉妹たちの魔術回路は、概念である打ち出の小槌の器になるために調整されているため、魔術らしい魔術を使うことはできない。だから、秋穂の日常はあまりにも普通で普遍的でありふれたものであったと言えるだろう。だがそのありふれたものがあまりにも愛しく大切なものだと知ったのは、姉妹たちが死んだ、その時であった。秋穂は死にたくなかった。だから今唯一の頼りを目指してカルデアに向かっている。
 ゆらりゆらりと揺れる船に初めは何度も吐き気を催したものの、今ではすっかり慣れて、この揺れがないと眠れなくなってしまった。波の揺り篭に揺られて秋穂の意識はゆっくりと沈んでいく。本当は寝たくもなかったのだが、寝なければ体力はもたず、カルデアにはたどり着けないだろう。話によればカルデアは南極大陸の中心にあるという。あくまで秋穂が噂話に聞いた程度のことだが、砕氷船も行ける場所には限界があるので、途中から徒歩になるだろう。吹雪の吹き荒れる南極大陸を、自分が果たしてどこまで進めるのか秋穂にはわからなかったが、ここまで来てしまったのならもう進むしかほかに選択肢はなかった。秋穂はそんな不安を抱えながら今日も掛布団にくるまって眠るのだった。

 秋穂は夢を見る。その夢はいつも姉妹たちと仲良く遊んでいるところから始まり、そして必ず姉妹たちが死ぬところで終わった。
 うめき声と共に体を起こすと、同室の魔術師はすでに部屋にはいなかった。それどころか荷物もすっからかんで、ベッドも整っており、そこに人がいた、という気配はどこにもない。秋穂はしばらく空っぽのベッドを眺めていた。しばらくしてコンコンと部屋をノックする者がある。秋穂は「はい」と小さく返事をしてベッドからなんとか降りようとしたが、寒さで固まった体は上手く動かすことができず、結局ベッドの上で上半身を起こしたまま来訪者を迎えることとなった。来訪者はバインダーとペンを持って部屋を巡っている様子だ。


「ええと、あなたが霞流秋穂?」
「あ、はい」


 喉がかすれている。そういえばここしばらく食事を食べる気力がなくて、ほんのわずかしか飲食をしていない。そのせいだろうと秋穂は思った。


「砕氷船で行けるところまで来たの。ここから基地に向かう人は降りてもらうことになってるわ。船は色々用事があるからしばらく停泊しているけど、基地に向かう人たちはもう準備を始めているから、あなたも基地に向かうなら早めに準備した方がいいわ」


 来訪者はこの船のクルーなのだろう、ぴしりと皺ひとつない制服を着ている。その制服は、食堂で見かける職員と同じものだった。クルーはバインダーにチェックを入れながら、それだけ言うとそのまま去っていった。秋穂はしばらくぼうっとしていたが、クルーの話が真実なら、ここで一人置いていかれるわけにはいかなかった。パスポートとマリスビリーへの手紙、そして数少ない荷物を抱えて分厚いコートを着ると秋穂は慌てて寝室を出る。特に感慨深いことはなかった。ただ船に揺られるがままにじっと体を固めて、あとは寝るだけの部屋だった。忘れ物がないかだけちらりと確認して部屋を出る。足ががくがくと震えていたが、なんとか動かして船から氷の大地に繋がった階段を下りていく。何度か、滑り落ちそうにもなったが、紐でできた手すりにつかまってなんとか耐えた。
 空は青く、地面は白く、日本で生まれ育った秋穂にはなんとも珍しい光景が広がっている。風はあまり強くはなかったが、空気が冷たく吐く息は、吐いた傍から真っ白になって空へ上っていった。頭がちぎれるように痛む。慌ててフードを被ると頭痛は幾分増しになったのでほっとする。まだここは南極大陸の外縁だ。これから南極大陸の中央に向かって長い旅が待っている。秋穂は周囲で色々と働く人々を眺めて、その中でもひときわ目立たない一群を見つけたのだった。彼らはそりに荷物を積みながら、船のクルーやカルデアではない別の基地に向かう人たちと一言も言葉を交わすことなく黙々と仕事をしている。恐らくは彼らがカルデアに向かう人たちだと、秋穂は直感的に理解してそっと彼らに近づいた。


「そりは満員だよ」


 秋穂が近づくとその中の一人がぶっきらぼうにそう言った。よくよく見れば魔術がかけられたそりには様々な人が荷物と共に乗り込んでおり、秋穂が座れそうなスペースはもうなさそうだった。


「えっと、でも、私、カルデアに行かないといけないんです」
「……どこの家だ」
「……霞流……」


 その名前を言うのに、秋穂はひどく苦労をした。喉につっかえたかのように言葉が出てこない。喉に張り付いた言葉を引きはがすとき、喉の粘膜が一緒にはぎ取られるようなひどい苦痛があった。それと同時に自然と家族のことを思い出してしまい涙がこぼれそうになる。それを必死に我慢して、吐き出した言葉に男は少し驚いたようだった。


霞流……東洋の__あの」
「じゃあ……」
「ストーリーホルダー?」


 ざわめきが広がっていく。ほとんどの魔術師が、霞流の名前を知っているようだった。それもそのはずだ。霞流は平安時代より続く魔術の名家である。家と血脈を大事にする魔術師にとっては、それだけの長い間魔術回路を維持し続けた家は優秀であると判断される。それ故に皆驚いたのだろう。しかし、それでもそりに席がないという事実はひっくり返らない。


「あいにくだが」


 男は先ほどよりも少し残念そうな表情をして言う。


「待った。それなら僕の膝の上に乗るといい。キミは小さいから僕の膝でも充分だ。別にそりに座る場所がないというのは重量が問題なのではないんだろう?」
「それは、そうだが」


 明るい声であった。男がフードを外すと、緩やかにカーブを描く明るいオレンジともピンクともつかぬ髪の毛がふわりと揺れる。頭の高い位置でポニーテールにしたその男は秋穂に向かって手招きをした。


「キミが嫌でなければ、の話だけれど」
「い、嫌じゃないです、ありがとうございます」


 危うく置いていかれるところだった秋穂は、慌ててその男に近づいて深々と腰を折り礼をした。


「それじゃあ決まりだ。ほら、膝の上においで」


 男の言葉にもう一度礼を言って、秋穂は恐る恐るそりの上によじ登る。そりには不思議な結界が張られており、先ほどのような身を切る冷たい空気を感じない。秋穂がゆっくりと男の膝の上に座ると、そりは誰が号令をかけたわけでもないのにするりと氷の大地の上を走り始めたのだった。風はなく、振動もほとんどない。そりの周りの空気もそりと一緒に走っているような、不思議な感覚だ。魔術回路を持つも魔術のことはほとんど知らない秋穂はぼんやりとすごいなぁと思いながら、遠ざかっていく船を見ていた。そりは誰が曳いているわけでもないのに進んでいく。しかしそれを誰も見咎めないということは、一般人には幻影か何かが見えているのかもしれなかった。


「ええっと」


 やがて船が遠くになって、誰も話を聞いていない距離になると、魔術師たちは徐々に口を動かし始めた。名前を名乗る者、驚く者、カルデアでの目的を訪ねる者、もしくは一切口をきかない者。魔術師たちの行動は様々であった。秋穂を膝に乗せてくれた魔術師は比較的饒舌なようで、すん……と沈黙を守っている秋穂の肩をとんとんと叩くと話を始める。


「初めまして。ボクはロマニ・アーキマン。カルデアの医療班班長だ」
「あ、えっと、秋穂と申します」
「キミみたいな小さい子が……というのも失礼か。魔術の世界では年齢はそう関係ないことが多いからね。でもやっぱりキミみたいな子がカルデアに来るというのはなかなかないことだから、どうしてカルデアに? 理由を聞いてもいいかな?」
「あ……」


 秋穂の脳裏をかすめたのは、ごうごうと燃える家を背に小さな荷物を抱えて走って逃げる自分の姿だった。思い出すだけで心が締め付けられて涙がこぼれそうになるが、それをぐっと我慢して「父が」と言葉を口にする。その言葉は震えていたが、ロマニと名乗った男は気づいただろうか。


「父に言われて、マリスビリーさんに会いに行くんです。家で、色々あって、頼れる先がマリスビリーさんしかなくて」
「所長に? しかし本当によくここまで来たね。日本から一人で?」
「はい、色々な人に助けてもらいました」


 それは半分本当で半分嘘だった。秋穂を助けてくれたのは、南極行きの船に乗せてもらうときに声掛けをしてくれた日本人だけだ。彼女は何事か理由があって南極に行きたがっている少女をなんの見返りも求めずに船長と交渉し、あの寝室に入れてもらえるようにしてくれたのだった。それ以前は、誰の助けもなかった。いつも持ち歩いていた鞄の中の手紙だけを頼りに、秋穂はカルデアへと向かったのだ。
 船では誰とも話す気になれなかったので、ずっと口を動かしていなかったからきちんとしゃべれるか不安であったが、実際に誰かと話をすると思った以上に口から言葉があふれ出てくる。秋穂はどちらかといえばおしゃべりな方であったから、本当はずっと誰かとしゃべりたかったのかもしれない。今はロマニという青年との他愛のない話がとても楽しい。
 ロマニは喋り上手というほどではなかったが、穏やかな口調と言葉選びは秋穂の心を落ち着かせた。本人が医療班の班長であると言っていたので、人と話をすること、人を威圧しないことに慣れているのかもしれないと秋穂は思う。ロマニの膝の上で、当たり障りのないことを答えていく。ロマニはあえて秋穂の家のことについては話さないようにしている気配があったので、秋穂もあえて自分の家について話そうとはしなかった。


「あの、ロマニさんは医療班の班長なんですよね。なんで、わざわざカルデアの外に……? 班長がいなくなってしまっては皆さん困るのではないですか?」
「ああ、なんといえばいいのかなぁ。実は所長からの命令でね。ちょっと外の様子を見てきてほしいと言われたんだ。うちの医療班は優秀だから、班長がしばらく不在にしたところで何の問題はないさ」

 それからとロマニは話を続ける。


「ボクのことはドクター・ロマンと呼んでくれ。みんな不思議なことにそう呼ぶからね」
「わかりました、ドクター・ロマン」


 それから、カルデアにたどり着くまでの間、秋穂はずっとロマニのそばにいた。他の魔術師は秋穂霞流の家の者だと知ってから、秋穂を遠巻きに眺めるようになったのでなんとも居心地が悪かったのだ。ロマニはその点、ごく普通の少女として扱ってくれたので楽だったというのが最大の理由である。
 ロマニは社交的に振る舞っているのか元からそういう性格なのかは秋穂にはわからなかったが、とにかくそりに同乗した魔術師たちにも積極的に話しかけていた。最初はあまりいい顔をしなかった魔術師たちも、ロマニが話し始めるといつの間にかその波に乗せられて、よく話すようになる。ロマニが他の魔術師たちと話をしている間、秋穂はロマニの膝の上でじっとしながら彼らの話を聞いていた。秋穂にはよくわからない話も多かったが、日本を飛び出したときのようにそして船に滞在していた時のように一人ではないというのはなんとなく心強い。ロマニが秋穂を全面的にバックアップしてくれる、と約束をしてくれたわけではない。ただ傍にいてくれることを許してくれる、ということそのものに心強さを感じていたのだ。
 クレバスを軽々と乗り越え、凹凸を飛び越え、そりは時折大きく揺れながらも荷物を一つも落とすことなく進んでいく。秋穂には、そりの前方にそびえる山のどこにカルデアが存在するのか、さっぱりわからなかったが、魔術師たちは吹雪だろうと晴天だろうと構わずまっすぐに進んでいくので間違いはないのだろう。夜も交代で寝ながら進んでいくので、秋穂が耳にした限りではあと数日でカルデアにたどり着くだろうということだった。
 秋穂にはカルデアにたどり着くのが楽しみなのかわからなかった。もしマリスビリーに受け入れられなかったら? その時のことは考えたくない。秋穂には、もう帰る場所などないのだから。
 

20220113 執筆・サイト掲載