「さて……」
ドクター・ロマニの声が、カルデアスを前にして部屋に響き渡った。ガラスで覆われた、カルデアスを含む部屋は、かつて爆発の中心部であったとは思えないほどきれいに修復されており、カルデアスが光を灯さないことだけが寒々しい。数少ないカルデアの職員たちは、ガラス越しに、常に二人のマスター、すなわち藤丸立香と秋穂の存在証明をするために観測を続けている。そしてその後ろには、立香と秋穂のサーヴァントである、マシュ・キリエライトと太公望がじっと行く末を見守っていた。とはいえマシュは少々異質だ。秋穂が召喚し、秋穂の魔力だけで現界を維持している太公望はれっきとしたサーヴァントと呼べるだろうが、英霊から力を借り受けているマシュは、デミ・サーヴァントと称される。そして特にマスターのみで決定する事案でもなければ、基本的にマシュの立場は立香と秋穂と同じであり、積極的に意見を求められる。マシュは少々奥ゆかしい性格であったため、自分から声を上げることは少なかったが、少なくとも立香はマシュのことをマスターとサーヴァントの関係、というよりは友人としての関係と見ている節がある。ドクター・ロマニもダ・ヴィンチちゃんもそれを否定しなかったので、これまでの特異点でも基本的に立香とマシュは同じ立場であると言ってもいいだろう。一方の秋穂と太公望は、一応秋穂がマスターであり、太公望はマスターに付き従うサーヴァントだ。しかしかの妲己を打ち滅ぼし、殷を打倒した軍師であり武将である太公望の知識と知恵は、今やカルデアにとってなくてはならないものだった。故に、必要であれば太公望はマスターである秋穂にも意見をするし、このようなブリーフィングの場であっても、何事か口をはさむことも多かった。人生経験がまだ二十にも満たない秋穂と立香もそれを期待している節があったので、なおさら、太公望は立場を超えて意見することが多い。
本日のブリーフィングに戻る。今回の特異点は今まで観測されたものとは違い、一週間ほど前突如として現れ急速に大きくなったものだ。状況は一切不明、なぜ今まで観測されなかったのかもまた不明で、何もかもわからないまま、無視できない規模へと成長した。これを受けて、本日七月三日に秋穂と立香のレイシフトが決行されることとなった。
「本当に悪いんだが、今現在、この特異点についボクたちが言えることは、これが日本に発生したということだけだ。これ以上の詳細な調査に関しては、現地で行ってもらうことになる。ボクたちも最大限のサポートはするけれど、最初にレイシフトできるのキミたちだけだ。残りのサーヴァントに関しては、現地で霊脈を確保した上でなければ難しいだろう」
ドクターは少し困ったように眉を寄せて言った。
「失礼、それはカルデアからの魔力路が絶たれているということですか」
「ああ、そうなんだ。これもなぜだかわからないのだけれど、今回の特異点はカルデアからの干渉を一切受け付けていない。通信すら危ういかもしれない状況で、キミたちを送り込まないといけないのは……」
ドクターはそこで言葉を切る。そこから先はどんな環境であれ同じことなのだ。行くしかない。唯一残されたマスターである立香と秋穂には、それ以外の選択肢は持たされていない。
「もしかしたら他のサーヴァントは召喚できないかもしれない。その時はマシュ、太公望、二人が立香ちゃんと秋穂ちゃんにとっての生命線になる。頼んだよ」
「はいっ! ドクターのお言葉に応えられるよう最大限頑張ります!」
「お任せください、マスターのことは必ず守りましょう」
「…………それじゃあレイシフトをはじめよう」
ドクターはしばしの沈黙の後、そう言った。本当ならば自分が行きたいのであろう。しかしレイシフト適正があるのは、日本でいうならばまだ高校生の少女であった。彼女らを信じていないわけではない。事実すでに一つの特異点の修復を完了させた、これはひとえに立香と秋穂、そしてマシュと太公望の力があってのことと証明されたはずだ。しかしそれでも子供を戦地に送り込まなければならないというのは、常に心が痛む話だった。それが、ドクターの沈黙に表れている。
秋穂と立香そしてマシュがコフィンに入る。卵型をした小さなコフィンは、SF映画に出てくるよくあるロボットの操縦席にも似ていた。違いと言えばコフィンの中には座席の他はボタンが一つあるだけということだろう。そのボタンにはカバーがかけられ、「Emergency」とカバーに書かれている。要は緊急脱出用のボタンというわけだ。その他の操作は基本的にカルデアの職員が行うので、レイシフトする人員がするべきことは基本何もない。もともと受肉していないエーテルで仮の肉体を構成するサーヴァント、太公望は秋穂のコフィンのそばに待機している。太公望に関しては、既定のサークルの中にいれば、秋穂とともにレイシフトができる。
実のところ秋穂と立香そしてマシュを除いたサーヴァントのレイシフトは非常に難しいのだ。本来ならば、太公望はカルデアで待機し、三人がレイシフト先で召喚サークルを構築後、カルデアから呼び寄せる、という方法をとるのが普通である。事実秋穂と立香が契約を結んでいる他のサーヴァントに関してはその方法がとられている。ところが、太公望は初のレイシフト実験の時に「レイシフトですか、面白いですねェ! ええ、少し時間をください」と言い、何やら方術で細工を施した結果、カルデアに寄らず自らレイシフトを成功させてしまった。その上、レイシフトの設定をカルデアと連携させ、秋穂のレイシフトを自動で追尾するようにしてしまったのである。これにはオルガマリー・アニムスフィアもレフ・ライノールも絶句した。改めて太公望がキャスターであれば冠位でもおかしくない、という本人の台詞をまざまざと実感させられた瞬間でもあった。
こんこん、とコフィンの前面を覆うガラス窓を叩くものがあった。秋穂が目を開けると太公望がコフィンを覗き込んでいる。秋穂が視線をやると太公望がにこっと笑って小さく手を振った。
『大丈夫ですか、秋穂』
『うん、もう平気』
マスターとサーヴァントは魔力でつながっている。それゆえにある程度の距離であれば、念話のように、強く意識するだけで相手に自分の意思を伝えることができた。秋穂と太公望は、カルデアをからの魔力供給を受けない、聖杯戦争でいう本来の形でつながっているため、立香とマシュよりもはるかに簡単に意思を伝達できる。
秋穂は胸の前で組んだ手をガラス越しに太公望の手に合わせた。
『アンサモンプログラム、スタート』
アナウンスが入る。それと同時に秋穂の視界を覆うガラス面が真っ黒に染め上げられた。秋穂はこの瞬間が一番嫌だった。自分の存在が有と無を行き来する瞬間、自分の存在があやふやになる瞬間。もしかしてこのまま消えてしまうのではないだろうか、という一抹の不安がよぎる。
『霊子変換を開始します』
真っ暗な、小さな卵の中で、秋穂は体を丸めてじっとしていた。アナウンスだけが外界と秋穂を繋ぎとめるものだった。もっと早く、早くと心が急く。太公望には大丈夫だ、と告げたがあんなのは虚勢だ。本当は全然大丈夫じゃない。昨日の晩から、この瞬間が怖くて怖くてしょうがなかった。初めてレイシフトの実験を行ったときから、この恐怖をどう扱っていいのかわからない。立香もきっと似たようなものだと、思う。
『レイシフト開始まで、あと三、二、一……全工程完了。実証を開始します』
ふっと秋穂の意識が闇の中に沈む。その意識の中で明るい光が遠くにあった。光の壁が周囲を覆って、秋穂の意識は光に向かってどんどん近づいていく。そして光が秋穂の意識を完全に覆った時、秋穂の体は急に重くなり、どすんという少しの衝撃と共に、レイシフトが完了した。
20220109 執筆・サイト掲載