レイシフトの前日はどうもよく眠れる気がしなかった。一人で部屋の暗闇の中に身を置いて、明日のことを考えているとどうしても目が冴えてしまう。初めてのレイシフトは実験と言う形で参加した。目的と、場所と、時代が決まっており、そこに飛ぶことが決まっていたが、初めてレイシフトをしたときのあの何とも言えぬ喪失感は今もあった。もう数度目になるレイシフトだが、それでも慣れないのはコフィンの中に太公望がいないからだろうか。
もう何度目かもわからない寝返りを打って、秋穂は結局寝ることをやめた。掛け布団を蹴り飛ばして、寝間着に粗相がないか軽く確認して、廊下へ出る。夜であることも相まって、自室より少しだけ暖房の設定温度が低い廊下は、寝間着の姿では少し寒かった。カルデアはどこも土足なので、スリッパは履いているが、裸足にひやりとした風が吹き抜け、寝間着の中に入り込んでくる。長居をする場所ではない。秋穂は体を一度体を震わせてから、すぐ隣の部屋、太公望の部屋の扉をノックした。
「__どうぞ」
ノックからしばらく間が空いて返事がある。
カルデアのドアは場所によってさまざまな認証方式が使われている。カルデアスのある本部は声紋認証と顔認証、書庫は指紋認証、そしてサーヴァントとマスターの個室は、個々に設定された指紋認証だ。内部からドアを開けるか、もしくはマスターとサーヴァントの関係でなければ個室には入れないようになっている。今は指紋認証をするまでもなく、太公望の方からドアを開けてくれたので、シュッとわずかな摩擦音と共にドアはスライドして開いた。
「秋穂? どうしたんです、こんな夜中に__ああ眠れませんでしたか」
「……うん」
「廊下は寒いでしょう、中に入って」
太公望に促されるまま、秋穂は太公望の個室に足を踏み入れた。暖かな空気が出迎えてくれる。秋穂の背後でドアが閉まった。
太公望はなにか読み物をしていたようで、机の上には様々な書物が散らばっている。しかし太公望は特にそれに触れることもなく、秋穂に上着をかけてベッドに誘導した。下心があってのことではない。他に座る場所がないのだ。秋穂が座った隣に太公望も座る。
「……明日のレイシフトが怖いですか?」
「……うん」
「まぁそうですよねェ。僕も方術で色々やってますけど、やっぱり移動の術を使う時が一番怖いです。何が起こるかわからないし、移動した先でもまた不安は多いし。自分が術を行使する側ですから、まぁそれなりにできることもありますが、レイシフトは完全に他人の力に寄ってますからね。怖いのも当然でしょう。ここで、寝ていきますか?」
秋穂は頷くことはできなかった。今でさえ十分に太公望の邪魔をしているのはわかっていたし、自分も体調不良で明日に挑みたくない。ならば自室に帰って暗闇でじっとしているほか選択肢はないはずなのだ。だが太公望の言葉があまりにも優しくて、ついその言葉に寄りかかりたくなる。
ああ、せめて姉妹たちがいれば、と思わなくもなかった。生まれたときからずっと一緒だった姉妹たち。同じ役目を課されて生きていた彼女たちは、秋穂を残して皆死んでしまった。それが秋穂の孤独感をより一層強くし、寄る辺のない不安定な気持ちにさせる。
「じゃあここで寝ちゃいましょう。僕も、まァ西洋の方の兵法書が興味深くて色々読んでたんですけど、さすがにそろそろ寝ないと明日怒られちゃう気がするので、ちょうどいいときに秋穂が来てくれました。今日は寒いですし、一緒に寝た方が温かいですよ」
太公望の優しさはどこから来るのか、秋穂にはわからなかった。生来のものなのか、はたまた長い人生で身に着けたものなのか。しかしなんにせよ太公望の優しさはありがたい。「ねっ」と後押しされるように太公望に言われれば、もう断る理由はなかった。
「ちょっとだけ片づけをして着替えてくるので待っていてください。寝ててもいいですよ」
そう言って太公望の熱が少し離れるのが寂しい、と思うほどに、太公望の存在は随分と馴染んでしまったものだった。秋穂は寝台に寝転がって、太公望に背を向ける。それなりに広さがあるとはいえ、衝立もなにもない部屋だ、着替えを見られるのは嫌だろうという配慮であったが、太公望のベッドに横になるとうつらうつらとしてくる。太公望の香りが鼻に入って、なんとなく明日への不安が、気持ちが落ち着いてくるような気がした。
カチッ、という音と共に部屋の電気が消える。太公望が同じ寝台に入ってくる気配があったので、秋穂は端っこまで移動したが、すぐに太公望の手が腹に回って、寝台の中央まで引き戻された。
「あんまり端っこに行くと落ちちゃいますよ」
太公望の声が耳元でする。その声がなんとなく静かで穏やかで秋穂は目を瞑った。もう寝れる気がする。秋穂がそのまま寝入ったのは、夜も更ける深夜一時のことであった。
(うーん)
秋穂がひどく不安そうな表情をしていたので、迎え入れるほかに選択肢はなかった太公望だったが、こうして油断しきった表情で寝入っている秋穂を前に、男として思わぬところがあるわけではない。太公望は秋穂のことが好きだ。初めて召喚されたときから、天真爛漫な彼女の笑顔には好感を抱いたし、自分と似た過去を持つ彼女には共感も覚えた。それから秋穂と一緒に過ごすうちに気づけばすっかり虜になっていて、秋穂のすべてを自分のものにしたいという欲求さえある。
確かに寝台に招いたことに下心はなかった。他に秋穂を座らせる場所はなかったし、廊下に放り出しておくなどと言う選択肢はありえない。ただ、ここまで不用心な寝顔を晒されると、思わずドキリと心臓が跳ねるのも仕方のないことであろう。
秋穂を起こさないよう、静かに静かに呼吸をする。自分の欲望が表に出てしまわぬよう、努めて冷静に夜の闇を見つめていたが、いわゆる据え膳というやつである。食わねば何とやらと言うが、明日、いや今日は重要な任務があるのだ。こんなことで彼女を起こしてしまうわけにはいかなかった。頼られるのは嬉しいことだ。それだけ秋穂から信頼されているということであろうし、何よりその頼りになる相手と言うのが自分だけというのは嬉しくも感じる。だからこそ秋穂のことを大切にしたいと思うし、無茶はさせたくない。体を重ねることはあれど、苦痛を感じてほしくはないからこそ時間をかける。そうであるので余計にこの状況は太公望の心を浮つかせた。好いている相手と同じ寝台に居て、待った、をかけられるのは思いのほか辛かった。
結局その晩は、と書くのはあまりにも簡単だが、太公望にとっては相当に長い時間であったことをここに記しておかねばならないだろう。まんじりともせず、ただ秋穂の寝息を聞きながら過ごす時間は貴重ではあったが、拷問のようでもあった。それでも手を出すのだけは耐えて、朝を迎えたのであるから、そこは褒められてしかるべきだろうと太公望は思う。
カルデアの個室には窓がない。仮にあったとしても外が一日中吹雪いているときもあり、窓から入る明るさはあまり当てにならないことも事実だった。そのため、カルデアの個室の多くには時間設定で明かりが点くようになっており、太公望の自室もまたそのようになっている。朝の六時になると緩やかに明かりが点灯し、部屋が明るくなった。太公望がそのことにほっとしたのは事実だ。まるで眠れなかったが、太公望はサーヴァントである。多少の無理は生身の人間よりはきく。
「秋穂、朝ですよ」
「……ん……」
小さく頷くような動作をしながら秋穂はもぞもぞと掛け布団の中に潜り込もうとする。
「秋穂」
体を軽くゆすってやると、ようやっと頭も覚醒したようだった。
「……おはよう」
「おはようございます、今日は特異点に行くのでしょう? 準備をしないと」
特異点、と聞いて秋穂の目は完全に覚めたようだった。わっと起き上がると、「ありがとう太公望!」と言いながら部屋を急いで出ていく。それを軽く手を振りながら見送って、一人になった部屋の中で太公望はため息を吐いた。
「まぁ、またいつでも」
機会はあるでしょう、と呟きながら自分も着替える。普段であれば多少乱れもする寝間着も、体を固くして身じろぎ一つしなかった昨晩のおかげで、寝間着には乱れの一つもなかった。腰ひもをほどいて薄緑色の柔らかな寝間着を脱ぐ。いつもの軽装で、とも思ったが、今回は特異点に向かうのだ。ならば最高の霊基で挑む方がよかろう。
移動、すなわちレイシフトは不安だ、と昨晩太公望も述べた通り、場合によってはレイシフト先が不安定な場合もある。第一霊基の四不相は乗ってのんびり移動する程度の能力しか有していないので、そのことも考えれば最高霊基の方が秋穂も安心するであろう。
意識を集中させると、エーテルの体にふわりと触れるものがあり、軽く結わえていた髪がほどける感覚があった。長い髪が背中に落ちて、豪奢な着物が体を包む。
「ふむ、霊基再臨は悪くはないですが、少し動きにくいですね」
そんなことを独り言ちていると、昨晩と同じようにドアをノックする音が聞こえてきた。
「太公望? 準備できた?」
「ええ、僕は問題ありませんよ」
音もなくドアが開く。そこに立っている秋穂はカルデアの礼装に身を包んでいる。白と黒の最もスタンダードで扱いやすい礼装だ。特に秋穂は魔術回路が「とある物」を起動させるためだけに特化している。このため自身の魔術回路に寄らない結界術などを除いて魔術を行使することができない。そんな彼女にもぴったりの礼装だ。
「わっ、びっくりした。最高霊基で行くんだね」
「ええ、まぁ。霊脈を確保できれば問題ありませんが、それまでは何が起こるかわからないということを考えるとやはりレイシフトの時はこちらの方が色々と便利かと思いまして」
「そっか。そこは太公望に任せる。あっそうだ、さっき食堂に行ってエミヤにサンドイッチ作ってもらったの、もうすぐブリーフィングだから時間もないと思って。太公望の分もあるから一緒に食べよ?」
「おやそれはそれは。ありがたくいただくことにします」
秋穂の顔には昨晩の不安げな表情はどこにもない。元気溌剌な少女は太公望に紙で包まれたサンドイッチを渡すと、寝台に腰掛ける。太公望もまた同じように寝台に腰掛ける。
黙々と食事をする秋穂に太公望は特に言葉をかけることはない。昨晩のことを蒸し返すのも大人げないし、かといって表向きは元気に振る舞っているが緊張しているであろう秋穂から無理に言葉を引き出すのも気が引けた。ちらりと秋穂の方を見ると、秋穂は口元に食べかすを着けながら一生懸命サンドイッチを頬張っている。秋穂には少々サイズが大きすぎるようだ。
「秋穂」
「……なに?」
口の中のものをごくりと嚥下してから秋穂が太公望の方を見る。
「口元、ついてますよ」
「えっ、うそっ!?」
秋穂は慌てて、口元に触れるがそれは反対側だ。
ほんの少しいたずら心が頭を覗かせた。
「そっちではなく__」
秋穂の頭に手を添える。そのまま顔を近づけてぺろりと舌で舐めとると、秋穂の頬があっという間に朱で染まった。
「こちらです。ええ、ごちそうさまでした」
なんとなく昨晩の仕返しをしたようで心地がいい。「ちょっと!もう!」と怒る秋穂を無視して笑ってやれば気分がいい。
「さっ、そろそろ行きましょう。ロマニ殿とダ・ヴィンチ殿に怒られます」
「う、うん」
まだ頬を赤くしている秋穂は慌ててサンドイッチを食べ切って、それから部屋の鏡を見る。頬を数度叩いたが、一度赤くなった頬はそう簡単に元の血色に戻るはずがなかった。それをからからと笑って、廊下へ出る。
まだ静かな廊下は、窓の外に降る雪の他に動くものはない。
20220106 執筆・サイト掲載