たった一人の体育館も悪くない。今日は本当は部活だったはずなのに顧問の先生の急用で急遽休みになった。その連絡が届かなかったのは前日から携帯の調子が悪くて、休みのメールがちょうど学校についてから届いたからだ。そのまま帰るのももったいないな、と思いながらわたしは空いていた体育館を勝手に使わせてもらう。同じ学校の生徒なら、使われていないときは自由に使用して問題ない。午後からはバスケ部の練習があるようだが、午前中は何もない。
風が入るように、扉を全部開け放って、それから広い体育館のど真ん中に座った。ちょうどバスケの試合開始のときジャンプをするあの丸い円が書いてある、そのど真ん中だ。バッグのそこにいつも押し込んである体育館シューズを取り出して、履いて、それからバッグは体育館の端っこまで滑らせた。
グラウンドからは野球部の声援が聞こえてくる。時々キィーンという高い音が響いて、打ったんだなぁと思いながらわたしは寝転びながら柔軟体操を始めた。なぜ柔軟かって、特に意味はない。部活がなくなっただけでグラウンドを走ってもいいのだが、たった一人で走るなら町中の風景を見ながらの方が楽しい。それに野球部がいると時々とんでもないところに球が飛んでくるから嫌なのだ。今日は練習試合でもやっているようだし、なおさら視界の端っこで邪魔はしないほうがいいだろう。学校へ着いたところでメールに気づいたのでそのまま帰ってもよかったが、体育館が空いているならたまには体育館の床の上でごろごろしたいと思ったのだ。体育館の床はひんやりとしている。天井の水銀灯が着いていないと、なおさらだ。外から声は響いてくるものの、なんとなく別世界にいるような静けさがあって、それが楽しかった。授業前にちょっと早めにくると味わえるこの感覚を午前中いっぱい楽しむのも悪くない。
仰向けにねっころがったまま下半身だけをひねって、右足を思い切り左側に持っていった。この柔軟の意味は残念ながらわからない。陸上部では走る前に入念な体操をやるも、あいにくとわたしはその全てひとつひとつにどんな意味を持っているかなんて考えたこともなかった。ここが伸ばさないと危ないとか、一番最初に言われた気もするけど全部忘れた。
しばらく体をひねってから、今度は体を起こして足を大きく左右に広げる。柔軟体操の中ではとってもメジャーな運動のわりにこれの名前がよくわからない。左に体を傾けると、最近柔軟体操をあんまりやっていなかったせいか、体がだいぶ堅くなっているように思えた。脇がどうも痛い。一度体を起こしてもう一度。あっやっぱり痛い。反対側も痛くて、風呂上りにもう一度柔軟をやらないといけないなと思った。それから最後に開いた足の真ん中に体を倒すと、急に背中に圧迫感を感じた。

「ふぅうおおお!?」
「なんだその悲鳴」
「あ、フィンクス」

背に触れる大きな手の平にぐいと押されてわたしは額を床につけた。この姿勢はそんなに体に負担がかからない。でもずっとこのままでいるのはちょっと辛かったから「離してー」と言うとフィンクスは背中に当てていた手をぱっと離してくれた。上を向くと立ったままのフィンクスとは随分と差があって、ほぼ真上から見下ろしてくるフィンクスと視線が合う。

「もう会えないかと思ってた」
「お前のじーさんに散々追い掛け回されたぜ。随分体力あんな」
「そうなんだ。フィンクスって幻影旅団だったんだね。あの後じいちゃんとばあちゃんに聞いた」
「なんであのじーさんそんなこと知ってんだよ」

オレ達なんか顔写真だけで億単位の金がついてるってのによ、とぼやきながらフィンクスはわたしの横に座った。

「じいちゃんとばあちゃんブラックリストハンターだって言ってたよ。ちょっと前にフィンクスのこと見かけたって・・・」

ここまで言ってはっとする。フィンクスが話しかけやすいからついつい友達に話す感覚でしゃべってしまったが、考えてみればこいつは幻影旅団で、いわゆる世間一般から追われる存在で、できれば顔なんて知られてないほうがいいのだ。そんな奴に家まで知られているというのに、そんなことをべらべら話したら報復されてもおかしくない。

「・・・お前も結構頭悪いよな。別に顔知られたぐらいでぎゃーぎゃー騒ぐほど弱くねぇよ」

その一言は別にお前のことをどうこうしようってわけじゃない、というようにとってもいいのだろうか。よくわからないが、とりあえず気をつけようと思った。

「ところでフィンクス」
「あん?」
「ここ土足禁止」
「げっ」

指差すとフィンクスは明らかに慌ててすぐに靴を脱いだ。でもそれから私を指差してお前も履いてんじゃねーかと言われて、これは体育館シューズといえば顔をしかめられた。

「体育館シューズってなんだ」
「えーフィンクス履いたことないの?」
「ねぇよ」
「室内で運動するときに履くの」
「なんで室内で運動すんだよ。それに大体靴履いてちゃいけねぇ理由がわかんねぇ」

フィンクスは本気で何言ってんだ、という雰囲気で言葉を返してきたのでわたしは言葉に詰まった。なんで、って言われてもなぁ・・・・。昔っからそうしてたわけだし。

「あっ雨の日とか運動できないし」
「別にしなけりゃいいだろ」
「室内でしかできない運動だってあるでしょ!」
「なんだよ」
「えー・・・バレーとかバスケとか」
「どうやってやんだ」
「やったことないの?」

わたしは少しだけ驚いた。確かに世界には学校にも行けない子だっていて、こうやってわたしたちのように授業も受けられないし体育だってできない子がいる、というのは知識としては知っている。でも知識としてある、のとそれを実感しているのとはまったく違うのだ。それは、地元の遊びが外では知られていなかった、という感覚に少しだけ似ていた。要するに私の世界は狭くてしょうがないのだ。どうしようもなく。わたしはフィンクスの出身が気になった。

「餓鬼の頃なんざ遊んでる余裕なんてなかったからな」
「・・・フィンクスってどこから来たの?」
「流星街」

フィンクスの一言にわたしは余計に驚いた。

「流星街ってあの?」
「お前のあの、が何指してんのか知らねぇけど、流星街は流星街だろ」
「あそこって人住んでるの?」

そういうと今度はフィンクスが驚いたような表情をする。

「決まってんだろ。それこそ腐るほどいるっての」
「初めて知った・・・」

流星街、という名前ぐらいは知っている。ただ社会現象として問題になっている、と教科書にはちょこっと書いてあるぐらいで、そこから生活に必要なものを拾い上げて生活している人がいると聞いたことがあるぐらいで、そこに実際に人が住んでいるなんて知らなかった。

「フィンクスは・・・そこで生まれたの?」
「さぁな。親もいねぇし、そこで生まれたのかも、捨てられたのかもよくわかんねぇよ」
「・・・ごめん」

わたしも両親はいない。優しいじいちゃんとばあちゃんに育てられているけど、一人でなんて生きていける気がしなかった。母さんは病死、父さんは行方不明。昔は時々母さんも父さんもいないのが辛くて泣いた。今はそうでもないけれど、なんとなくフィンクスにそんなことを聞いて申し訳なくなったのだけれど、フィンクスはまるで気にした様子がなかった。なんで謝ってんのかわかんねぇと言われてそれでぷつんと会話は途切れた。
わたしはなんとなく居心地が悪くなって、最初は体育座りでもぞもぞとしていたが、それも落ち着かなくて、黙って柔軟をはじめた。今度は足を閉じて伸ばして、前に体を倒す奴。これはそんなに得意じゃないけど、そこそこ前に倒せるのでぎりぎりまで倒してゆっくりと息を吐いていると、背中に突然重みがかかって私はぎゃあと叫んだ。

「いっいたたたたた!!!待って待って痛いフィンクス!!痛い!!」
「情けねぇなまだいけるだろ」

こいつ絶対に楽しんでる、と思うと意地でもその手をはじき返してやりたくなったが、全体重をかけているわけでもないだろうに、手はぴくりとも動かなかった。

「う~・・・!!う~・・!!」

唸りながら必死で体を上げようとしてもまったく動かないし、だんだん力が強くなってきている気がする。痛い。

「やだやだもう無理!!」

半分悲鳴を上げるようにそういうと、ようやっと手を離してもらえて、私はほっとした。危うく海老になったまま戻らないかと思った。

「痛いし!!無理だし!」
「情けねぇな」

げらげらと笑うこいつは本当になんなのだろうか。幻影旅団は、とんでもない警備も平気でかいくぐって・・・というか大惨事を引き起こしていくような集団だから、強いのだと思う。現にフィンクスの纏は十年近く続けているわたしの纏よりも、じいちゃんばあちゃんのそれよりもずーっと安定しているのだ。フィンクスの念がなんなのかは知らないが、弱いはずもないしさらに言えば女子中学生ができることなんて多分簡単なんだと思う。でも無性にむかついたので胡坐をかいて座っているフィンクスの後ろに周ってその背中をぐいと押してやった、が何の意味もなかった。フィンクスはもっと力入れろと言うばかりだが私は本気で足を踏ん張っているし、すごく力を入れている。それでも微動だにしなくて、私は十何秒続けてそれからフィンクスを倒すのは諦めた。無理だ。

「お前も念能力者だろ、練してみろ、練」
「うー」

不服ながらもわたしはフィンクスと背中合わせのままで錬をした、といってもそんなにすばやくはない。走りながらだと落ち着けるので比較的早いが、近くに誰かいたり落ち着けないとなかなかうまくいけないのだ。私は深呼吸をしてから目を瞑って集中した。

「遅い」

また笑われた。集中してんの!と怒ると「遅いと使えねぇぞ」と言われた。
遅いと言っても数秒の話だ。わたしの体を取り巻くオーラが膨れ上がる。

「そんで何時間ぐらいだ?」
「えーっと二時間半ぐらい」
「持続時間はまぁそこそこだな」
「そうなの?」
「念能力者同士が戦うときは最低三時間、欲を言えばもっと練が保てなきゃだめだ。まぁお前の場合は念能力に一時間って制限があるし、二時間もありゃ十分すぎるだろ」

まぁ、そんなもんなのかもしれない。そういえばまったく同じようなことをじいちゃんとばあちゃんに言われた気がする。昔の記憶を引っ張り出しているとフィンクスが唐突にまったく関係のない話を続けた。

「そういや・・・近いうちに西区の国立博物館に行く予定あるか?」
「えっ?いやこの間見学で行ったばかりだし別に・・・」
「そうか」

わたしはフィンクスの話が読めずに首を傾げた。そのとき外で声がして、時計を見ればそろそろバスケ部が来る時間だ。

「あっやばっ。フィンクスもう行こう!」

わたしはそう言って体育館の端っこに放り投げたバッグを取りに走る。体育館シューズを脱いでバッグにつめて、放置してあった外靴を履くと、別に焦るわけでもないフィンクスが体育館から出てくる。

「なんか用事でもあんのか」
「別にないけど。もうじき別の部活の子が来るし、フィンクス完全に不審者じゃん」
「それもそうだな」

不審者、というところは全然否定しないところを見る限り、やっぱりそういう風に言われるのは慣れているらしい。学校から出るにもあまり隠れるよりはある程度堂々としている方が幾分マシなので、私はフィンクスの横に立って校門まで歩いた。今更だがフィンクスは相変わらずジャージだ。
わたしがフィンクスと別れて家に帰ったその日の晩のニュースは、オスナベルガ西区の国立博物館が幻影旅団によって襲撃された、というものだった。

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2014/04/09