うめのはな
お空に雪洞(ぼんぼり)がひとつ、ふたつ、みっつとまるで星のように浮かんで、時折風に吹かれてゆぅらゆぅらと揺れていた。足元ではあやめがこちらを見て笑っている。花弁の白い筋が、にっこりと微笑むようにこちらへ向いて、それでやはり風に揺れて足をぽてぽてと叩いていた。空からぶら下がった雪洞は一体どこに繋がっているのだろうか。雪洞を吊り下げる紐の端っこは、いくら目を凝らして見ても見えなかった。さらにさらに上には天の川がゆったりと大きく蛇行をしながら流れている。ちらちらと光っているのは星のようでもあったが、実際はどうなのだろうか。風に揺れる雪洞の灯りが目に飛び込んでくるせいで瞬いて見えるようでもあった。
 さく、さく、さく、と短い草を踏み分けて歩いていく。道はない。ただ一面にあやめが咲き乱れている。丈の短い草はあやめの新しい芽であるようだった。雪駄で踏みしめると時折ぱきゅっと小さく音を立てて破裂していく。耳に心地よいその音をかなでながら、ぼんぼりがぶら下がった真下をひたすら歩いていった。
 「ぬしさまぬしさま」
 ふいに声をかけられてきょろりと周りを見回すとどこまでも続いていくように見えたあやめの原の向こうに真っ赤な鳥居があるのが見えた。先ほど周りを見たときには何もなかったと思うのに、鳥居が一つぽつんと寂しげにたっていた。その下に誰かが立っている。
 「だあれ」
 子供特有の高い声が、果てもない空間にぽんと広がっていく。目で見る限りは相当に距離があるはずなのに、相手にはよく声が届いたようで「こちらへ」と口を動かした。相手の声も手招きもまるで目前のことであるかのようによく見えた。
 「ぬしさま」
 ほんのすこうし顔を出したあやめの芽を踏んづけて、ぱきゅっと小さい音をたてながら子供の小さな足が地面を蹴る。走り出せば体は軽く、体感にしてわずか数歩で鳥居の下にたどり着いてしまった。ずっと遠くにちいさくちいさく見えていたはずのそれは、見上げると恐ろしく大きく、その足は子供が両の手をめいっぱい広げても抱えきれぬ。3人集まってようやっと手をつなげるであろうほどに鳥居の足は大きかった。
 その足元に狐が立っていた。
 「ぬしさま」
 犬歯が開いた唇の隙間からほんの少し覗いている。白銀の長い髪が雪洞と一緒に風に揺れて、時折頭頂部の犬の耳のように突き立った部分がぴょこんと動いた。風なのか、それとも中に何か潜んでいるのかとじっと見つめていると狐はからからと笑って頭をなでてくる。
 「ぬしさま、今日は蹴鞠で遊びますかそれとも花札をいたしますか」
 「けまりがいい」
 袖のどこに隠れていたかは知らないが、刺繍の美しい鞠を一つ狐が渡す。赤い花が頂点から広がっていた。重ねられた黄色い花は菊のように幾重にも花弁を重ねている。丁寧に刺されたそれは皆絹でできており、とても肌触りがよく、しばしそれをなでて遊んでいたがぽんと上に投げると狐が手にとってぽんと投げ返す。
 ぽん ぽん ぽん てん てん てん
 何が面白いのかわからないが、ただひたすらに狐と蹴鞠を蹴って遊んでいた。飽きることなく、そして途切れることもなく。まるで蹴鞠には通る軌跡があるかのようにまったく同じ弧を描いて狐に跳ねてそして蹴り返されたそれがやはり綺麗にまったく同じ弧を描いては返って来る。それが妙に面白くてくつくつと笑えば狐はごろごろと喉を鳴らして笑っていた。
 そんな遊びを梅が咲く頃まで続けた。あやめが枯れて、あじさいが咲き雨が降る。すっかりと散ってしまった桜の変わりに緑が芽吹き、枯れ、ヒグラシが鳴き、菊が花弁を重ねて幾重にも咲き誇る。月は満ち欠けを繰り返した。そうしていつしか鳥居の周りには梅が咲いていた。
 「ぬしさま」
 てん、と蹴った鞠を狐が受け取らなかったせいでそれは綺麗な弧を描きながら鳥居の向こう側に飛んでいってしまったのだった。
 「ぬしさま」
 「どうしたの?」
 「ぬしさまはそろそろ行かねばなりませぬ」
 狐は赤い瞳を細めて笑う。菊の花の色よりも濃い黄色い着物と白銀の髪が揺れていた。
 「もうあそばないの?」
 「あやめが咲いてから梅が咲くまでぐるりと季節が巡りました。ぬしさまは鳥居をくぐってお行きくださいませ」
 「きつねはどうするの?」
 「私はぬしさまが二十、梅の花を数えましたらまた迎えにいきまする。その時までしばしお別れといたしましょう」
 ぴょこんぴょこんと狐の耳はほんの少し寂しそうに揺れていた。しかしすっと鳥居の前から体を避けたので、仕方なしに前に進む。
 「ぬしさま、約束です。二十梅の花を数えたら迎えにいきまする」
 「やくそくね」
 わかったよ、と伝えると狐はにっこりと笑って「はい、それでは」と手を振ったのであった。





 まぶたを開けるとぱあと光が入り込んできて一瞬ここがどこだかわからなくなったのだった。だが幾度か目を瞬かせるとここがいつも馴染んだ自室ではなく、慣れない神社の一室であることをようやっと思い出した。折り目正しい天井の木目は、人の顔のように見えて子供の頃から嫌いだったが今は今日と言う日をただひたすらに祝って笑っているようであった。
 よく晴れた日であった。庭の紅梅も白梅も一つ残らず花を開かせ、めじろが蜜を集めに飛んできては花の間を巡っている。
 「おはようございます初名様、今日はとても良い日和でございますね」
 女の声がしてそちらを向くと、手伝いの者であった。淡い紅の着物がするりと動いて部屋の中に入ってくるとふすまを閉めてにっこりと笑いかける。
 「ご気分はいかがですか。昨晩は緊張で眠れなかったのではありません?」
 くすくすと笑う女の声に「ええ、でも夢を見たわ」と初名が答えると女は「それだけよく眠れたのでしたら今日の式の最中に眠くなることはございませんね」と笑って嬉しそうにそんなことを口にした。
 白の打ちかけ、角隠し。
 絹の純白は、ふすま越しの日の光を浴びてかすかに光沢を放っている。
 軽く髪を整えて立ち上がると、女は手早く寝間着を脱がせてから、襦袢を着せて真っ白な着物に袖を通させてくれる。持ち上げられたそれに初名がほんの少し戸惑いながら腕を通すと慣れた手つきで帯を締めた。
 今日は晴れの日であった。初名が二十歳になるこの日、向かいの家に嫁ぐのである。
 女たちの憧れである白無垢は着ても美しく、さらに白い打ち掛けに袖を通せば、新たに生まれなおすことに間違いない。黄泉の国よりつれてきた鬼は角隠しの下にしまって、この吉日に夫婦の契りを交わし改めて人として生まれ変わるのである。
 白無垢に身を包んだ初名は女に連れ添われて部屋を出る。ふすまを開くと同時に庭のメジロがいっせいにとびだって、にぎやかに門出を祝っていた。
 「あ」
 ぽん
 「どうされましたか?」
 唐突に聞こえた音は夢の中で聞いた音に似ていた。だが一度きりのそれはきっと聞き間違いにないと思い初名がいいえ、と答えようとしたときもう一度ぽんと後ろで音がした。
 「ぬしさま」
 はっとして振り返ると夢の中で見た男が立っている。夢の中では自分と同じ身長であった気がしたが、今は見上げるほどの身長、白銀の髪が相変わらず美しく頭頂部の耳のような何かが時折ぴょこんと揺れていた。
 「ぬしさま、二十梅の花を数えましたな」
 初名のすぐそばに立っている女には男が見えない様子であった。初名様、どうなさいましたと怪訝そうに声をかけて袖を引くが初名には男から目が離せなかった。
 「お迎えに参りました。さてぬしさま私と共に参りましょうぞ」
 差し出された手を断る理由がなく、その大きな手に自分の細く白いそれを重ねて、気づけば自然に「はい」という言葉が口からこぼれ落ちた。
 「帰りの鳥居はあちらにございまする」
 狐に手を引かれて初名は足を踏み出す。
 女が悲鳴を上げた。その声はどこか遠くて、初名にはまったく関係のないことのように思えたのだった。気づけば、角隠しの下で、小さな角が生えてきていたが初名はそれに気づくことはなかった。


 よく晴れた日のことであった。これより夫婦となるはずの花嫁は部屋を出た先の縁側でふいに倒れたきり、帰らぬ人となった。
 美しい白無垢と梅の花の香りに包まれて花嫁は狐に嫁入りをしたのだと、誰かがひっそりとうわさをしていた。



2015.03.21 初出
2015.04.13 掲載
2020.12.24 再掲載


梅の異名:このはな、はつなぐさ、こうばえぐさ・・・・なんてものがあるそうだ。