水と少女
「いたいの?」


 ずっと空高く、ずっとはるか遠くまで雲ひとつ見当たらない真っ青な青空が続く。時折風が死臭と血のにおいを運んでは、廃屋の間を通り抜けて消えていく。また、別の場所で死臭を集めてばら撒いていくのだろうか。乾燥地帯特有の家はどれも持ち主に見捨てられ、今は時折野生生物か盗人が中の者を持ち去るほか立ち寄るものはなかった。ここいら一体が廃墟となったのはこの数週間の間であるというのにもっと昔から打ち捨てられたかのような雰囲気が漂っているのはなぜだろうか。空っぽの水桶と風に晒されすっかり乾燥しきった洋服が、時々小さく音を立てている。
 今、風が持ち去っていった血の臭いの中にはエミヤ・シロウのそれも混じっていて、当の本人は左足が潰れ臓器に甚大なダメージを負って動けずにいたのだった。静かに静かに、誰もいない空っぽの住居の隙間。外装がほとんど剥がれ落ちた壁に寄りかかって呼吸を繰り返す。呼吸を乱せばじくりと傷がうずく。左足は骨折だけでまだ生きているようだが、すぐにはとても動けそうにない。
 (もうしばらく)
 もうしばらくの間ここで休憩をしようともう一度呼吸を落ち着けた。
 此度彼が参加した紛争自体はほとんど終結に向かって動き出している。それもこれもほとんど全てがエミヤ・シロウの活躍によるものなのだが、彼本人はそれを誉れとも思わずただ自分の理想のためにとだけ繰り返すだけだった。この紛争で、まだ救いきれなかった人間がいるのであれば、それはまだエミヤ・シロウの追い求める理想にははるか遠いものだ。世界に平和を、全ての人間に幸福をなんて、現実主義者が聞けば笑ってしまいそうなことを彼はどこへ行っても胸のうちに秘めその理想を実現すべく戦ってきた。今回の紛争も、そう。度重なる紛争の中で逃げ遅れもう命はないものと思われた数百人を掬うために、エミヤ・シロウは世界に己の死後を預けた。代わりにここの者たちを助けてくれ、と。そうして助けるべくものを助け、己は戦場に赴きただ一人でさらに多くの助けるべき人間を助けるために奮戦した。
 そのことにどれだけ意味があったのかはまだエミヤ・シロウにはまだ理解できずにいた。世界に己の死後を預け渡し英雄となった彼であったが、まだ肉を持ち出来ることには限りのある人間なのだ。人間である以上、助けられるものに限度がありそれは仕方のないものだとエミヤ・シロウはなんとなく理解していた。だからこそ死後もこの身が人のためにあるように、と世界との契約を交わすに至ったのであり、エミヤ・シロウは最初から最後までただひたすらに誰かのためにしか生きていなかったのである。今はできないことが、今はまだ意味がわからずとも、己の理想を信じ戦い続ければ必ずや世界は平和になると、エミヤ・シロウは信じていた。
 喉が焼け付くように痛んでいた。圧倒的に何もかもが足りない戦場で体を酷使し続けたせいだろう。今は家屋の影にいるといっても、強い日差しが体温を強制的に上げていく。だというのに体がやけに冷たく感じるのだ。冷や汗ばかりがにじみ吐き気と眩暈でひどい気分だった。
 「いたいの?」
 だからその時エミヤ・シロウはかけられた言葉にほとんどまともな返事を返せなかったのである。うめき声のような何かを呟いて相手の顔形もわからない。これがもしもエミヤ・シロウと敵対するものであれば、彼はその場で死を迎えただろうが、幸いにしてそのとき彼に声をかけたのは一人の少女だった。
 ひどく死臭がする、とエミヤ・シロウがぼやっとした頭で思ったのは当然だろう。彼にはその時ほとんど何も見えていなかったが、話しかけてきた少女は小さな遺体を背負っていたのだから。
 すでに脳髄まで腐り果てた、生きていたとしてもまだまともな言葉ははっきりと口に出来ないだろう年の赤子だ。ハエがうるさく飛び回っている。じぐじぐとなくなってしまった眼球の奥で蛆がうごめいている。最期の最期に掴んだのであろう、幼子は少女の服をしっかりと掴んで離さない。少女がどんなに動こうと紐で背に負われさらに片手がしっかりと少女の肩口を掴んでいたものだから、幼子はかろうじて死後も少女に背負われているのだ。
 少女は自分の周りを飛び回るハエを「うるさい」と行って叩き落としていた。
 エミヤ・シロウは小さくうめいてから、水を求めた。量が少ないのであれば、構わない、もしも余裕があるのならば少しだけもらえないか、とかすれた声で少女に告げると少女はほんの少しだけきょとんとした。おそらくもう間に合わなかった死んでいると思ったのだろう。
 「おみずはね、わたしはもってないけど、すぐちかくに川ができたからきたの。いく?」
 エミヤ・シロウはそれきり返事をしなかった。多分そのときにはもう少女の声も聞こえていなかったのだ。少女はほんの少し困ったような表情をしてから、それからエミヤ・シロウを置いてまた廃屋の中にふらふらと歩いていってしまった。彼女にエミヤ・シロウを抱えるには難しかった。そして炎天下の中延々と死者に構っていては、自分も死ぬだけだとわかっているのだ。
 建物の中に入って日差しをしのぎながら、夜になるのを待つ。埃と砂の積もったベッドの上で赤子をつぶさぬように丸くなって、少女はしばしの眠りに入ったのだった。
 少女が寝入った後も、日差しはただ強く廃村を照らし続け、そしてやがてゆっくりと地平線の彼方へと沈んでいった。雲ひとつない。放射冷却であっという間に冷えていく夜。雨は当分降らないのだろう、だがここよりもはるか遠くの山際ではつい先日大雨が降ったばかりだった。山すそより流れ大きな流れとなって砂漠の真ん中を横切る水は、乾燥地帯の動物の生命線である。エミヤ・シロウも万全の状態であれば彼がいるところから十分に水の流れる音を聞きとって見せたであろう。半年あまりにわたって乾燥し干上がった川は、今遠くの地域の恵を受けて再び潤いを得たのである。
 少女はもっと昔に母親から聞いた、その川を目指していた。
 夜になって涼しくなった空気に触れて目を覚ました少女は、幼子が起きぬように細心の注意を払って体を起こす。幼子は、当然だが泣き声一つ上げずに代わりににハエが舞った。少女は空っぽの胃がきりきりと痛むのを無視して立ち上がると廃屋の外に出る。
 晴れ渡った空は、星が非常に綺麗に見えた。だが少女はそれほど遠くを見るには疲れきっていてて、とても遠くの星に思いを馳せる余裕はない。
 昼ごろ見かけた人間はどうなっただろうか、と少女はちらりと家と家の隙間を見た。そこには昼と同じ姿勢のままぴくりとも動かないエミヤ・シロウがいた。ほんの少し近づくと、指先がぴくりと動く。こんなにも血を流してまだ生きているのだと、少女はほんの少し驚いたが結局その時近づくことはしなかった。少女もまた水に飢えているのだ。ここ二日ほどの間、空っぽになった水袋を抱えて、母親の話を信じて歩いてきた。乾いた体は水のにおいをすでに敏感に感じ取っていた。それに抗うことは難しかった。
 夜の冷たい空気に晒されながら必死で歩いて、ようやっとたどり着いた川は土と血で濁っていた。それでも構わずにほとんど顔をつけるようにして水を飲む。じゃりじゃりとした砂の感触が口の中で気持ち悪い。時折口をゆすいで吐き出してようやっと満たされたところで少女はため息を吐く。
 母親はいない。父親もいない。背負った弟だけが血のつながった肉親で、あとは知らない。同じ村の人間がどこにいったのかも、戦の中で逃げ惑ううちにわからなくなってしまった。もしかしたら自分だけが運が良かったのかもしれないと少女は思いながら、今度は袋に水をためていく。
 長い間もって歩くうちに口のところが壊れ、擦り切れ始めたそれはもう長い間水を入れておくには不十分だった。だがそれでも少女は袋一杯に水をためて、少しずつ少しずつ乾いた大地に水を撒き散らしながらそれをもって先ほどの廃屋に戻ったのである。
 夜、急激に冷えた空気は寒さを通り越していっそ痛みさえ感じさせる。特に水に触れた手からあっという間に体温が抜けていくようで、少女は何度も水の詰まった袋を持ち直し、できるだけこぼさぬようにそしてできるだけ服が濡れぬようにと最新の注意を払って来た道を戻っていった。大人の足からすればさしたる距離ではないが、まだ身の丈の小さい少女の足では川と廃村の距離も随分と長く感じる。それでも進めばやがてたどり着く。
 「お兄ちゃん」
 手を口にかざしてみて、胸に耳を当ててみればまだかろうじて生きていることはわかる。かろうじて呼吸はあり、心臓は動いている。それでも死にかけであることに間違いはなかった。最早汗も出ず唇も乾燥してしまってさらにこの出血だ。本当ならば生きている方がおかしいほどである。
 少女は震える声で小さく声をかけた。ぴくりとも動かない青年に少女は少し迷ってから、その口元に水袋の口を押し付ける。ほんの少しだけ水袋を持ち上げてやれば、袋の口から勝手に水が漏れ出してエミヤ・シロウの口元をぬらした。
 重ねて口の中に水を流しこめば、それがやがて気管にでも入ったのだろう。エミヤ・シロウはその瞬間に大きくむせて、泥の混じった水を口から吐き出した。
 喉が引きつるように痛むのだろう、エミヤ・シロウは水を吐きながら喉を押さえ、必死で咳を止めようとした。だが、その努力も空しく、全身を振るわせるような咳は止まらずついには体を壁に預けてぐったりと力を抜くほかなかった。下手に全身に力を入れているよりは幾分マシ、か。エミヤ・シロウはようやっとはっきりしてきた意識の下で、頭を振って視界を正した。
 半分以上は零れてしまったであろう水袋は、少女の足元に転がっている。エミヤ・シロウが暗がりの中ぱっと少女の顔を見てそれがおおよそ敵ではないと認識しまず、肩の力を抜いた。なんとか礼を言おうと口を開いたものの、口から出てきたのはほとんど言葉にならない何かだ。まだ乾いている喉は、張り付いてしまったように、ほとんど空気を通さなかった。
 水をもう少しだけもらえないか、とエミヤ・シロウは赤子を背負った少女に手振りで伝える。少女はいきなりエミヤ・シロウが動いたことで驚いた様子だったが、それでも臆することなく、零れてしまった水袋を渡した。
 「ありがとう」
 もう一度口をぬらせば今度はすんなりと言葉が出てきた。それでもそれは随分とかすれていたが、先ほどの喉の痛みに比べれば随分とましだった。
 「・・・・・・いたい?」
 「もう、痛くはないよ」
 エミヤ・シロウの言葉に死臭をまとった少女はほんの少しだけ笑った。紛争に巻き込まれ疲れきった目はほとんど光を持っていない。果たして幾日寝ていないのか、おおきなくまとはれぼったい目は、この砂が何度も目に入り手でこすったからなのだろう。切りそろえられていない髪の毛はつやもなく、毛先まで痛んでいる。そして何よりも少女を特徴付けるのは、本人の形質ではないがその背に背負った赤子だ。すでに死んで何日もたつだろう赤子は、一部腐っているものの、表面は乾燥が始まっている。彼女の弟か妹か・・・・性別すらも判然としないその赤子は、しっかりと少女の肩口の布を掴んで離さない故にいまだ背負われる形を保っているのだ。赤子の眼球があったと思われるところから、ハエが一匹飛び去った。
 「・・・・・ありがとう、助かったよ。君はこの近くに住んでる?」
 そんなわけあるわけがない、と思いつつもエミヤ・シロウは咄嗟に何も思い浮かばずにそんな馬鹿なことを問いかけた。少女は当然首を振る。
 「みんな、いなくなっちゃって、まいご・・・に、なったから」
 「そう、か。ずっと一人?」
 少女は頷いた。涙を流すことはなかった。
 「かわが、できるって、ままが。おみずが、ほしくて」
 「そう・・・もしよければ、ここに来てくれないかな。砂漠は、冷えるね」
 エミヤ・シロウがこわばった筋肉と傷のせいで引きつった笑みを浮べると、少女はほんの少し迷ったようだった。それでもどの道行き場もないのだろう。小さく頷いてから、エミヤ・シロウが広げた懐にちょこんと座り込む。年の頃はわからないが、その体は痩せて細い。とても子供のものとは思えないほど低い体温は、エミヤ・シロウのそれと大差ないのかもしれない。
 「・・・・名前は?俺は、エミヤ シロウ」
 「・・・・キーラ。おとうとはアレス」
 「・・・・おやすみ、キーラ、アレス」
 かつて自分が幼い頃、養父である衛宮切嗣がそうしてくれたようにゆっくりと頭を撫でてやれば、キーラはやがて静かに眠り始めた。砂漠の夜の空気に体を震わせながら、静かに夢を見る。エミヤ・シロウのそれは、幼い頃まだ自分が衛宮士郎であった頃の記憶だった。


2015.01.21
2020.12.24 掲載