朝は自然と目が覚める。閉まっている窓には鍵がかかっておらず、サヴァリスが早朝からどこかへいったのだと思わせた。
イェルチェ
は武芸科の制服に着替えて、すでに階下から漂う朝食の良い香りにひきつけられるように共有スペースにほかの皆と共に集まった。
「おはよう
イェル
」
「おはよう」
エプロン姿のリーリンに声をかけて、制服がしわにならないように座席に着席すると、ほぼ同時にレウとニーナも下りてきた。寮長でもあるセリナは昨晩から研究室に泊りがけのようで、今日はいないとホワイトボードにメモが残っている。
「おはよう」
「武芸科は朝からピシッとしてるわねー・・・・毎日毎日訓練してバイトしてよく体が持つものだわ」
レウは昨晩徹夜だったのか、目の下にくまができている。その一方で小隊を持ちながら機関部の清掃という重労働をしているニーナは朝からはつらつとしており、昨晩の疲労などどこにもないように見えた。
「そして!武芸者の!食べても太らないその体質!!うらやましすぎる!」
レウは呻きながら、ニーナと
イェルチェ
の前に並んだ食事の量を見ながらぼやいた。
「その分動いているからな」
「三食しっかり食べないとやっぱり体が動かなくなるわよね」
イェルチェ
はニーナに同意しながら言った。とはいえ武芸者には内力系活剄がある。体の内部から鍛えるこの活剄は上手く使えば数日の徹夜の疲労など無かったことにしてしまえるほどすさまじい。そもそも一般人と武芸者を一緒にしてしまうのが問題なんだろう、とニーナは思いながらリーリンの作ってくれた朝食に手をつける。今日は自分で好きなものをパンにはさんでいくタイプの食事だ。ベーコンとレタスそれから卵をはさんで、口に運ぶ。しゃきっとしたレタスの感触が目を覚ましてくれるようだ。
「リーリンはもう三年生のクラスに慣れた?」
「ええ勿論!
イェル
はどう?一年生の授業は難しい?」
「ううーん・・・・・ちょっと厳しい・・・」
イェルチェ
は目を逸らしながら言う。グレンダンでは同じ上級学校に通っていた二人だが、成績には圧倒的な差があった。常に上位をキープしているリーリンと、常に赤点ぎりぎりをさ迷っている
イェルチェ
である。勉強はしているのだが、どうも点数が伸びないのが悩みどころだ。その一方、武芸は順調なので武芸者としての有様としてはいいとは思うのだが。
「今日は午後から校舎の電気設備の一斉点検で午後は休みよね」
「うんそうみたいね。
イェル
はどうするの?」
「
イェル
は私が十七小隊の訓練に付き合ってくれと呼んだんだ」
リーリンの言葉に答えたのはニーナであった。
「第五小隊の方は訓練は夕方からなのよね。その間の時間潰しにもなるし・・・・」
イェルチェ
はサンドイッチを咀嚼しみ込んで応えた。
「武芸者は大変だなぁ・・・・」
人事のようにレウが呟く。
「慣れればそう辛いものでもないぞ、まぁ伸び悩むというのが一番の悩みと言えば悩みなのだが・・・・」
ニーナは少し思い当たる節があるのかため息をついた。
イェルチェ
はそんなニーナにかける言葉もなく、もくもくとサンドイッチを食べていく。
「ごちそうさま」
一番に食べ終わったのは
イェルチェ
だった。
「じゃあまた午後に」
ニーナに声をかけて
イェルチェ
は鞄を持つと一足早く一年生の校舎へと向かったのだった。
午後。
イェルチェ
が練武館のうち、第十七小隊が占有するスペースを訪れると、すでにニーナ、レイフォン、フェリが集まっている。シャーニッドは時間ギリギリになって現れた。今日はハーレイも来るらしい。それもそのはず、今日の稽古は鋼糸を使った戦闘なのだ。
小隊戦や武芸大会そして学園都市間の都市戦では鋼糸を武器として使うことは認められていない。これは鋼糸があまりにも強力かつ危険な武器であると判断されたからである。学園都市以外ではそもそもそのような規定はないのだが、それもそのはず鋼糸を使う武芸者が槍殻都市グレンダンにしかいないからである。
だが今回あえて鋼糸を使った訓練をしたいと言い出したのはニーナだった。ついこの間のように思える汚染獣戦ではレイフォンはすべて鋼糸を使いつつ、普段の剣を用いて戦っていた。鋼糸と言う武器の危険性からニーナたちはレイフォンの補佐も補助も出来ず、ただほんの少し作戦に関わることしかできなかった。だが今後ツェルニがまた汚染獣と接することがあれば、レイフォンは勿論
イェルチェ
も鋼糸を使って戦うことになるだろう。そのときに汚染獣との接触経験のある第十七小隊は前線に置かれる可能性が高い。そのときに鋼糸という武器をよく知らなければ結局以前のように何も手出しが出来なくなる。それを危惧してのニーナの提案だったのだ。通常鋼糸はロックがかけられた状態だが、今回の訓練に当たって生徒会にも話を通してあるため、レイフォンの鋼糸もロックが解除されている。
「レストレーション01」
イェルチェ
の復元鍵語と共に、彼女の手の中にあった錬金鋼は一千万にも及ぶ細かい糸になる。
イェルチェ
はそれを何の苦もなく練武館の中に広げ、まるで綾取りのように編み上げて、千変万化の足場を作り上げた。
「全員に見えるように、剄を多めに通しておくわね」
イェルチェ
は言いながら地面を蹴って鋼糸の上に立つ。
「鋼糸を使う相手との共闘は主に、鋼糸で出来た足場を利用することが多いの。敵にとってはその身を切り裂く蜘蛛の巣で、味方にとっては空中戦の貴重な足場になるのよ」
まずは足元の細い糸の上に立つところから練習しましょう、と
イェルチェ
は言ってニーナとシャーニッド、ダルシェナそしてナルキの前にキラキラと輝く一本の糸を用意した。
「足に剄を集中させることを忘れないでください。戦闘用の装備とはいえ簡単に切れてしまいますので」
とレイフォンは忠告を交えてから自分も地面を蹴って
イェルチェ
と同じ高さまで飛ぶ。
第十七小隊ではレイフォンの提案により普段から球を使って、その上でバランスを取る訓練を行っている。その成果もあるのだろう。四人とも比較的バランスよく一本の糸の上に乗ることが出来た。一番得意なのがシャーニッドで、一番苦手なのがニーナといったところだろうか。一本の糸、という非常に不安定なところでまだ全員体が硬くなっている。
「乗れたら、次は跳躍して次の糸へ。階段を作るから私たちのところまで上ってきてみてね」
イェルチェ
は錬金鋼をほとんど動かさない。だが剄の通った金色の糸は
イェルチェ
の意図するように自由に動いて、四人の前に階段を作り上げた。
「よっ、ほっ」
最初に動いたのはやはりシャーニッドだった。
「周囲の糸にも気をつけてくださいね。手を触れると切れますよ」
レイフォンの忠告を受けながら、シャーニッドは器用に糸の上でバランスを取り、そしてあっという間にレイフォンと
イェルチェ
の高さまで上ってくる。
「乗るだけならそんなに苦労はしねぇけど、これを戦闘中にやるってのはなぁ」
「慣れちゃえば割と面白い足場よ?」
イェルチェ
は目の前の鋼糸をぴんと指で弾く。びぃぃぃんという糸の振動があちらこちらに伝わって、部屋中で剄の振動が生じる。
「これだけでも幼生体には十分なダメージを与えられるけど、老成体は硬いから、糸を振動させてのこぎりみたいにして外皮を切り裂くの」
「うひゃー絶対にそんな攻撃受けたくねぇわ」
「糸の振動は剄ですか?」
「そうよ」
レイフォンの問いに
イェルチェ
が答える。レイフォンは目の前の糸を指で弾きながら何か考えている様子だった。
下ではまだ糸の上での跳躍と着地に苦戦している三人が、落ちてはまた最初からというのを繰り返していた。周囲の糸もそうだが、何本かをまとめて太くしているために、三人がいる周辺の鋼糸には触れても怪我はしないだろう。
シャンテが夜になると勝手にどこかへ行ってしまうのはもう第五小隊の誰もがなれたことだった。
今日の訓練は終了となったところで、シャンテの姿はなく、簡単に練武館の清掃を済ませてから、全員が帰路に着く。
イェルチェ
とゴルネオは寮の方向が同じため、自然と二人で夜道を歩くことになる。
「今日の訓練だがどう思う?」
「いいんじゃないかしら、そもそも連携という点では第五小隊はほかのところと比べても優れているし、あとは個々人の能力を上げるっていうゴルの考え方は適切だと思うわ」
「そうか・・・・とするとあとはシャンテをどうするかだな」
昔から剄量だけでいえばゴルネオをはるかに凌駕する剄を持つシャンテは、その力を完全に発揮できているとは言い難い。ありあまった剄をムダに放出している部分が多く、持久戦となったときにやや不安が残る。
「うーん・・・・・剄量が純粋に多いのはレイフォンだから、正直彼に稽古を頼むのが一番だとは思うんだけど・・・・・」
イェルチェ
の言葉に、レイフォンとは色々と確執のあるゴルネオは眉をひそめた。だが同時にそれが一番であることも理解しているのだろう。
「
イェル
ではだめか?」
「私でもいいけど、うーん私の剄の扱いは鋼糸がメインだから、繊細すぎてシャンテには合わないんじゃないかなって」
「そうか、
イェル
に教師役をしてもらえるならそれが一番なんだが、な」
「適材適所ね」
イェルチェ
はゴルネオの言葉に苦笑しながら言った。
商店街を通り過ぎると、光の数は明らかに減り、アパートが並ぶ地区に入るとカーテン越しの軟い明かりとなって二人に降り注ぐ。そしてさらに行くとアパートの数が一時的に減り、明かりは街灯だけになった。今日は訓練について相談をしたいということもあって、いつもの帰り道よりも少し遠回りをしている。故に人通りの少ないところを通ることになったのだが、二つ向うの街灯の下、設置されたベンチに誰かが座っていて、二人は自然と背筋を伸ばした。
「や、弟子二人が仲良くやっているようで安心したよ」
気軽な声が降って来る。
ベンチに腰掛けていたのはサヴァリス、ゴルネオの実の兄であった。
「兄さん、なんでこんなところに、今日稽古は」
「ああ違う違う。今日は稽古をつけにきたんじゃなくて、
イェル
に用事があって」
その瞬間だった。ゴルネオの背筋にゾワリと寒気が走る。兄の口元は笑っているが、目が笑っていない。明らかな威嚇と牽制だと、その瞬間にゴルネオは思ったのだった。
「・・・・そ、したら俺はここで」
いつもの別れの挨拶もなく、ゴルネオはさっと二人に背を向けて、ほんの少し早足になりながら、来た道を戻って行った。その間もその背に注がれる視線はいつもよりずっと厳しく、そして嫉妬に似た何かが混じっている。最初はゴルネオにも信じられなかった。だが数日置きに行われる稽古を思い返せばすでにその片鱗があったこともなんとなしに理解できる。
嫉妬。劣情。
そんなものがゴルネオの頭の中に駆け巡った。今まで兄とは無縁であったろうその言葉がひどく現実味を帯びて目の前に転がっている。そして同時に兄はそのことに気付いていない、完全な無意識のうちの行動であろうことも予想できた。
(兄さんは、
イェル
のことを)
「サヴァリス、様・・・?」
少し様子がおかしいことは
イェルチェ
にもすぐに伝わった。彼女の声と体が震えている。普段とは違う得体の知れない恐怖がそこにある気がした。
おいで、と手招きするサヴァリスに抵抗ができない。
ふらふらとした足取りで、街灯の下まで足を運ぶと、サヴァリスが若干
イェルチェ
を見上げる形で、目を合わせてきた。その視線にはゴルネオが感じた嫉妬はなくなっていたが、その代りに小さな欲が入り混じっている。
イェルチェ
はそれを敏感に感じ取った。
サヴァリスの手が
イェルチェ
の頬に触れる。温もりがあった。こんな風に触れられるのは初めてだ。
「サヴァリス様・・・?」
何かあったのですか、と問う前に唇が重なる。頬から後頭部へと移動した手が
イェルチェ
の体をサヴァリスの方へ引き寄せて、
イェルチェ
は半ば倒れこむような形でサヴァリスの腕の中に受け止められた。
姿勢が悪くて自分から離れることができない。サヴァリスとの距離の近さに思わず目を瞑って身を堅くすると、始まったのと同じように唐突に触れた唇は離れていった。だがいまだサヴァリスの顔は
イェルチェ
の目と鼻の先にある。その状況にこれ以上絶えられる気がしなくて、必死でここから離れる方法かそれか会話の糸口をと頭を回すもいい案は何も浮かばなかった。
そうしている間にもサヴァリスは
イェルチェ
をじっと見つめていて、そして彼のほうが先に口を開いた。
「
イェル
は何故僕のことをサヴァリス様って呼ぶんだい。ゴルネオとは一年生と五年生で先輩と後輩の関係なのに愛称で呼んでるのに」
「それは・・・」
その理由は簡単だ。サヴァリスが天剣授受者で槍殻都市グレンダンの守護者であるから。女王陛下に仕える最強の武芸者の一人であるからだ。
「君の友人はレイフォンのことを様、とは呼ばないけど」
「り、リーリンとレイフォンは幼馴染です、から」
サヴァリスの圧力に屈しないように必死で舌を回した。それでも最後は知りきれ蜻蛉のように声が小さくなっていく。
「気に入らないな。なんで気に入らないのか僕にもわからないけど、気に入らない。ああこういうことはトロイアットさんに聞けばわかるのかな?でも今は彼はいないわけだし、困ったね。ねぇ
イェル
、僕のことをサヴァリスって呼んでよ」
サヴァリスは目を細める。
イェルチェ
と同じ翡翠色の目が街灯の明かりにキラキラと輝いて、サヴァリスのはっきりとした意思を伝えていた。
「
イェル
」
重ねて名前を呼ばれる。
今?ここで?
イェルチェ
は困惑していた。
イェルチェ
はサヴァリスのことが好きだと自覚していた。それはリーリンによってもたらされたものであったが、そう自覚してからは出来る限りそれが表に出ないようにと思っていた。なぜなら、サヴァリスが求めるものは女ではなく戦場だ。せめてサヴァリスの出る戦場についていけるようになるまで、自分の気持ちは隠したままにしたいと思っていた。だからこそ、サヴァリスの方から距離を縮めようとしてくるのは
イェルチェ
にとってとても嬉しいことではあった、だが同時にサヴァリスはいまだ事実をはっきりと自覚していないのが悲しくもあった。サヴァリスは
イェルチェ
のことが好きであると自覚せずに、自分の中に生まれたわけのわからない感情に振り回されているだけなのである。戦闘で得られる高揚感とも違う、自分の技を最大限に発揮できる喜びとも違う。誰かを好きになる、ということをサヴァリスはいまだ知らない。
「
イェル
」
重ねて名前を呼ばれる。
イェルチェ
は震える唇をゆっくりと開いた。
「サ、ヴァリス・・・・・・」
消え入りそうな声だった。今にも泣きそうな声だった。そう呼べるのが嬉しかった。
慣れてしまえばいいのだ。リーリンがレイフォンをレイフォンと呼ぶように、自分もサヴァリスのことをただ名前で呼ぶことに慣れてしまえば、それでいいのだ。でもそこにサヴァリスの思いがついてきていないことが悲しい。サヴァリスの思いがついてきてないと気付いてしまう自分が悲しい。
「うん、それがいいな。それがいい。これからはそう呼んでね」
サヴァリスはひどく嬉しそうだった。先ほどゴルネオに向けた殺気はなりを潜め、かわりに今から汚染獣と戦うのだというほどに嬉しそうだった。
「それじゃまた」
サヴァリスはそれだけ言うと、
イェルチェ
の髪に軽く触れてその場を去った。
イェルチェ
はその場にぺたりと座り込む。今あったことが本当のことなのか、触れた唇の感触を思い出し頬に熱が集まった。気付けば泣いていた。涙は次から次へと溢れて止まらず、立ち上がることも出来ない。
「・・・・・
イェル
?」
背後から声がかかる。
「・・・・・リー、リン・・・?」
声を抑えて泣いていたのが崩壊したように、彼女が伸ばしてくれた手にすがって、わぁわぁと子供のように泣き散らした。暗い街灯のベンチの下で、先ほどのことをすべて話して泣いた。
好きなのだ、サヴァリスのことが。でもサヴァリスは決してそうではない。彼の中に確かにそういう感情は芽生え始めているけれども、それはまだ自覚できるほど大きくなくそして、サヴァリスはそういった方面においては全く成熟していない。それが成熟した時にその思いは自分に向いてくれるのか、それは誰にも保障できない。だから悲しかった。好きだから声をかけてくれるのではなく、自分の感情が理解できないままに暴力的に振るわれる言葉や行為がただひたすらに悲しかった。でもそれは仕方のないことなのだ。子供が好きな子をいじめるような、サヴァリスは今まさにそんな段階にいる。でも
イェルチェ
はとっくにそんなところを卒業している。
「待とうね。一緒に待とう
イェル
」
少しでも感情が芽生えてきたのならば、それはいつか必ず成長するだろう。その時がいつかはわからないが、きっとくるのだとリーリンは思いながら
イェルチェ
の頭を撫でた。
ごめんねリーリン、今日だけ泣いたらあとはまた頑張れるから、と
イェルチェ
は泣きじゃくりながら言う。
「そうだね。だったら今日はいっぱい泣こう」
街灯だけが二人を見守っている。
夜の町の明かりはずっと遠くにあった。
20160927