その日、あの流れるような美しい銀髪を見つけたのは本当に偶然だった。
 何かに悩んでいるようで、最近休みがちなリーリンの代わりに授業のノートを一通りまとめて図書館を出たとき、学院の教室越しにいつものように活剄で自然と強化された視線が銀髪を捉えたのであった。
 あれほど美しい銀色を、イェルチェは一人を除いて知らない。サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスである。
 ルッケンスの武門の正当な血筋であり、ルッケンス家からは二人目の天剣授受者。レイフォン・アルセイフの次に若くして天剣授受者となった男。そして、今はイェルチェの格闘技と化錬剄の師匠でもある人であった。
 サヴァリスがイェルチェの訓練に顔を出すのは毎日ではない。普段何をしているのかは知らないが、大体三日か四日おきに突然現れてはルッケンス家の道場を勝手に使って、時には都市の外縁部で修行を見てくれる。大抵は彼との組み手で剄をいかに変化させるかについて学ぶことが多かった。内力系活剄の循環がだいぶ上達したとはいえ、まだ肺の弱いイェルチェはそう長いこと体を動かせない。ゆえに動作は速度ではなく技量を重視したものになる。すでに多くのことを教わったが、実際の戦闘では鋼糸を使うことが多く、サヴァリスから得たものを試す機会はまだあまりないといってよかった。
 イェルチェはすぐに声をかけようと思った。実はこの一週間サヴァリスはイェルチェの前に顔を見せなかったのである。たかだか一週間とはいえ、会えるとなると心が弾む。イェルチェはこのときすでに自分がサヴァリスに恋をしていることをはっきりと認識していた、いやリーリンに認識させられたのだった。始めての行為には、今も多少戸惑うことはあれど、受け入れられるほどにはっきりと自覚した恋心は、まだサヴァリスには打ち明けていない。
 校舎をぐるりと回るより突っ切った方が早い、と思って校舎に入る扉を探しているとき、サヴァリスの隣にもう一人の女性がいることに気付いて動きを止める。
 シノーラ・アレイスラ、この上級学院でのイェルチェとリーリンの先輩であった。これが他の女生徒であればあまり気にもしなかったのだが、シノーラとサヴァリス、この二人のならびになんとなく声をかけることがためらわれる。それは、二人の醸す雰囲気でもあったし、シノーラという完璧な外見を持つ女性のせいでもあった。整った顔立ちをしたサヴァリスの隣に並んでも劣るどころか勝るほどの美貌を持つシノーラ。その間に入ってサヴァリスを話をするだけの器量が自分にはあるだろうかと一瞬思ってしまい取っ手にかけた手が止まる。そしてそろそろとその場を離れた。
 サヴァリスに会うだけならまだいくらでもチャンスはある。何も今である必要はないのだ。そうだ、今は何か二人きりの雰囲気を作っているし、無理に私が割り込む必要もない。そう思って場を離れようと思ったとき、一瞬サヴァリスと目が合った。
 頭の中が空っぽになる。目が合ったのは決して錯覚でも勘違いでもない。武芸者であるサヴァリスにはこの程度の距離でイェルチェを見逃すはずがない。だから余計に混乱して、ほとんど反射のようにイェルチェは衝剄を使いその場を逃げ出したのである。
 鞄を胸の前に抱えて、上級学院の敷地を飛び出し、隣接して建築された居住区の路地裏をじぐざくに走る。自分がどこを走っているかなんてもうわからない。とにかく距離をとって、それから、それから?何をしているのか何をしたいのかもはっきりしないまま逃げて、そのうちに呼吸が乱れた。
「ごほっ、ごほっ・・・・」
 イェルチェの肺は汚染物質に適応した特殊な肺で、エアフィルターに汚染物質を除去されているこの空間は清潔すぎた。故に中途半端な活剄で激しい活動をするとまず肺が呼吸の乱れを生むのである。剄が乱れるのがわかる。次の曲がり角に入ったところでそれ以上走れなくなり、足を止めて必死で内力系活剄に意識をまわした。
「呼吸の乱れは剄の乱れ。いくら混乱しようとそこは自然に出来るようにならないといけませんよ」
 と、諭すような声。
 その聞き覚えのある声にイェルチェはさらに混乱して顔を上げた。
「さ、サヴァリス様!」
 先ほど上級学院で目が合って逃げようとしたその人本人がいつの間にかここにいる。壁に手を当ててこちらを覗き込むサヴァリスの表情は優しく、笑みを浮べたもので、思わず赤面した。距離が、近いのだ。
「殺剄もしてないで逃げても武芸者ならすぐにわかるよ。で、なんで逃げたのかな」
「あ、えっと、その」
 にこにこと、この笑みはイェルチェをからかっている笑みだ。
 まさかシノーラとサヴァリスがあまりにもお似合いに見えて、気後れして逃げ出したなど口が裂けてもいえない。そんなことを言ったら、まるでイェルチェがサヴァリスに恋をしているみたいではないか、いや実際にはそうなのだが、だからこそいえないのである。
 言葉に詰まって顔を真っ赤にしているイェルチェをサヴァリスは面白そうに眺めている。ちょっと前までならこんなものいかほども興味はわかなかったが、イェルチェの殺気を身に浴びて以来、あの初陣以来イェルチェをからかうのが楽しい、とサヴァリスは思っていた。それは恋心というよりも兄目線の妹をからかうような感覚が強かったが、なんにせよ昔のサヴァリスならそんな感情すらもなかったに違いない。戦闘狂の彼は、戦闘以外に自分を高揚させるものはないと思っていたし、今も思っているのだから。だからこれはサヴァリスにとってもちょっとした変化なのである。
 サヴァリスはイェルチェの顎に指をかけてこちらを向かせる。そうすると耳まで真っ赤にしてあの、そのと言葉にならない言葉を発する。それが面白くてしょうがなかった。
 もう少しだけいじめてやろう。サヴァリスがそんなことを思ったとき、それをさえぎるように裏路地に響き渡った声は、サヴァリスもそしてイェルチェもよく知る声だった。
「ちょーっとまったぁ!!サヴァリス、あたしのイェルをからかうのはそこまでよ!」
「し、シノーラさん!?」
「へい・・・・あー・・・・シノーラさん何故ここに?」
「それは勿論面白そうな匂いをかぎつけたからに決まってるじゃない。ほらサヴァリスはどいたどいた」
 天剣授受者にこんな態度を取れるというのはどういうことなのだろう、と思う前にシノーラなら相手が女王陛下であったとしてもこんな態度を貫きそうだ、なんてことをイェルチェは混乱する頭で思った。
「ほら」
「あ」
 シノーラはイェルチェの手を引く。そしてサヴァリスの包囲網から彼女を連れ出すと、じゃあね!と気軽な挨拶をサヴァリスに投げかけて、路地裏から出て行くのだった。
「やれやれ、折角面白かったのに、陛下の邪魔が入るとは思ってもいませんでしたねぇ」
 少しばかり残念そうなサヴァリスの独り言は誰も聞いていなかった。



 再び上級学院に戻ってきた二人は、この間と同じベンチに座る。まだ混乱が続くイェルチェは飲み物を買ってきます、と言ったがそれよりも早くシノーラに暖かいコーヒーの缶を渡されてしまえばそれを受け取るほか無かった。
「全くもう!皆して面白そうな場面にあたしのこと呼ばないんだから!!」
「お、面白そうな場面でしたか!?」
 とてもじゃないがそんな場面ではなかった。イェルチェからすればネコに追い詰められたネズミの気分だったのだ。思わず泣き声でそんなことを言うと、シノーラがはいはいごめんごめんと適当に謝ってくる。
「で、サヴァリスに追い詰められた感想は?」
 突然、方向転換した話にイェルチェの頭はついていかなかった。数秒して意味を理解するとまた頬に熱が集まってくる。
「か、感想!?」
「そーよ、まあたしほどじゃないけどサヴァリスもそれなりの顔立ちじゃない?トロイアットとはちょっと系統が違って、女の子なら迫られたら落ちるんじゃないかなって。あたしは絶対嫌だけど」
 さらりとサヴァリスを全否定することを忘れないシノーラは、ぐいっとイェルチェとの距離をつめる。
「顔を真っ赤にしてたイェルちゃんは、もしかしてもしかして、サヴァリスのことが好きなんじゃないのかなって先輩思っちゃってね〜」
 シノーラの声はあくまで楽しそうだった。先ほど何を話していたのかはわからないが、あの時ちらりと見たシノーラの険しい表情はどこにもない。ただ明らかに後輩をからかう新しいネタを見つけ出したといわんばかりの表情なのである。
 耳まで赤くしうつむいたイェルチェの反応がシノーラの問いに対する答えだ。
「ほほう、つまりあのサヴァリスのことが好きだと」
「うっ、あ、は、はい・・・・・その・・・・・・身分違いだとは分かってるんですけど・・・・・」
「えーいいんじゃない?歳の差がちょっとあるけど大したことじゃないしー、イェルちゃんも武芸者だしもう初陣も済ませてるでしょ?実力は十分ならルッケンス家にアタックしたって何の問題もないと思うけど?」
「え、あ、え!?」
 いつの間にそんな話になっているのか、イェルチェはもう言葉も出ずにあわあわと両手を体の前で振る。
「す、好きなのはそうですけど、でもルッケンス家の一門に入りたいとかそんなんじゃなくて、ただ遠くから見てす、素敵だなってその」
「遠くから見てるだけ?そんなのもったいなーい!!若いんだからもっと積極的にいきなさいよ!!」
 シノーラは言う。イェルチェがさらに顔を赤くする。そろそろふっとうして倒れそうだ。暖かいコーヒーより冷たい水のほうがよかったかもしれない、なんてことをシノーラは思う。
 シノーラ、いやアルシェイラから見てイェルチェの恋はわりとはっきりしたものだし、別段奇妙なことでも珍事でもなんでもないように思えた。問題はサヴァリスの方だ。十三歳という年齢で天剣授受者となった彼は、当初からその性格に問題があった。いや天剣授受者ほぼ全員がその問題に近いものを抱えているのかもしれないが、サヴァリスはルッケンスの創始者であり天剣授受者であった人物の先祖返りかと思われるほどの戦闘狂なのである。本人自身、あれだけの顔立ちでありながら、トロイアットと違い女に一切興味を抱かず、ただひたすら戦闘を求め、戦闘の中でのみ高揚感を得、それ以外は全く感心がない。以前女王暗殺の話が持ち上がった際、サヴァリスも暗殺者のうちに名を連ねていたのだが、その理由が女王と戦いたいから、とくればもう生粋の戦闘狂である。彼には政治も女もどうでもいい。戦闘に関することにのみ饒舌になり軽口を叩くようになる。それ以外はまるで無関心であるかのように口を開かない男であるのだ。
 だがそれが先ほどの反応はどうだろうか。あの時イェルチェが校舎越しにサヴァリスとシノーラを発見した時、二人もまたイェルチェの存在に気づいていた。イェルチェが何を思ったか活剄を使ってまで逃げ出したことも見ていた。そこまではいいのだ。サヴァリスも逃げ出すまではただイェルチェの存在に気付いたという風を装っていた。だがその後、イェルチェが逃げ出した途端、シノーラいやアルシェイラとの会話をわざわざ切り上げてまで彼女のことを追いかけたのである。そしてその上での路地裏でのあのからかい。今まで戦闘に関わること意外で軽口を叩いたことなんかないんじゃないかと思われていたサヴァリスのイェルチェに対する反応。これは最早人嫌いのリンテンスがイェルチェを養女に迎えたのに等しい珍事なのである。
(あのサヴァがねぇ・・・・・まさか誰かに固執するなんてことあるなんて思ってもみなかった)
 シノーラは思う。故にシノーラからすれば、リーリンよりははるかに重要度は下がるのだが、一方で興味津々な出来事なのであった。
(今度サヴァもいじってみようかしら)
 この世界で最強の女王は笑みを深くする。そして今にもなきそうなイェルチェ・ハーデンを抱き寄せてその胸をもみあげるのだった。



20160919