「シノーラさん」
イェルチェ
・ハーデンはいかにも頭が痛いという風に頭を抑えながら、机から降りてください、と言うので精一杯だった。
シノーラはようやっと気付いてくれた、とばかりに満面の笑みを浮べて、それから
イェルチェ
の胸をわし掴むことも忘れずに机から降りる。周囲の視線が痛かった。
「今日はリーリンは道場の方で何かあるということでお休みですよ」
「うん知ってるー」
満面の笑みを浮べながら
イェルチェ
の後をついてくる彼女は、本当の名をアルシェイラ・アルモニスという。その名はこの槍殻都市グレンダンの女王の名だが、何のきまぐれか彼女はシノーラ・アレイスラという名前を名乗ってこうしてグレンダンの上級学院に通っているのであった。
だが、そのことを知るのは天剣授受者と王宮にかかわりの深い何人かの者だけである。現天剣授受者リンテンス・サーヴォレイド・ハーデンの養女である
イェルチェ
・ハーデンは残念ながら女王の顔を見たことはなく、シノーラとアルシェイラが同一人物であることを知らなかった。故にこうして同じ学院の先輩と後輩として付き合えているとも言える。
「今日は
イェル
にちょっと用事があってね」
「はい?私にですか?」
「うんそーそー。とりあえずなんか買ってこよ」
そういうとシノーラは本を抱えたままの
イェル
の手を引いて図書館の外へと出る。近くの自販機で飲み物を二つかってから木陰のベンチに座ると、
イェル
も文字ばかり見ていた頭が少し休まるのを感じるのだった。
グレンダンは学園都市ではない。また文武でいうならば特に武に偏った都市だ。部門の家や道場はそこかしこにあり選ぶのに苦労する一方で、勉学を行える場は初等教育学院とそれから上級学院ぐらいのものである。グレンダンで育てばそのほとんどが初等教育学院に通うので、同年代であれば都市のどこに住んでいても顔なじみということは非常に多かった。そして初等教育学院の上にシノーラやリーリンそして
イェルチェ
の通う上級学院があるのである。上級学院まで進むもの初等教育学院の半分程度だろうか。
イェルチェ
は初等教育学院を半分ほど通い、その後上級学院の試験に突破したので今は一年生という形で所属していた。そこで出会ったのがサイハーデンの武門で一時期有名となったリーリン・マーフェスであった。彼女とは出会ったときから気があい、今ではとても良い仲の人物である。同じ孤児で、養父に育てられたという生い立ちも関係しているのかもしれない。シノーラ・アレイスラと知り合うことになったきっかけもリーリンであった。上級学院の先輩として研究室に所属しているらしいシノーラは、こちらから探すとなるとなかなか見つからないが妙なときにひょっこりと顔を出すことで研究室でも有名らしい。
イェルチェ
にとってもそれは同じで、今日突然現れたシノーラには驚きつつももういつものことだと慣れ始めている。
「それで、話とはなんですか?」
「ん〜〜うーんとね、ちょーっと気になってはいたことなんだけど、
イェル
の名前って
イェルチェ
・ハーデンよね?」
「はいそうですが」
イェルチェ
はそれだけでおおよその話を理解した。
「ハーデンってもしかしてリンテンス・サーヴォレイド・ハーデンのハーデンかしら」
「その通りです」
槍殻都市グレンダンにおいて天剣授受者と言う物は非常に有名だ。だがその十二人(現在は十一人だが)の正式な名前を正確に把握しているかというとそうでもない。サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスのように出身が有名な武門であれば知られていることも多いが、リンテンス・ハーデンという外部からこのグレンダンへやってきた人物の正式な名は知られてないこともある。ただリンテンスという名前が一人歩きしているような状態なのだ。
だが気付く人間は気付く。リーリンと始めてあったときもそうだった。最初はなにか勘違いかと思っていたのか聞かれなかったが、仲良くなるにつれて自然とその話になった。
イェルチェ
が、現天剣授受者の娘であるという話である。
イェルチェ
からすれば別に隠してなどいなかった。自分が武芸者であることも勿論、リンテンスの養女であることも、だ。そう、
イェルチェ
は正式にリンテンスの娘というわけではなく養女という扱いになる。しかしリンテンスがその養父としての申請をしていないため、
イェルチェ
・ハーデンは実のところ親のいない人間であるとも言えるのだった、が今はそれはあまり関係ない。リンテンスは確かに
イェルチェ
の養父としての仕事を果たしているのだから。
リンテンスは
イェルチェ
がリンテンスの養女であることを隠せ、とは言わなかった。気付く人間は気付くし、気付かない人間は気付かない。それでいいと思っているのであろう。
「やっぱり!!ハーデンって苗字は珍しいし、もしかしたらって思ってたんだけどそうなんだ〜!リンテンス・・・・あのリンテンスが父親・・・・ねぇ」
「正確には養父です。お養父さまは結婚していらっしゃらないですし、私も五歳のときに縁あって拾ってもらった身なので・・・・」
「あ、そうなの?ううんでもそんなこといいのよ、今はあの人嫌いで有名なリンテンスが父親やってるってことのほうが重要なのよ!!」
「は、はあ?」
シノーラの勢いに押されて
イェルチェ
は少し後退する。
槍殻都市グレンダンでは、多くの一般人そして武芸者が天剣授受者に大しては何かしら敬称を付けることが普通だった。汚染獣の巣に進んで進む異常な都市、その安全を守ってくれる最強の武芸者集団が天剣授受者なのだから当然なのだが、シノーラはそれをしない。まるで知り合いであるかのように話すので、時々感覚がおかしくなってくる、そんな錯覚を
イェルチェ
は覚えるのだった。
「で、ちゃんとお父さんやってるの?」
「ええっと・・・・ちゃんと、という基本がわからないのでどうしようもないんですけど・・・・・」
「なんかしてくれる?」
「大体ソファーで寝てます」
ぶはっとシノーラが噴出した。
「あと読んだ本を片付けてくれません。それにソファーから一歩も動かずに鋼糸で全部・・・・あ、お養父さまの武器なのですけれど、で片付けちゃって・・・・・・」
いかにも困ったという表情の
イェルチェ
にシノーラはげらげらと笑い続ける。そのままベンチから転げ落ちるんじゃないかと思うほど笑ってから、涙をぬぐいながら「あのリンテンスがねぇ」と言うのだった。
「シノーラさんはお養父さまが戦っているところを見たことあるんですか」
「うん、ちょっとねー」
通常汚染獣であれ都市戦であれ、戦闘が始まる場合には一般人はシェルターに入るのが普通である。シノーラはどうもただの一般人ではない、ということはなんとなく
イェルチェ
も察していた。ただそれがどういう意味で一般人と異なるのかはなんとも言えないのだが、武芸者ともまた違う気がする。故にリンテンスが戦っているところを見たことがあるといっても不思議なことにそれが嘘だとは思えなかったのだ。
「武芸者として強いのはわかりますけど、せめて換気ぐらいはさせてほしいんですよ」
はぁ、とため息をつきながら毎朝の養父との攻防を
イェルチェ
は思い出す。朝起きて換気をしようとすると、空気が流れるのがいやなのか、低所得層の集まる居住区の臭いがいやなのか必ず
イェルチェ
が開けた窓を閉めるのだ。それも鋼糸で。おかげで毎朝毎朝、養父の鋼糸を引き剥がしながらまたつなげられそれをもう一度引き剥がして窓を開けるという苦労に見舞われているのである。その間リンテンスは一歩も動かずにいるのだった。煙草の灰もすべて鋼糸で片付ける、ずぼらだ、と真っ向から天剣授受者のリンテンスに言えるのはもしかしたら養女の
イェルチェ
ぐらいなものかもしれなかった。
「とにかくずぼらなんです。粗大ゴミに出そうと思ってたものを鋼糸で全部切り裂いてゴミ袋の山を作ったりして」
リンテンスは人が彼の家を訪れるのを極端に嫌うのだ。宅配便なども居留守を使うことが多く、そのたびに
イェルチェ
が受け取りに行くことも多かった。
「いやーでも怒られたりするの?」
「ええっと昔はよく。拾われたので、食事のマナーとかが悪いという以前にわかってなくて、食事のときはよく手を叩かれてました。食器の扱い方を教えてくれたのもお養父さまですし。あっ小さい頃は一緒にお風呂に入ったこともありますよ」
「本当?その光景をものすごく見てみたいんだけど」
「もう入りませんよ」
「わかってるけどさーでも本当にあのリンテンスが父親やってるのねぇ・・・・・・驚きだわ」
シノーラは
イェルチェ
が武芸者であることを知っている。だが、それが何故上級学院に通っているのかについて問うことはあまりなかった。そして
イェルチェ
自身は上級学院では武芸者であることを隠してもいた。
武芸者は普通武芸それそのものだけで身をたてていけるので、あまり学校というものに通ったりしないのだ。特にこのグレンダンでは、一般教養はともかく専門教育を身に付けるぐらいなら武芸者は武芸を磨け、といった風潮もあり、上級学院に通う武芸者はおそらく一年の中では
イェルチェ
だけだろう。
最初は
イェルチェ
も何故初等教育学院までではなく上級まで行けというのか、と養父に尋ねたことがある。学院に通う金はすべて養父が払っているし、自身が武芸者でもあったので当然の疑問だった。だがその質問に対する養父の応えは「生きるため」であった。武芸でも身をたてよ、と言う。そして一般人としても身をたてよ、という。正直な話、初等教育・一般教養はともかく上級学院の勉学は
イェルチェ
には厳しいものがあった。武芸に関しては15歳にしてリンテンスの鋼糸をかなり会得するほどの才を見せ、また剄の量も天剣に等しいほど多い
イェルチェ
だったが、勉学はそこまで得意ではないのである。だが養父が行けというものを断ることは出来ない。結果、
イェルチェ
はリーリンに教えを請いながら何とか必死で上級学院の勉強について言っているのである。
リーリンは頭が非常によかった。昔から孤児院の経営を見て感じてきたからというのもあるのだろうが、素地が良いと
イェルチェ
は思っていた。そして自分は勉学に関してはさほど才はないと思っていた。
「ま勉強が出来るか出来ないかなんてねぇ、試験通っちゃえばなんでもいいのよ!大変そうだけど、でも武を捨てても生きていけるようになんて、リンテンスも色々考えてることはあるのね」
「そう、なんだと思います」
リンテンスは二十歳のときに自分の都市に嫌気が差して五年間放浪の旅を続けている。その間に色々と考えることもあったのだろう。そして最終的にグレンダンに落ち着いて娘をもってからも考えていることはたくさんあるのだと
イェルチェ
自身も感じていたので「生きるために」と言われたときに素直に頷くほか無かったのである。
「あーでも次の試験が憂鬱なんです、私文字読むのが得意じゃなくていくら本を読んでも目が滑っちゃう・・・・」
読めないことはないが得意ではない。遅いことは無いが、読んだことがすぐに理解に繋がらない。鋼糸ならなんとでもなるのに、というのはある種
イェルチェ
の武芸の才能でもあるのだろう。シノーラはそんな後輩の嘆きを笑い飛ばして、頑張りなさいと激励を残してその場を去って言ったのだった。
いつも嵐のような人だと思う。
イェルチェ
がシノーラの正体を知るのはもう少し後のことになる。
20160919