送りますよ、とサヴァリスが声をかけたのは、熱い一夜が明けてからのことであった。
 すでに着替えの終わったイェルチェは「あ、いえ、その」と言葉に詰まっている間に、手を引かれ外に出ることになる。
「か、鍵は?」
 そういえばそんなことを昨夜も聞いたような気がするが、サヴァリスからの返答はあくまでシンプルに。
「盗むものなんて何かあります?」
 何もない。人が住んでいるのかも怪しいほどにあの家には何もない。それはサヴァリスが戦闘以外のものごとに興味を示さない性格をそのまま現しているようであった。
 そしてリンテンスの部屋もある意味、リンテンスの性格を現しているのだった。



「この辺りはグレンダンでも低所得者の居住地が集まっている場所ですが・・・・?」
「あ、はい。お養父さまは始めてグレンダンを訪れたときからここに住んでいまして・・・・・・老朽化が激しい処なのですが」
 と、イェルチェは言う。がその目はサヴァリスを見ていない。どこを見ていればいいのかわからないといった様子で視線がうろちょろと動いていた。
「なんでこちらを見てくれないんです?」
 ぐいとサヴァリスが近づいてくる。
「え、あっ、いえ、その」
 イェルチェが耳まで赤くなったのをくすくすと笑いながら、果たしていつからこんなことになったのだろうとサヴァリスは思考の一片で考えていた。最初はリンテンスに押し付けられるような形で預かることになったが、今はどちらかと言うと自分の方から興味を持ってイェルチェに近づいている節がある。自分の戦闘狂な性質と気まぐれは十分承知しているが、今回の気まぐれは随分と長いようにも感じた。
「や、失礼。昨夜の今日ではまだ慣れないのも当然でしょう」
 からかいを含めたその言葉に、今度こそイェルチェは沸騰するのではないかと思うほどに顔を赤くしてうつむく。
 サヴァリスはその手をとって、「さぁどこです」といつものように問うので、イェルチェは余計に困惑するのだった。



 行為自体についてはイェルチェも知識半ばながら知ってはいた。だがそれがあんなにも嵐のように過ぎ去るものだとは思ってもいなかったし、好きあっていない相手同士で行うものだとも思ってはいなかったのだ。
 サヴァリスは単純な欲だと言い切った。抵抗できなかったこともあるが、なら私は?とイェルチェは考えざる得ない。サヴァリスを受け入れるのはどうしても仕方の無かったことだとして、果たして私はサヴァリスのことを好いているのか。
 ああ、また頬が熱くなると思いながら、サヴァリスに手を引かれて道を進む。開いた左手で頬に触ると明らかに熱を持っていてソレが余計に恥ずかしかった。



 ここいら一体はサヴァリスが言ったとおり、低所得者の住まう住居が密集しており、そのせいであまり清潔とは言い難い。建物が全体的に老朽化が進んでいることもその原因のいったんだろうが、貧困と言う物は精神的な余裕をなくすから、そういった要素も関わってくるのだろう。
 サヴァリスとイェルチェは足もとに落ちたゴミをを避けながら、進み、そしてついにたどり着いた。
 六階建ての、老朽化が進んだというか、今にも崩れ落ちそうというか、まぁとにかくボロボロになったアパート。その五階にリンテンスとイェルチェが生活する部屋がある。
「これはまた・・・・・・都震でよく崩れませんね」
「あ、いえ・・・・この間の都震でちょっと・・・・・床が」
「床が?」
「抜けて落ちました」
「引っ越した方がよくありません?」
「お養父さまに言ってください・・・・・」
 イェルチェは半ば諦めたような嘆息を吐きながら、階段を昇る。階段もまたぎしぎしと足を乗せるたびにうるさくきしいだ。
 果たしてこの建物の何割が埋まっているのだろうか。老朽化が進みすぎて今にも取れそうな手すりに手をかけて少し揺らしてみながらサヴァリスは思う。
 「下の階に誰も住んでいなかったのが幸運でした。・・・・・・ここです」
 錆ついた扉。502号室というプレートもかすんで、ほとんど読むことが出来ない。その下に本来居住者のネームプレートが差し込まれているはずだが、それもない。
 イェルチェはポケットから鍵を取り出して、差込、それからもう一度ため息をつく。そして鍵をひねらないままに抜くと、扉を勢いよくあけたのだった。
「お養父さま!!鍵は閉めてくださいと言ったではありませんか!!」
 返事はなし。だが、肺って正面のリビングに当たる部分であろう場所に設置されたソファーの上に、リンテンスが寝転んでいるのが見えた。彼はこちらに視線をやることもなく、沈黙を守ったままである。
 壁は老朽化が進んだ生で汚いが、部屋の中はそれなりに生理整頓されているのは意外であった。が、おそらくは部屋の掃除はイェルチェの仕事なのだろう。また本を床に散らして!というイェルチェの悲鳴を聞きながら、玄関に足を踏み入れる、と同時に殺気。
 サヴァリスの体は反射的に構えを取っていた。「レストレーション」
「・・・・・・イェル。昨晩は何をしていた」
 リンテンスの低い声がする。元から会話の中で感情を見せない彼だが、今回の語調はどこか怒っているようにも聞こえる響きだった。
「さ、くばんは、その」
 聞かれると同時に先ほどまでの勢いをなくしたイェルチェは、顔を真っ赤にしてその場に硬直する。
 それとリンテンスが動いたのはほぼ同時であった。
 サヴァリスがリンテンスの動きに対しなんら対応をしなかったのは、そのときリンテンスが鋼糸ではなく、目前で拳を振り上げたからである。
 リンテンスは基本的に殴る、蹴るといったような技は使わない。そのリンテンスが剄を拳に集めて振り上げているというあまりにも珍しすぎる光景に、サヴァリスは呆けたのだ。防御は反射のような形で体が勝手に行う。だが元から化錬剄などの使い手でないリンテンスの拳は、大した防御がなくとも受けきれるし、払いのけることだって白兵戦を得意とするサヴァリスには容易だった。その全てをしなかったのは、この珍事に頭がついていかなかったからである。
 殴られる、それなりに重量はある拳だった。衝剄がそれを後押しして、サヴァリスの体は玄関から出て、廊下の落下防止柵にぶつかった。痛みはほとんどなかったが、代わりに笑いがこみ上げてきた。
「く、ははははは」
 リンテンスは無言でサヴァリスを見下ろしている。手入をしていない髪、無精ひげ、そして普段ほとんど感情を見せない瞳が今は怒気に満ち満ちているように感じたのだ。
「お養父さま!?」
「随分と大切にされてるじゃあないですか」
 サヴァリスは立ち上がらないままに軽口を叩く。
 今度のリンテンスは本気なようだった。首に巻きついた鋼糸、それに抵抗するようにサヴァリスも剄を放つ。そうでなければ首と胴体が簡単に離れてしまう。
「僕は彼女に内力系活剄の循環と、まだ開かれていない剄路を開く手伝いをしただけですよ」
「そうか」
 死ね、と目が言っている。
 これ以上はまずいとサヴァリスは、鋼糸に手を触れ、剄を放つ。小爆発、と同時に首にかかった鋼糸の圧が無くなって、サヴァリスは一瞬で立ち上がると、落下防止柵を越えて隣の建物まで飛び下がる。リンテンスの鋼糸があちらこちらに張り巡らされ、巣を作っているのがよくわかる。だが鋼糸を支える側の耐久力にはいかんせん問題があるようで、いつもほどの切れ味はなさそうだった。
「僕も始めて女と言うものに興味を持ちまして、はは楽しかったですよ。他人を傷つけずに剄を流すという行為もなかなかする機会はありませんし。その代り彼女の内力系活剄、安定したでしょう?だからそんなに怒らないで、」
 くださいよ、と最後まで言葉を言い切る前にサヴァリスは跳躍する。その場を鋼糸が襲ったが、空に終った。
「戦ってくれるんですかリンテンスさん?はは!それなら昨晩彼女を抱いたかいがありますね!!」
 空中で、軽口を叩けば鋼糸が飛んでくる。それらをすべて衝剄でいなし、生じる爆発で耐空を維持する。
 さあ楽しくなってきた。天剣同士の戦いが禁じられているわけではないが、天剣の枠が開くのは困るということであまり推奨された行為ではない。だがすでにサヴァリスにはそんな考えはなく、ただリンテンスの本気が見られるのか、という高揚感に包まれていた。現天剣授受者最強とも目されるリンテンスの本気に果たしてどこまで肉薄できるのか。すでに錬金鋼は復元してある。あとは_____
 と思ったとき、ばたんとさび付いた扉が閉められた。
「おや」
 先ほどまでサヴァリスを取り囲んでいた鋼糸もすっかりと身を潜め、部屋の中に、リンテンスの手元に戻ってしまったようである。
「おやおや」
 七階に相当する高さまで飛び上がっていたサヴァリスは、重力に導かれるままに落下。この程度で怪我をしていては武芸者は務まるものではないので当然、傷一つないが、不満はあった。
「折角リンテンスさんが本気出してくれたと思ったんですけど、ね」
 なにやら怒鳴り声だけが、先ほどの部屋から聞こえてくるが、殺気はない。まるで親子喧嘩のようだ。人嫌いのリンテンスがここまでしゃべるというのもまた珍事に値する。だがそんなことはサヴァリスにとってはどうでもいいことだった。折角のチャンスはふいになり、もてあました剄は内部へと収束させる。
「残念です、また今度ということにしますか」
 もう一度502号室の扉を叩いてもリンテンスは絶対に開けてはくれないだろう。
(おやおや天剣同士の喧嘩ですか。それならもう少し外縁部でおやりなさいな)
「残念ながらリンテンスさんが納めてしまったのでそれもなくなってしまいましたよ、デルボネさん」
(ふふふそのようですね。でもあのリンテンスがあそこまで動じるというのもなかなかないでしょう。娘さんには過保護にならざる得ないようね、いいことです)
「はあ」
 サヴァリスはそんなデルボネの言葉を聞きながら、銀色の髪を揺らして、元来た道を戻るのであった。
 



20160919