召喚

ポケットの中に入れておいた携帯がうるさかった。ぶーぶーぶー、と小刻みな振動を布越しに伝えてくるが、林野はその電話に出ているほど余裕は、ない。
 じっとりとした嫌な空気だ。汗で前髪が張り付くのが気持ち悪いと感じるものの、そこに手を伸ばすぐらいならば、いますぐにでも走り出したい。そして大きく深呼吸でもしたい。だがこの空気を作り出している主はそれを許してはくれないだろう。

 「あら、随分と器用に逃げ回るのね」

 声はまるで鈴を転がすかのよう。麗しくそれでいて落ち着いていて、育ちのよさを感じさせるが、今では魔女の囁きに違いない。何故こんなことになったのだと、歯噛みする。
 辺りは明かり一つついておらず、ただ足元で緑色の非常灯が光るばかりの薄暗い空間だった。窓はあるにはあるのだが、どれもこれも黒く塗りつぶされたように光が入ってこない。徹底して外部と遮断した空間、キャスターの陣の中に踏み入れてしまったのだろうと、思えばそのうかつさに頭を抱えるほかない。
 このような事態になったのは第五次聖杯戦争のためにが冬木に到着してすぐのことであった。冬木は時計搭とは違ったまどかさで、あるべき人の営みがゆっくりと培われている、そんな空気だった。太陽がほんの少し傾いた刻限であったため、多くは職場なり学校なりにいるのだろう。長いこと海外で暮らしていたため、日本の生活に馴染みはないが、不思議と心地よさを感じる。
 すれ違った人の間に奇妙な違和感を感じたときには、人の気配のないビルのワンフロアに移動していた。光から暗闇へ転じた空間に一瞬視界を失ったが、ぞくりと背筋を走る寒気を感じて壁に張り付く。その瞬間、前髪を焦がす魔力光がすぐ傍の角から襲い来て駆け抜けていったのだった。
 何が起こったのか、相手がキャスターのサーヴァントであることを考えればすぐにわかるだろう。瞬間移動なんて生易しいものではなく、もっと大きな何かで、強制的に移動させられたか、それともここはキャスターの作り出した結界の中なのか。
 がらんとした人気のない空間に響くキャスターの声に背筋を走る寒気を覚えながら、はそっと柱の間を移動する。
 初手を避けられたのは運がよかった。ただただ運河よかったのだと言うほかない。偶然に左右されるのは気がすすまないが、今はそれをありがたく受け取っておくべきだろう。
 誰もいない空間にキャスターの声が響いている。音を吸収するものも、二人のほかに音を発するものもいないせいで、キャスターとの距離がはっきりわかるのだけが救いだった。

 「別にあなたが令呪を素直に渡してくれればそれでいいのよ?そうねぇ・・・・二度と魔術は使えなくなるかもしれないけれど」

 はやる心臓を押さえながら、ふざけるな!と心のうちで叫んだはさらにもう柱の間を走る。背を掠める魔力光がまぶしく、背後で柱が一つがらがらと崩れていった。
 この階層はまだほとんど部屋が作られていないのか、柱がむき出しになっている。紫色の魔力光に包まれた柱は、天井と床ごとあっさりと消失してしまった。この空間全てが焼き尽くされないのは、ひとえにキャスターがの令呪を欲しているからであって、この歴然とした力の差を考えれば、いつは死んでいてもおかしくない。
 キャスターの攻撃で空いたその穴から階下と階上が見えるので、ビル丸々一つに閉じ込められているようなものだと考えてもいいのかもしれない。はここから窓までの距離を測る。だが外に期待はもてない。窓はなぜか、黒塗りされたように塗りつぶされていて何も見えない。

 「duo milia tria, duo milia septem

 そっと囁くように呟くと、左手につけたいくつもの銀の指輪のうちのひとつが溶け落ちる。熱もなく音もなくそれは床に消えると同時に、口唇を持つ木のような赤子のようなものへと姿を変えた。
 精霊召還、と魔術一般に呼ばれるものであった。。
 この世は第一から第四までの象限に別れており、そのうちの第四象限から我々が精霊と呼ぶようなものを召還する。それが林野を初めとする召還魔術の一つであった。この世界がどのような構造で成り立つか、は各派閥様々な思想があるが、召還魔術の根源は先ほども記述したとおり、四つに区分される世界である。XとYの軸を持つ平面をイメージして欲しい。第一象限とはその平面のうち(++)で成り立つ空間で、第四象限とは(+-)で成り立つ空間となる。そしてこの世界の中心にはゼロとなる地点があり、全ての象限において同時にゼロに収束するとき、それこそが根元そのものである、とするのが召還魔術、もしくは象限理解の考え方であった。
 はあいにくと優秀な魔術師ではなかったが、それでも根元にいたろうとするその思想は魔術師そのものであった。この聖杯戦争への参加も、根元にたどり着くため、聖杯によって各々の象限の事象を理解することが願望である。もとより魔術師としては格下の家系となる林野のまさしく希望であったのが、ほんの数日前まで時計搭にて勉学に励んでいた林野なのでだった。
 何の因果か偶然にも日本・冬木で行われる第五次聖杯戦争の参加権である令呪を得たは、師にあたるロード・エルメロイ二世の下をすぐに離れて聖杯戦争へ向かう。彼にはそれなりに気に入られていた自身はあったが、聖杯戦争参加のカードを手に入れたことは重要だった。彼の名を汚さぬように、その日のうちに時計搭を退いたのは、今考えれば真に良い選択肢であったのだろう。聖杯戦争は七人の魔術師と七騎のサーヴァントの殺し合いだ。自分も含めた七人のうち六人は確実に死ぬのだから。
 音を立てぬよう深く息を吸って、木の皮を持つ赤子を出来る限り遠くへと押しやる。指先で触れるか触れないかのところまでおしやったあと、は次の命令を小さく呟いた。

 「A est B condicio satis

 その瞬間に赤子は金切り声を上げてなく。
 精霊召還は二つの段階からなる。一つは第四象限より、対象である精霊を召還すること。そして召還した精霊に命令をすること。高次の魔術師であればそれらを何の触媒もなく行ってみせるが、魔術回路を二つしか持たないにとっては触媒がどうしても必要だった。左手中指の銀の指輪に黒い染みができた。それは徐々に広がっていく。これが銀の指輪を全て浸食する前に階上へ行かなければ、次の触媒を消費してしまう。あのキャスターから逃げおおせるには、一つでも多くの触媒が必要なのだ。そうでなければ渡り合うことすらも出来ない。
 赤子は息継ぎをすることもなく、その唇から悲鳴のような音を上げて空間を浸食していく。床に広がったキャスターの術式を浸食していくのが壁の端からほんの少しだけ見える。指輪に二つ目の染みができた。
 キャスターがその音に気をとられ、そしてこのビルをえぐる魔力光が揺らいだ、その一瞬の隙にはキャスターの真後ろに回り込みそして階上へと瓦礫を伝って走りぬけた。

 「entum gradus Celsius

 叫ぶようにそれを口にした瞬間に、階下へ繋がる穴、ちょうどが上ってきた穴が激しい光に包まれ、そして熱と光を噴出す。
 足を止めることなくそのまま柱の影に転がり込めば、それを追う様にして高温の風がビルの中を吹き抜けた。
 精霊の召還と返還は一対だ。第四象限と言うマイナスの空間から私たちのいる第一象限というプラスの空間に存在を持ってくるためには魔力を初めとする莫大な力を必要とする一方で、プラスの空間からマイナスの空間に還る際にはあまったエネルギーが生じる。そのエネルギーに指向性を持たせ、もしくは別のエネルギーに転換することを多くの召還術を使う魔術師は使うのだが、長い詠唱すらもさせてくれないこの状況下ではにはそれほどの余裕はないのだった。精々、こうして目くらましのように爆発的なエネルギーを空間に放り出すことぐらいが、今のに出来る抵抗なのである。
 風が弱まると同時には出来る限り音を立てないように走る。窓は相変わらず黒で塗りつぶされたように光すらも通さない。ビルの非常灯のみが足もとで小さく点滅する暗い空間だ。はそのうちの一部屋に駆け込むと、簡易な結界をその場に作り上げる。
 息を整える。
 陣を描く時間はない。
 だが第四象限ではなく、第二象限からその存在を引き出すことは、聖杯からの力がある今は幾分簡単なことのはずだった。
 
 「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。 ただ、満たされる刻を破却する。」

 精霊が存在する空間が第四象限であるならば、所謂幽霊と信じられるもの、そしてサーヴァントが存在する場は第二象限にあたるのである。
 本来ならば陣を描かなければならない。だが召還のための陣はの魔術回路の中に眠っている。両手足の魔術回路が詠唱の開始共に励起しはじめた。

 「セット」

 空間が震える。今、第一象限より限りなくゼロへと精神が近づいていく。そして同時に第二象限の存在もまたゼロに近づいているのだ。

 「告げる。 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 何が出てくるのかはわからない。何の前情報も収集する余裕すら与えてくれなかったキャスターにほんの少し恨み言を呟く。

 「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、 我は常世総ての悪を敷く者。 汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より_____?」

 ぐらりと世界が一回転するようなこの感覚は?
 前に差し伸べた右腕が、肘より先からないことにが気付くまで数秒。そして目前にキャスターの姿を認識するまでにさらに数秒。

 「あッ・・・・あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」

 そして脳髄に達した痛みに悲鳴を上げるまでに数秒。キャスターは右手に持った奇怪な形のナイフと、そして左腕に持ったの右手を前に掲げるようにして、口の端をあげる。

 「驚いたわ。まさか陣もなしに召還をしようとするなんて。後一歩遅かったらちょっと面倒なことになっていたわね」

 だって、サーヴァントを召還されたあとに令呪を奪うのは面倒なんだもの、といいながら、それはさして困ったことではないといったような口ぶりで言う。がそれを正しく聞き取ったかはキャスターの知るところではないだろう。ただ右腕と令呪を失いながらもいまだ諦めていないにはいささか驚いた様子であった。

 「・・・・・・ッ!!ハアッ・・・っ!C ad X tot aequalis unus plus quadratum X, X super factorial plus duo super X plus factorial triplicata factorial plus tribus, et sic in!!」
 「あら、まだ詠唱できるだけの元気があるのね。そのまま諦めてくれるなら見逃してあげてもよかったのよ」

 口元しか見えないキャスターが笑んだのが先か、それとも左手に残った全ての指輪が溶け落ちて、代わりに緑色の神経がなくなった右手の変わりに腕を形作ったのが先かわからない。
 切るためではないとわかるそのナイフが振りかざされたのを見ながら、は今しがた召還と形成を行った右腕を前に出す。神経がつながれたことで痛みは幾分増しになったが、胃がひっくり返りそうな感覚はいまだ止まらない。だがあのナイフだけは触れてはいけないと、脳が警鐘を鳴らしているのだ。
 緑色の異形の右手がキャスターの振り上げたナイフに触れると同時に、右手はまるで解けるように消失した。触媒として飲み込んだ解けた指輪の塊を吐き出してなんの力もこの世界にもたらさずに。

 「は・・・・・あ・・・・?」

 右手を通り抜けたナイフが、キャスターの宝具である"破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)"が、の心臓へと突き刺さる。召還の術式を含んだ魔術回路が溶けて行く様に消失したことを感じることができたのか、そうして物言わぬ骸となったが応えることはなかった。

 「残念だったけど、貴方の令呪は大切に使わせてもらうわ」

 うっそりと微笑んだ魔女が消えると同時に、異界のビルもまた消失する。
 そんな場所にビルなど初めから存在しなかったのだ。ビルとビルの細い隙間、誰も気付かないその場所にたらりと赤い血が流れ、犬がただならぬ気配に尻尾を巻いてその場から逃げ出す。裏路地にうち捨てられたの死体は、わずか数時間のうちに教会に回収され、そして本当に何もなくなった。。
 まだ第五次聖杯戦争は、始まってすらいない。



2016.02.29