ゆめうつつ

まずはじめに何の話からはじめようか、と朝起きて思いを馳せる。目覚めたばかりはいつもこうだった。まだ明瞭にならない頭が、ぼんやりとやるべきことを考えて、起きて活動を始めた腹がぐうと空腹を訴える。差し込む光は明るく、そしてその角度は高く、もう昼近くであることを伝えてくる。
 表に出て顔を上げると、屋根と木々にはさまれた青い空が広がっていた。雲ひとつなく、初夏の日差しがまぶしく瓦屋根と庭を照らしている。庭には干し終わった洗濯物がはたはたと風にはためいており、つい先日までのうっとうしい梅雨の気分がするりとどこかへ消えていくような心地であった。
 「やあ今日はお寝坊さんかい、おはようと言うにはもう遅いかな」
 「・・・おはようございます」
 「言ったそばからそれかぁ」
 燭台切光忠は、特に気にした風もなく笑いながらそんな風に空を見上げて呟くと、昼餉の準備がすでに始まっているから一緒に来ないか、と、この本丸の主である初島を誘うのであった。
 昨日はずいぶんと遅くまで起きていたせいでまだ眠いが、空腹は感じている。はくわっと大きなあくびをしてから、光忠に行くと頷いた。中途半端に袖を通したままだった羽織を正されて、は光忠の後について台所に向かう。すでに昼餉の準備は序盤を超えているのか、良い香りが鼻をくすぐった。これはきっと光忠に誘われなくても台所に足を運んでいただろう。ほんの少しつまみ食いを期待しながら、は光忠の持っていたかごの一つを預かって、彼の後をついていった。
 台所ではすでに昼の準備はおおよそ終盤に差し掛かっていた。長い黒髪を丈長でくくった者たちがせわしなく動き回ってあれやこれやと器を運んで並べていく。こつんと器がぶつかる音、水が流れる音、鍋が煮立つ音あちらこちらで沸き立つ。
 一人ひとり違うようにくくった髪は全てが結って紐でくくってやったものである。彼らは男のようにも女のようにも見えたが、その実そのどちらでもなくそして根本的に人というものでもなかった。ただ、我々は便宜上あれを人と呼んでいる。
 と光忠の前を通った一人がぺこりと会釈をしたが、特に何も口にはしなかった。反射的に会釈を返しそうになったの額に光忠の手が当てられる。
 「頭を下げるなって、この間長谷部君にも散々言われてたじゃないか」
 「うっ、日本人の癖です癖」
 「よくない癖だよそれ」
 ここにいるのは君と同じ人じゃあないんだから、主である君はしゃんと胸を張ってないといけないよ、とまるで諭すように言われるとどちらが主なのだかわからなくなってくる。はうー、とうなりながら、会釈を返す人の波から目を背けて、蒸したじゃがいもに手を伸ばした。
 「そして意地汚い」
 「うー」
 ぺっと光忠に手をはたかれながらも、空腹を訴える腹には何かを入れなければならなかった。はまだ熱いじゃがいもに塩をふりかけ少しかじる。形の悪いそれは、昨年取れたうち最後の最後のものであった。幾分水分が抜けぱさぱさとしているものの、よく日を浴び育ったそれは決して悪い味ではない。光忠は呆れた口調であったが、そこまで責めているわけでもない。行儀が悪いのはいただけない、とは言うものの主のつまみ食いは多少であるならば目を瞑ってくれる様子だった。箸と器は使いなさい、とばかりに差し出されたそれを受け取ると、は近くにあった台座に腰かける。
 かたん、と少々立て付けの悪い引き戸が開いてひょっこりと平野が顔を覗かせる。本日の当番は平野と燭台切であったか、とは思いながらもう一つ小さく形の悪いじゃがいもを口に放り込むのだった。
 「おはようございます、主様。もうすぐにお昼ですよ」
 平野のその言葉と同時に、台所の人の群れがざわめいていっそう世話しなく手を動かし始めるのであった。
 彼らは人の姿をし、人の声を聞き、人のように動くがその実体は式神に近い。身の回りに無数に存在する魑魅魍魎、荒魂に傾いたそれらを使役する術の一つが式神であり、この本丸では目に見えるところ目に見えぬところで数多の式神が動いている。彼らはただ使役されるだけというわけではなく、人の身を得、使役される中でゆっくりと荒魂と和魂の調和を保っていくのである。ゆえに、式神の多くは人の身に閉じ込められることを厭うことはなかった。
 通常であれば、が全てこれらの式神の降霊術を行使すべきなのであるが、は目に見えないものを見る、というほかにこれといって何かできるわけでもないただの人であった。こんのすけが術の基盤を作りそれにが幾分上乗せをするという形でこの本丸の式神は動いている。だが基盤がどうであれ、この本丸の主はまがりなりにもなのであるから、気安く頭を下げ礼をしてはならない。これは他者に対する礼と感謝を忘れるな、ということではない。下手に頭を下げれば彼らは、自分が従うべき者を見失い再び荒魂に戻ってしまう。
 平野と光忠の命に従って、人の波が動く。顔を不思議な文様の布で覆った人々は、命令がなければ沈黙し立ちすくむばかりだが、事細かな命令を渡せばそれらを丁寧にこなすのであった。
 が近くによる度に小さく会釈をする人に釣られて会釈をしないよう、顔を逸らしながらも余剰の人に声をかけ、次の仕事を行わせていく。この台所仕事とはいわば、彼らの統率であって、当番自ら包丁を握る機会は少ないのだった。
 大きな鍋から香る味噌の匂いに、の腹がぐうと空腹を訴えている。平野と光忠に見つからぬように、こっそりと味見をさせてくれ、と鍋をかき混ぜる女の耳元にささやくと女は笑うわけでもなくかといって怒るわけでもなく主の命令に従ってさっと小さな器に湯気の立つ味噌汁を少しすくってよこすのだった。小さな器の上で白い湯気がの呼吸に合わせてぐるりと輪を作って消えていく。ふぅ、と小さく息を重ねてふきかけ、心持冷ましたそれに口をつけるとちょうど良い塩梅の味付けが舌を刺激して、余計に腹をすかせるのだった。
 カァン
 大きな鐘の音が鳴る。昼餉の頃合を知らせるそれは昼に二度鳴り、本丸のそこここに散らばる者たちに集まるよう告げている。本丸には現代で言う厳密な時刻を知らせる時計なぞは存在しなかった。日が昇れば目を覚まし、日が落ちれば眠りにつく。日がちょうど頂点に昇る頃が昼で、山の端に沈む頃が夕餉の時刻であるのだった。
 太陽の昇り沈みにあわせた生活はまさに生き物のそれであるとは思う。彼女がまだ審神者になる前は、日が昇りしばらくしてから目を覚まし、登校し、日が沈んでから家に帰るという生活であった。その後もしばし文明の利器に頼り比較的遅くまで起きて本を読みふけり、目覚めまであと6時間7時間となった頃に眠りにつく。人間が活動できる時間をできる限り使うというのは効率が良いものであったとはいえ、果たしてそれが体に良いものであるかはわからない。だからこそ、この本丸での自然に即した生活はにとっては真新しくかつとても気分の良いものであることは確かであった。
 本丸の背にそびえる山に響いて、音を返す鐘の音と、舌に心地のよい熱を感じながら光忠と平野に言われるがままに大広間に向かうのだった。ほんの少し土の匂いが混じっている。畑仕事を終えた者たちが帰ってきたのか、それとも先日降った雨と土の匂いが風と共に吹き込んできたのか。なんにせよ良い気分である。
 「主」
 「おはようございます」
 「おはようございます。昨晩はずいぶんと遅くまで起きていらっしゃったようですが」
 「今日の夜の出陣に備えての準備がうまくいかなくって」
 廊下の曲がり角でばったりと痩身の男とかち合って、あわてて足を止めると、ほんの少し顔を歪めた長谷部がを見下ろしているのだった。平野は先に大広間へ向かう。あちらでやはり式神の指示をしてやらねばならないからだった。光忠も同じようにを置いて先に大広間へ向かうのだった。
 「今宵の出陣は遠征ですので、そこまで気をもまずとも」
 常の武装を解いている長谷部は軽装で、重々しさはないのだが口調は相変わらずであった。少しばかり堅苦しく、それでも主の身を案じる言葉には苦笑しながら万が一もあるし、とほんの少しいいわけじみたことを口にする。
 「ご自愛ください」
 「考えておきます」
 「そう言いながらまた俺の言葉から逃げるおつもりか」
 「長谷部の言葉を片っ端から聞いてたら軟禁されちゃいそう」
 はぱっと身を翻して、長谷部の腕の下を潜り抜けた。主!と背後から呼びかけられる声に笑いながら、途中で見つけた厚藤四郎を捕まえて大広間まで走っていく。この本丸において身の軽さ、機敏さにかけ随一を争う長谷部にただの鬼ごっこで叶うなどとはとて思っていなかったが、追ってくる長谷部に俄然闘争心を燃やし始めた厚に腕を引かれ自然と前に出す足も早くなる。大広間まであと十歩。この十歩を長谷部に勝てれば上々である。
 「また長谷部殿ですか、主」
 「一期!助けて長谷部がいじめる」
 「その前に廊下を走ってはいけませんと私から小言を聞きますか」
 「「嫌だ!」」
 けらけらと笑い声が上がる。乱と薬研が一期の後ろからひょっこりと顔を覗かせて、小言をくらいそうになりあわてて大広間に飛び込むと厚のことを笑っていた。
 「今日はまた逃げられましたな長谷部殿」
 「俺は何も逃げられるようなことは__」
 と厚が大広間に飛び込んでさほど待たずに追いついた長谷部は、広間の開け放たれた入り口で一期と顔を合わせため息を吐くのだった。長谷部とてが言うように、主のことを軟禁したいわけではない。ただせめて夜は寝るようにと言いたいだけなのだが、のちのちそれをに母親のようだと指摘されて顔をしかめるのだった。
 すでに人が集まりつつある大広間では、主が入ってきたことから、すでに席についているものから食事が始まっている。一応昼餉の時間は決まっているものの、みなで一斉に食事を取らねばならぬという決まりごとがあるわけではない。ただそれでもこの本丸の主がくるまでは、誰が言わずとも食事に箸をつけることはなかったので、食事の時にはは必ずいの一番に広間に来るようにだけ心がけているのだった。は自分が来るまで食事をするなと言いつけたわけではないし、構わないとも告げているのだが、それでも自然とそんな流れができていたからそれならばせめて待たせないようにと思うのである。
 席順など決まってもいない。集まった者はなんとなしに主であるのそばに座ったから、の周りはいつも声が耐えないのである。出陣が近くなれば戦場の話題も増えるものの、平穏が続けばやれ庭にあじさいが咲いただの、かつての主はあの花を持って女人に恋文を送っただの話は尽きることがない。自身よりも遥かに長い年月を過ごしてきた刀剣の付喪神たちの話は、にとっては目新しいものばかりだったからはことあるごとにせっついて話をさせるのだった。何、たとえ十年あろうとも彼らの話が尽きることはあるいまい。何せ長いもので千と数百四年この人界に魂を成して物事を俯瞰している。戦場にあるときもはたまた蔵の中にあるときもあっただろうが、そのときそのときで様々な出会いも別れも経験しているのだから、一つ一つそれを紐解いていくことはかつて昔話を寝物語に聞いたときと同じ高揚と心地よさがあるのだった。
 話が重なりつい長くなる昼餉を終われば、日が頂点より少し西に傾いて長い日差しが本丸の中に差し込んでくるのだった。午後にしなければならないことがあるのは承知しているが、昨晩遅かったせいか幾分の眠気がやんわりとやってくる。腹が満たされたこともある。午後のことは昨晩の続きでもあったからほとんど残っていないことも、そして今日中に絶対に終わらせなければならないことではないこともなんとなくわかっていたから余計に頭が働かなかった。
 は片づけを式神の者たちに任せると自室へと足を向ける。誰もいないのをいいことにくわっとあくびを一つ隠しもせずにすると、くつくつとすぐ後ろで笑い声がして慌てて振り向く羽目になる。
 「なんだ驚かしてやろうと思ったのに」
 日差しを浴びた白い衣は雪原よりも眩しかった。首元、そして胸元の飾りから背にかけて回された金色の鎖が動くたびにしゃらしゃらと小さな音を立てて揺れている。満月のような麗しい金色をほんの少し細めてくつくつくつ、と笑われるとほんの少し癪に障ってついつい何で声をかけなかったのだと、そんな言葉が口をついて出てきた。
 「いや、何、少しばかり眠そうな主殿に驚きでも分けてやろうかと思ったんだが、なんとも可愛らしいあくびだったな」
 「今度から足音を忍ばせて背後に忍び寄るのを禁じてしまおうか」
 「やめてくれ!俺の時たまの楽しみがなくなってしまう」
 そんなことだけを楽しみにしているわけではなかろうに、おどけた調子で鶴丸がそんなことを言うとどうも毒気が抜かれてしまう。
 それにしても夏の少しばかり暑い日差しも、木で作られた屋根の下にいるとほんの少し涼しくて気分がいい。やっぱり眠いのだ、と思いながら今度は口を手で隠してもう一度あくびをするとやっぱり鶴丸が笑うのだった。
 「眠いのか、なら枕になってやろう」
 それ、と袖を持って頬をつかまれると、その袖のやわらかさがひどく気持ちよかった。
 鳥の羽毛の温かさはとても気持ちが良い。昔一度触れたことのある鶏の雛の産毛のやわらかさを思い出しながら思わず袖に擦り寄ると、かみ殺したような鶴丸の笑い声が聞こえるのだった。
 「出陣の前には起こしてやろう。それゆっくりと眠っておけ」
 ふわふわに包まれたまま、自室に戻って寄りかかると、どこもかしこもやわらかい白が包み込んでくれて、心地がよかった。
 ちょっと前に軒下にぶら下げたばかりの風鈴が鳴る。庭にしつらえられた小さな滝が水を次から次へと落とす音と、蛙の鳴く声。ツバメの姿は空高く、当分雨は降りそうにもない。ほんの少し開いた襖から流れ込む風と心地よい体温に包まれて、幼子のように眠りに付いたが再び目を覚ますまではしばし時間がかかるだろう。


2015.07.07