ドロップ&ドロップ

「はっ!」
 ごうごうと耳元で唸る風の音。肌が切れそうになるほど冷たい空気を切り分けるようにして浮遊する、いや落下する感覚。目前に広がるのは何もさえぎるものの無い太陽とそして、本物の青い空だった。
 何が起こっているのか、ライラック__マクロスフロンティア環境艦整備及び管理技師補助の寺薗・C・ライラックには今自分の身に起きていることを理解するのに数秒の時間を要した。そしてその結果、ライラックは今現在かなりの高度から重力に引っ張られて落下中であることを理解したのだ。
「いっやあああああああああああああああああああああ!」
 振り返った先には空よりも青い海、そして小さな島があちらこちらに見える。落下地点は海、になるだろうか。始めてこんなにも大きな水の塊を見たライラックはそれを海だと断定するまでにも時間がかかったのだが、どんな状況にせよ、この速度で落ちたら100%死ぬことだけは確かだった。
 極小のフォールド断層に巻き込まれたライラックは、突如としてこの空へ落とされた。
 フォールド断層を超えることは大きなリスクだ。次元の狭間、空間が圧縮され、新たな地へと旅立つ移民船にとってはこの次元の狭間を残り超えることは必要不可欠であるが、一歩間違えれば断層の境目に落ち込みどこへ行ってしまうのかわからない。
 フォールド断層という存在が発見される以前は移民船が消失する事故が複数あったというが、まさかまさか自分がフォールド断層に身一つで入り込む経験をするとはライラックも思っていなかった。
 新天地へ向かうマクロスフロンティア、そこの環境を維持しながら、何れはL.A.Iへ入り、ルカと共に大勢の人を乗せた移民船を守る__そうして生きている間に新たな地へとたどり着ければラッキー、そうでなくともマクロスで死ぬのだろうと思っていたライラックの人生設計は、突如現れた赤い謎の生き物の登場によって大きく崩されることになった。
 後にバジュラと呼ばれる呼ばれることになる超時空生命体は突如としてマクロスフロンティアのすぐ側に現れ甚大な被害を催し一旦は退去したようだった。だが軍によって始末されなかった一体のバジュラがライラックの管轄内である環境艦に襲撃をしかけたのである。環境艦は名前の通りマクロスフロンティア全体の環境、例えば空気の生成や水の清浄化や循環を受け持つ非常に重要な艦隊である。人々の生活に欠かせないこの環境艦の破損をライラックは見過ごすことが出来なかった。真空の宇宙へ飲み込まれないようロープを体に巻きつけて、まだバジュラがいるにも関わらずライラックは飛び出し、破損した循環機構を停止するために走ったのだ。大きな穴が開いた循環機構は人体で言うならば動脈に等しい。動脈に穴が開いたら血が噴出し死ぬのが道理、環境艦の循環機構も同じだ。故に一時的に停止させなければならなかったのだが、停止装置がバジュラの足元にあったというのは運が良かったのか悪かったのか。
 それでもやらなければならない。軍はバジュラの存在に気づいているのか、気づいていないのか、わからなかったが、やらなければマクロスフロンティアという移民船はここで死ぬのだ。
 ライラックはただ一人走り、バジュラの足元まで駆け抜けて循環機構の停止に成功した。だがライラックがバジュラの足元に到達するとほぼ同時に転移したバジュラは極小のフォールド断層をその場に残し消え去った。ライラックが巻き込まれたのはまさにこの小さな断層だったのである。
 足を踏み外したような感覚、戻ろうとしてロープを引いても感触がない。気づけばそこはライラックには理解できない不可解な空間で、もう前にも後ろにも戻ることが出来なかった。そこですごした時間がどのくらいのものだったのか。数時間のような数秒のようなとにかくなにもわからない。そして、気づくと落ちていたのだ。
 本物の青い空をライラックは見たことがない。本物の広がった海もライラックは見たことがない。だがそんなことどうでもいいくらいにライラックは危機を迎えていた。
「ああああああっ!」
 絶叫はむなしく響くこともなく空の彼方へと消え、ライラックは順調に海へと落ちていく。恐怖よりもわけがわからない感情に突き動かされて口から悲鳴しか出なかった。
 そうやって落ちていくうちに落下地点に何かあることにライラックは気づく。
 船だ、しかも木造の。その船首には白髪の誰かが立っている……と気づいたところでライラックは思い切り叫んだ。
「たっ、助けてーーー!」
 その叫びはしっかりと白髪の人物に届いたようで、くるりとこちらに顔を向けた男性は、残った右目をまん丸にしてぽかんと口をあけた。
「助けて助けて助けてねぇー!!」
 もはやライラックはなりふり構っていられずにその人物に思い切り手を伸ばすが、わずかに届かない。白髪の男性もまた手を伸ばす、そして、二人の手はわずかに届かず交差し__
「あ」
 これは死んだなとライラックは思った。高度から水面に叩きつけられたら、それはコンクリートの地面と大して変わりはない。仮にあの男性に手が届いたとしてもこれだけの勢いで落ちていたらその衝撃で死ぬだろう。要するに死ぬという結果しか用意されていなかったのか、と男性の目を見ながら思ったライラックが水面に激突するまでのわずかな時間。その男はライラックが思いもしなかった行動に出たのだ。
 それは船首から思い切り飛び出しわずかに届かなかったライラックの手を握ること。そしてそのままライラックの体を引き寄せ抱きしめるようにして、男とライラックは海へ落ちた。
息を止めることも目を瞑ることもしらないライラックはそのまま海の塩辛い水を飲み込んでむせる。だが水の中に居るのだから当然空気など入ってくるはずも無い。目が痛い、息が出来ない。初めての感覚にじたばたと暴れていると、急にぐいっと体を持ち上げられる感触がありそのまま空気の中に出てライラックは盛大に水を吐き出した。
「おい!大丈夫か!」
 返事をするほどの余裕もなかった。飲み込んだ水が肺に入ったのか咳が止まらない上に目が痛くてあけていられもしない。
「兄貴ぃ!今引き上げますぜ!」
「大丈夫ですかぁ!」
 次々にかかる声、男たちが叫ぶ声が聞こえたが、そんなことを気にかけている場合ではない。なんとか水面に叩きつけられて死ぬことは免れたが、水が貴重であったマクロスフロンティアにおいてライラックは泳ぎと言うものを経験したことがない。突然水の中に叩き込まれて、息を止めるということすらもできずに手足をばたつかせて必死で水面に出ようともがいていると、首筋をつかまれてぐい、と身体を持ち上げられた。
「おい! おい、おい! 暴れるな馬鹿野郎」
「や、野郎じゃないですレディです!」
 どうでもいいことを言えた胆力だけは褒めて欲しいとライラックは思いながら、口の中に入り込んだ水を吐き出した。鼻からも盛大に水を吸い込んだようで、鼻の奥でツーンとした痛みが響いている。目の前がくらくらする、潮水というものはこんなにも重たい、いや水そのものがこんなにも重たいものなのかとライラックは思いながら、男に襟首を捕まれたまま船へと連れて行かれた。最早抵抗する気力はどこにもなかった。


20200914