海に潜る話

小さな小さな船は、シャボンに包まれ浮力を失ったままゆっくりと海の深みへと滑り込むように沈んでいく。水面がきらきらと輝いていた。日の光は屈折し、独特の光の道を水中に投げ込んでいる。
大きなヤルキマン・マングローブの根は真っ暗な海のそこまで続いている。


「わー・・・・こんな魚いたんだー・・・・」

「なんじゃ、覚えとらんのか」


ジンベエの言葉にミズキは頷いた。


「兄貴と一緒にいたころの海も覚えてるけど、シャボンディ諸島周辺がこんなに明るかったイメージなんてないなぁ」


感慨深げに、周囲を見回しながらミズキはそんなことを口にした。ここいらを何度か通過したこともあったが、あまりシャボンディ諸島のすぐ傍に浮上することがなかったせいだろうか。ジンベエはタイヨウの海賊団の航路を思い出しながら、帆の向きを少しずつ調整した。
浅瀬はヤルキマン・マングローブの根を足場としたサンゴのせいで明るい赤・黄・緑に満ちていた。魚たちの群れもまた鮮やかな、まるで虹色をそのまま海に流し込んだような、人の視覚が見える範囲の全ての色を持っていた。ここまで透明なのはプランクトンがシャボンディ諸島の周囲にあまり存在しないからだ。過分な栄養素を含む深層流はレッドラインに沿ってもう少し移動しなければ湧き上がってはいない。海中の栄養素が少なければ少ないほど、プランクトンたちもいなくなりさらに本当ならプランクトンを餌にする魚たちだっていないはずだった。だがここはサンゴたちがまるで一つの島とならんばかりの勢いで群れを成している。サンゴの中に住む褐虫藻はサンゴに住処を提供してもらう代わりに光合成をし有機物を生み出すのだ。魚たちはそれを求めてこのような透明な海に集まっているのだ。
ヤルキマン・マングローブより数百メートル、しばらく水面とほぼ平行に移動していたが、ジンベエはそこで船首を下に向けた。船はそれに伴ってゆっくりと下降していく。空を映した水面付近の水色は、透明な青に変わった。相変わらず視界がいいものの、先ほどと異なりサンゴたちの色数は減り赤色が多くなったように思う。
光の減衰はあっという間だ。明るい、綺麗な世界はほんの数十メートルだけに存在し、そこからは青に青を重ねた、暗い闇の世界が広がっている。水深が200メートルに達する頃にはもはや色は識別することなどできないほどである。
ジンベエはこの暗闇があまり得意ではない。ジンベエザメは本来熱帯や亜熱帯の表層海域に生息する。その性質を受け継いでいるジンベエは深海の闇と冷たさが苦手だった。


ミズキ

「はーい」


ミズキはジンベエに変わって舵をとった。
ここから先の暗闇の世界は、ミズキが元より生きていた世界だ。それは決して比喩的な表現ではない。
ミズヒキイカがすーっと船を追い越して上へ上っていった。正確には自分たちが下降しているせいで、ミズヒキイカが移動して見えるだけであり彼らはあの位置にとどまったままである。ゆっくりとひれを動かしながら、長い長い腕を深海に向けて垂らしたままじっとしている。それらに触れないようにしながらさらに潜る。
深海性の魚類の性質を受け継いでいてもさすがに真っ暗闇では何も見えないため、ミズキはぼうっと自分の提灯を照らして道しるべにしているのだが、おかげで幾分魚たちがよって来がちだ。ジンベエが時折撃水を飛ばしては寄ってくる大型の海王類を威嚇する。
船底に何かぶつかった感触があった。お、と思った次の瞬間には船を包むシャボンが濃い墨で覆われてしまう。


「わぁ!!!」


まるでドラキュラのような、コウモリダコが視界の隅で逃げ出すのをミズキはかろうじて捕らえた。くるりとまるまった触手が一瞬だけシャボンの中に入ってきたが、そこが水中とは別世界だと気づいて慌てて逃げ出したようだ。
暗い、ただひたすら暗い。圧倒的な水圧と暗闇による圧迫感の恐怖は並みの人間では耐えられないだろう。だがミズキはその暗闇にどこか心地よさすら感じていた。太陽が嫌いなわけではない。また明るく美しい様々なものに満ち溢れた世界も大好きだ。それでも、時々この深海の濃さが恋しくなる。一瞬だけミズキはシャボンを突き破ってこの深い水圧を全身で感じたい感覚に襲われた。だがそんなことをすればあっという間に船からはぐれてしまうだろう。いずれ、そうしようと心に決めて、ミズキはひたすら舵を手にして何も見えない暗闇をにらみつけた。

2014/02/22

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