風砂の英雄伝
これは風と砂の地に生まれた
一人の英雄の物語
我々は歴史に残る戦いを目にした。この戦いは我らが尊主ヘルマヌビス様の力の所有者を確定させる戦いであり、同時に二人の跋霊の所持者の信念と疑念をぶつける戦いでもある。我は沈黙の殿書記官ジェフト。この戦いの行く末を見据え、同時にこれを記録する者である。
これは二人の英雄たる人物の物語である。
俺は英雄と呼ばれる人たちに必要な条件というものは、人々が憧れる優れたる物語であると思っている。その個人が何を考え、そして何を思い、何をしたか、その全てに理想を見出すいわば偶像だ。しかしながらどんな英雄にも個は存在する。それは決して人の望み通りのものではないかもしれない__
◇ ◆ ◇
ここに残したのは沈黙の殿書記官長ジェフトとしての記録であり、同時にセトスの幼馴染であるジェフトとしての記録でもある。
記録にはところどころに俺の感情も含まれる。母からはそれが書記官としての俺の悪いところだと言われている。でも俺も人間だ。全ての感情を殺して事象だけを記録するなんてできるはずがないんだ。……教令院のとある書記官はそう言うことが簡単にできるって聞いたことがあるけど……兎にも角にも、これから語る俺の話は俺が見た一つの物語だ。
◇ ◆ ◇
沈黙の殿は小さな組織である。砂漠の片隅、我らが王キングデシェレトの技術によって風砂と侵略から守られた大殿堂が拠点だった。沈黙の殿を構成するメンバーは少ないが、全員が家族のようにお互いを助け合っている。厳密にいえば、助け合えない人間は沈黙の殿から消えていった。
強い日差し、少ない水、生きているものを見かければ所構わず襲う聖骸獣、苗木は真っ当に育ったところで多くの果実を実らせることは少ない過酷な環境の中で、助け合えない人間は生きていくことができない。人間というものが環境で構築されるのであれば、助け合うことができないような人間はそもそも生まれなかったのかもしれない。
沈黙の殿は決して悪い組織ではないが、かといって良い面だけがあるわけではない。沈黙の殿が所有する知識と封印するものへの重責を考えれば、当然、沈黙の殿から出ていきたいと反旗を翻す人間がどうなるかなんて、少し考えればわかるだろう?
俺とセトスはそういったところで生まれた。
俺は父が早逝し、沈黙の殿の書記官であった母に育てられた。といっても最初に記録した通り殿の中にいる人たちはみな家族のようなものだから、全員に育てられたといっても過言ではない。
セトスは両親がいなかった。バムーンがセトスを孫にしたのには理由がある。
俺の父親が死んだ理由でもあるのだが、俺とセトスが生まれた直後、聖骸獣が地脈の変動に合わせて縄張りを大きく変えた事件があった。一匹の聖骸獣が沈黙の殿の主要な入り口の一つに巣を作ったせいで、生活に関わる基盤が大きく崩れかねなかったのだ。沈黙の殿では長い話し合いが行われ、これを討伐することとなった。
聖骸獣は神の目の持ち主ですら、命懸けの討伐となる。それが特別な力を持たない一般人の集まりである沈黙の殿では何十人も死ぬことは当たり前の戦になった。俺の父親も参戦し、セトスの父親も同じだった。二人は表で死んだと記録にある。生まれたばかりの赤子を抱えていた母親たちは殿の一番安全な場所に匿われていたが、聖骸獣は首がおち命絶えるその瞬間まで暴れ殿の中にまで侵入し、殿の一部は崩落を起こした。セトスの母親がいち早く崩落に気づかなければ俺もセトスも俺の母も、他の動けないものたちもみな死んでいただろうと話していた。いち早く崩落に気づき脱出を促したセトスの母親は、その時に死んだ。バムーンはその功績からセトスを孫にしたんだそうだ。
俺とセトスはバムーン−−じいちゃんや沈黙の殿の人たち、それから母さんと共に兄弟のように育てられた。どっちが兄でどっちが弟なのかはよくわからないけど、俺もセトスも自分が兄だと主張してその議論は今だに平行線のままなので、あまり触れない方がいい話でもある。何せこの話出ると槍を持ち出す大げんかになるからだ。
遊び相手は沈黙の殿に保管された本、それから隠れて遊ぶには最適な遺跡だ。歩けるようになるとすぐにセトスと一緒に砂の山を作りながら、あちらこちらに隠れては、沈黙の殿の大人たちですら知らないんじゃないかと思う岩陰の隙間に、昔の人たちが残した絵や文字を探して真似ていた。
セノが沈黙の殿にやってきたのはその頃だった。
沈黙の殿は人の数が少なく、特に聖骸獣の襲撃もあってさらに人が減っていた。近い間柄同士で子供ができると問題が発生しやすい。そのこともあって外の人間を取り入れる施策が必要となっていた。じいちゃんは砂漠を放浪しながら金に困っている何人かの人たちに声をかけ、子供を買った。今思えば人身売買であるから倫理的にどうかと思うが、沈黙の殿にはそういった後ろ暗いところも多くある。セトスがそういったところも含めて背負うと決めているのだから、俺がそれを勝手に取り繕って良いように話すわけには行かない。
ただセノを買った理由はほかにもあったようだ。俺たち砂漠の子供は祭祀から宣託を受ける。セノはその宣託の中で何か重要な言葉を告げられたそうだ。
ただ、なんにせよセノを買ったという事実は、のちにヘルマヌビス様降臨において非常に重要な役目を果たすことになる。それはこの記録を読む全ての人が知っている事実であろう。
小さなセノは俺たちの弟だった。ニコニコと笑いながら勝手の知らない沈黙の殿の中を俺たちの後をついて歩き回る。右も左もわからないからとセトスが良くセノの手を引いていたのを覚えている。俺も反対側のセノの手を引いて大人たちも知らないような遺跡の隅っこで大きくないザイトゥン桃を齧っていた。あとで大人にこっぴどく叱られもした。
「ころころ草の中には〜♪」
「ひとつのたまご〜♪」
「セノ、ちがう、そこはザイトゥン桃だ」
「や。たまごがいい」
セノは驚くほど強情で一度決めるとなかなか言葉を引っ込めない。俺も相当にもめたけど、セトスも強情だったからさらに揉めていた。あと俺はどっちかというとコサックギツネが入っていたらいいと思う。ふわふわで可愛しい肉も美味しい。
◇ ◆ ◇
深い熱と砂漠の片隅に人が倒れているのを見つけたのは偶然のことだった。
砂の薄い茶色がほとんど世界の中で、緑色の布地が岩に引っかかっていたのでとても目立っていたのだ。
俺とセトスとセノはその日、食用にするサボテンを集めるためにカゴを持って沈黙の殿の周辺を歩き回っていた。普段はあまり外に出ることがないのでこの日を随分と楽しみにしていたのだ。大人たちに言われていたよりもはるかに遠くまで足を伸ばして、人のいないオアシスの水に足を浸して遊びながら色々なものを集めていた。
帰り道は、行きとはちがう道を通ろうということになり、少しばかり遠回りをしながら歩いていたところ、緑色の布地が岩に引っかかっているのを見つけたのだった。
「布だ!」
セノは喜んで岩に登って緑色の布を引っ張った。砂漠では様々な物資が貴重であり、染料で染めた布は特に高級だ。特にすぐに汚す子供の普段着は植物の色をそのままに使ったそっけないものが多いために、色付きの布というものはもの珍しい。
「セトス! ジェフト!」
身軽な体を生かしてひと足先に登ったセノと、それに追随したセトスと俺にセノから声がかかる。
「だれかしんでる!」
俺とセトスはいっそう急いで岩山を登った。こういった過酷な環境であると、死体の持ち物は貴重な物資となる。俺たちは死んでるなら色々持ち帰ろうぐらいの気持ちだったが、それは生きていた。
「う……死んで、ない死んでない……」
茶色の髪、見たことのない模様の服、底の破れた鞄の中には、かろうじて紙やノートが残っていることがわかる。ポケットの中には欠けたナイフや鉛筆などが入っていたが、砂漠を渡るのに重要な水や食料は一つもなかった。
「生きてるの?」
「い……きて、るだろう……喋ってるんだから」
「生きてるときってどうするんだっけ」
「いきのねを止める」
そう言ったのはセトスである。
「それって死にかけてたすからないときじゃないかな」
俺が追随した。
「勘弁してくれ……」
その人はそう言って大きく息を吸い込みむせこんだ。
俺たちは一体どうしたらいいのかわからずしばらく倒れているその人を眺めていたが、最終的には大人を呼んでくるのがいいのだろうとなって、セノを残して俺とセトスが沈黙の殿まで走ったのだった。
暗くなり始めた殿の出入り口では大人たちが何事か話している。遠くから聞き耳を立てていればどうやら俺たちが遅いことに気を揉んでいるらしい。俺とセトスは慌てて大人たちの前に飛び出て、途中で死にかけている男がいることを報告した。ついでに息の根を止めた方がいいのかも相談したところ、こっぴどく叱られた。
じいちゃんの指示のもと大人たちが慌てて外へ走り出し、しばらく後にセノと一緒に男が沈黙の殿の中に担ぎ込まれてきたのだった。その頃には男の意識は完全になかった。
俺たちはジュライセンが目を覚ますまで代わる代わる看病をしていた。看病という言葉は聞こえがいいから使うが、実際は見張りだ。
沈黙の殿はその性質上、あまり外部の人間を数多く受け入れることはしていない。外部の人間が有益であると判断した場合に彼らと物資や知識を交換するために引き入れることが稀にある程度だ。砂漠で行き倒れている場合には野外にある仮の拠点へ運び込んで、深入りさせぬように観察する場合が多い。
今回じいちゃんがジュライセンを沈黙の殿の中にまで踏み入れさせたということは、彼が有益な情報を握っていると何らかの理由で判断したのだろう程度に当時俺は思っていた。今思えば彼が教令院の学者の制服を着ていたからだとわかる。
ただ、沈黙の殿の中にまで引き入れたということは、ジュライセンの態度や知識程度によってはそのまま雨林に帰れない可能性も十分にある。彼は砂漠で遭難した挙句に死んでしまった。死体は砂の下、という結末が用意されるだけだ。俺は母からそのように処理された人々の記録を見たことがある。酷いと思うかもしれないが、じいちゃんが背負う責とはそういった意味があるのだ。
◇ ◆ ◇
ジュライセンを交代で見張りながら、俺たちはいつも通りの日常を送っていた。
沈黙の殿は人が少ないために、一人一人がやることは多い。朝早くに畑に水やりをして、そのまま水を汲んで戻ったら、武芸の訓練がある。それから疲れた体を引きずって読み書きの勉強をしてから、我らが尊主の話を聞き、書庫の掃除をして本を片付けて少しだけ自由な時間があった。自由時間にはセノとセトスと神殿の中をひたすら走り回って見たことのない隙間を探してそこに入り込んで遊ぶのだった。
畑は質素なものだ。栄養の少ない砂地を耕しても無駄なので、過去の川の流れを遡ってその底の土をほじくり返して陰になっている土地に撒いて使う。今や川など存在せずとも、川が運んだ栄養は未だ地面の下に残っていることがある。それを俺たちは探している。とはいえどんなに頑張っても土が悪く収穫率は悪いので、雨林ほど美しいトマトは育たない。これは目覚めた後にジュライセンがぼやいていた言葉を引用した。
武芸とはここでは槍と弓の技術を指す。
砂漠には隠者と呼ばれる人たちがいる。彼らはキングデシェレトの時代より受け継がれた古来の弓術、槍術、棍術を次世代へ受け継いでいる人々のことだ。俺たちは自分たちのことを隠者とは呼ばない。俺たちの受け継いできた武技・武芸そしてその心は我らが尊主から受け継いだものだからである。もちろんそれらは砂の王より引き継いだものになるので、外部の人間から見ると俺たちも隠者とはかなり近い部類になるのだろう。それでも俺たち自分たちを隠者と呼ばないのだ。
俺たちの師匠はアルジナという人だった。アルジナは槍にも弓にもその他のありとあらゆる武芸に通じる人で、俺たちは何十回となく地面に叩きつけられてそのたびに泣いていた。
一番跳ねっ返りがセトスで、一番地面に叩きつけられていたと思う。その度に大泣きして俺の服で鼻水をかんでからもう一度アルジナに挑むので、その度に俺はセトスに頭突きをした。セトスには同じように頭突きで返されるので、掴み合いの喧嘩になってアルジナに殴られることもしばしばあった。
セノは強情であるが、同時に人見知りをする。初めて沈黙の殿にやってきてアルジナと顔を合わせた時はセトスの後ろに隠れたきりなかなか顔を見せなかったので、アルジナはまずセトスを投げた。セトスが壁まで飛んでひっくり返ると、セノはすぐに俺の影に隠れたので俺も投げられた。そして最後にセノも投げられた。そのうちにセノもアルジナに慣れたのか、普通に向かっていくようになったが、結局アルジナに勝てた記憶はない。
俺はあまり槍や弓に興味がなかった。とはいえ真面目にやらないとそれはそれはこっぴどく怒られる。さらに合間合間でお互いを相手取っての稽古もさせられるのだが、その時にセトスに勝てないとセトスがニマっと笑うのだ。それがやけに腹立たしく稽古は真面目にやった。けれどセノとセトスの方が才能はあるとアルジナが言っていた。俺はちょっと反応がトロいらしい。
一番基礎に忠実な動作をするのが俺、どんなに回転しても視点が一切ずれないのがセノ、体のバネが強くどんな姿勢からでも復帰が早いのがセトス。それぞれ特徴があるが、結局俺が一番才能がなさそうだとも言われて正直ショックだった。余談だが俺はセノとセトスと比較すると武芸の才能はなかったが、雨林で教令院の連中と関わるようになると、俺は十分に強いことを理解したのもショックだった。セノとセトスがちょっとおかしかったのだ。
武芸の後は痛くて眠い体を引きずって読み書きの勉強になる。この時間になると、朝早いこともあいまって俺たちはただただ眠かったのだが、この時に少しでもうつらうつらなどするとまた引っ叩かれるので、結局俺たちは必死になって起きていたと思う。
三人とも本を読むのは好きであったし、物を覚えて先生に褒められるのも、覚えたことを生活の中で使うことも楽しかった。それに俺はセトスやセノと比べて字が上手いと褒められたのも学ぶことが好きな理由だ。元々文字を覚えることは好きで、写経も嫌いじゃない。母が書記官であったから文字を書くことに馴染みがあったことも俺が文字を覚えるのが早かった理由なのかもしれない。
俺たちはそうやって物心つく頃には兄弟のように毎日を過ごしていた。
遺跡の前で誰が一番砂の山を高く盛り上げるかを競走する。かくれんぼをするなら一番変な洞穴を見つけた奴の勝ちで、外に出た時はオアシスの水の中に一番潜って入られた奴が夕飯のザイトゥン桃を残りの二人から半分ずつもらうことができた。
◇ ◆ ◇
この関係に変化が生まれたのはジュライセンが目を覚ましてからのことだった。いや、ジュライセンそのものが俺たちへ決定的な変化をもたらしたのだから、そもそもジュライセンを砂漠で見つけたことが全ての始まりだったのかもしれないと俺は思っている。
ジュライセンを拾って十日後のこと、彼はようやっと目を覚ましたのだった。
◇ ◆ ◇
雨林からの客人が目覚めたのは俺たちが砂漠で彼を見つけてから十日後のことだ。セノが見つめている前でジュライセンはゆっくりと瞼をあけて、そしてセノを見て一瞬驚いた表情を見せたという。セノは大きな声で大人を呼んで、俺たちもすぐにそれに気づいて駆けつけたのだった。
ジュライセンはじいちゃんと何事か話をするためにじいちゃんのところへ呼ばれたので、俺たちはそれを見送って日常に戻っていった。
俺はジュライセンとじいちゃんが何を話していたのかについてはわからない。ただ、その話し合いの後、ジュライセンは砂の下に埋まることもなく沈黙の殿に居座ることになったのだった。
その日から俺たちの授業にはジュライセンも加わるようになった。俺たちは今まで文字の読み書きを主体に勉強をしていたが、そこにジュライセンが教師役として加わり、地脈についてや水脈について、植物について、人体について、歴史についてと様々なことを教えてもらった。砂漠の歴史に関しては正直なところジュライセンより俺たちの方がよく知っていたとは思う。ジュライセンと話をするのは自分たちの知らない世界や、思考について知ることができてとにかく面白く毎日のようにジュライセンに話をせがんでいた。特に俺たちの中でもセノはジュライセンによく懐いていたように思う。ジュライセンは俺たちを平等にかわいがっていたが、じいちゃんと話をするために俺たちを置いていくこともしばしばあった。その時に何を話しているのか、それはやはり俺は知らない。
ただその頃から大人たちが俺たちを見てひそひそを話をすることが多くなった。またひどく体を壊した大人たちをちらほらと見るようになりその看病に動き回ることも多くなった。
俺たちは何かが水面下で動いていたことを感じていた。沈黙の殿の空気が重くなっていること、何かが始まっていることなどを察して大殿堂の端っこで固まっていることも多くなった。何故か動き回って離れてしまうともう二度と出会える気がしないという気持ちもあった。だから俺たちはその頃はいつも手をつないで過ごしていたような気がする。俺たちはどこに行っても一緒だった。
◇ ◆ ◇
じいちゃんに実験の話を聞かされた時、俺たちはジュライセンとじいちゃんがこの話をずっとしていたのだと察したのだ。調子の悪い大人たちがより増えたのもそのせいなのだと察したけれども、沈黙の殿の首領がすでに決めたことであれば子供の俺たちに反旗を翻す権利など存在はしないのだ。俺たちはただ頷くほかに何もできることはない。
その実験とはヘルマヌビス様の力の欠片、俺たちが跋霊と呼ぶものと共鳴できる人間に跋霊を埋め込もうという計画だった。長い間沈黙の殿は影響力を失っており、さらに聖骸獣の襲撃なども重なりいよいよ未来が見えなくなりつつある。
ジュライセンはじいちゃんとヘルマヌビス様の力の復活とその実験について話をしていたのだという。そしてその結論は幼子でなければ力に適合しないだろうというものだった。だからこそ幼い俺たちが選ばれたのだ。
じいちゃんは血のつながらない孫であるセトスを差し出した。またセノもその実験に選ばれた。もともとじいちゃんは何れその日が来ることを見越して跋霊の力に反応する子供を集めていたそうだ。跋霊のほかにもヘルマヌビス様が残した遺物は数多くあり、その一部でも拒否反応が出る人間はいる。人ならざるものの力は強くそもそもじいちゃんはセノをそのために買っていたという。セノの年齢はじいちゃんの求めていた子供だったのだ。そしてじいちゃんはすでに母に話をしていたらしい。母はヘルマヌビス様への信仰心が強かったからむしろ喜んだという。
さて、俺はその時にどうだったかというと、どちらかと言えば俺も嬉しかったのだと思う。俺もヘルマヌビス様のことは信仰していたし、その器になれるのだったらいいと思ったのだ。さらに言えば俺は沈黙の殿が好きだった。稽古はきつかったし勉強も忙しく生活も楽ではなかったけれど沈黙の殿が好きだったから皆がそうやって求めるのであれば、その求めに応えたいとも思っていた。ただ同時に不安だったのは跋霊は二つしかないことだった。誰が選ばれないのか、それとも一人しか選ばれないのか、もし俺が選ばれなかったらどうしようという気持ちがある。俺はそのことが不安だった。その時に俺たちの関係が崩れるのではないかという気持ちが少なからずあった。
セノとセトスの気持ちについてはわからない。二人の顔を隠れるように見るとやはり不安と期待が入り混じったような感情が浮かんでいたように思う。セノは俺たちのように沈黙の殿の生まれではないけれど物心ついたころにはすでにヘルマヌビス様について多くのことを教えられていたから、セノは俺たちとは違う出自であるけれども俺たちとほとんど気持ちは変わらなかった様子だ。
◇ ◆ ◇
実験は順調な滑り出しだった。俺もセノもセトスも実験を嫌がることなく協力的であったため大きな問題もなく共鳴が始まったのだ。
そしてそこで俺が脱落した。
共鳴するための法陣が引かれている部屋に入った途端に、強いめまいを感じたのが始まりだった。
しんと静まり返った部屋で、セノとセトスが恐る恐るといったように部屋の中央まで歩いていく。二人は何も感じていないのか俺の手を引っ張って早く真ん中まで行こうと声をかけてきた。
部屋の中央には絨毯が引かれた場所が一つあり、俺たちはそこに座らなければならなかった。それがじいちゃんとジュライセンの指示だったのだ。
「ジェフト」
セトスが不安そうに俺の名前を呼ぶ。後で聞いたところによると、その時の俺はそれはそれは酷い顔色をしていたそうだ。
俺はまだ何も始まっていないのに重たい体を引きずってセトスとセノと一緒に座った。しばらく座っていると俺の体は多少落ち着いてきたので、少し息をし部屋を見まわしたのだった。
入り口から入ると少し高くなったステージがある。広いステージは大人が十人手を繋いで横に並んでもまだ余るほどの余裕があった。そのステージを歩いて進んで、その奥には急な階段と祭壇がある。それ以外は普段はさっぱりと何も置いていない部屋だ。沈黙の殿はどこに行っても砂と縁が切れないが、この部屋だけは砂つぶの一つも見つからないほどに掃き清められている。
ここは何度か俺も入ったことがある。この部屋は少し特殊な部屋で、壁一面にヘルマヌビス様の記したという様々な法陣が描かれている。元々危険な知識や技術を封印するための部屋だそうだ。儀式に使われるような場所なので、俺は入ったことがあるといっても過去に一度だけだった。その時は大人たちの作業の手伝いのために入った。
部屋にジュライセンの声が響いて、実験が始まった。俺たちの正面にある祭壇に跋霊が現れた。
それは小さな光の粒に淡く光る紫色のラインが結びついている。紫色のラインには何事か文字が書かれているようだが、流石に遠すぎて読むことが出来ない。跋霊は祭壇の上に浮いている。
俺は跋霊が現れた途端にまた酷い目眩に襲われた。
「ジェフト?」
セノとセトスはしばらく跋霊に目を奪われていたが、俺が頭を抱えるように蹲ったことで、俺の異変に気づいたらしい。
その時の俺はもはや周囲の様子を観察することも出来ないほどに酷い眩暈と吐き気、それから体の強い痛みに襲われていた。セノとセトスは必死に俺の体を叩いて、撫でて、俺の名前を呼んでいたというが、俺はもはや何も聞こえていなかった。その直後、胃から競り上がるものを全てぶちまけて俺の意識はどこかに消えてしまった。
◇ ◆ ◇
砂原に立っている夢をみていた。
砂丘が折り重なり、遠くまで続いている。俺は硬い岩の上に立っておりそこが少しばかり高いために遠くを見渡すことができた。
一つの砂丘にセノとセトスが立っている。二人は俺に背を向けており手を繋いでいた。俺もそちらに向かおうとして必死に声を張り上げたが、二人はまるで気づく様子がない。二人は俺に背を向けて歩き出し、やがて今まで見えなかった遺跡が現れた。扉が開かれる。まるでセノとセトスを招いているようだ。俺は岩山から降りようとしたが、その場から一歩も動けなかった。
足は地面に張り付いたように頑固で、ピクリとも動かない。膝から下が岩と合体してしまったかのようだった。上半身をもがいても、声をどんなに張り上げても俺はセノとセトスには気づいてもらえない。心臓がはねて、恐怖を感じて、悲しくて涙が溢れてどうしようもなくなってしまった。
「セトス! セノ! 待って! 待ってよ!」
二人は紫色のもやに包まれて遺跡の中に入っていく。いやそれは遺跡だと思ったけれどもよく見れば多くの白い布を纏った祭祀たちが列を作っている。あれは、俺たちが知らない沈黙の殿に人が溢れていた頃の記憶だ。
「セトス! セトス待って! 置いていかないで!」
声は届かなかった。セトスとセノはそのまま神殿の中に入ってしまう。
祭司たちがこちらをみた。俺のことに気づいていると思うと今度は途端に声が出なくなった。けれども祭司たちは俺に対して何か動きを見せることはない。ただこちらを見つめて、最後に一つおじきをして神殿の中に消えていった。
神殿はやがて色を薄くし、最後には砂丘しか残らない。影も形もなく消えてしまった神殿、岩の上に一人取り残された俺は、また悲しくて泣いていた。
そんな夢だった。
◇ ◆ ◇
光が差し込んでくる。
ゆっくりと目を開いていくと、まぶたの形に光が差し込んできて、徐々に頭の中に像が結ばれていく。最初は何も映っていない砂色のものが一面に広がっていたが、そこにひょっこりと現れたセトスの顔をみて俺はようやっと覚醒したのだった。
セトスが俺の脇から俺の顔を覗き込んでいる。俺は自分の部屋で横になって天井を見つめていたようだった。
「ジェフト! 目が覚めたんだね、よかった!」
セトスがぴょんと跳ねると、ふわふわとした茶色の髪の毛もまたぴょんと跳ねた。俺は体を起こそうとしたけれど目の前がグラグラするので結局横になったままぼんやりとセトスを眺めている。
セトスは一度部屋を駆け出して、近くの大人に声をかけたらしく元気そうな声が部屋の中にまで届いてくる。けれど耳も少しぼんやりしているのか不明瞭な音だけを認識している状態だった。
セトスはもう一度部屋に戻ってくると俺の頭の上に水で濡らした布巾を置いた。
「まだ熱がある。ジェフトはあの後のこと覚えてる?」
何にも、と俺は言った。
「ジェフトは部屋に入ってからすごく変な顔してた。部屋の真ん中に座った後、すぐにジェフトは吐いて倒れたたんだけど実験は中止できなかった……それで……ジェフトが倒れてからも実験は続いて……」
セトスはそう言いながら俺の手で遊んでいる。それから俺が寝ている寝台の上に乗り上がって、俺の横に並んで横たわった。セトスが俺の腕を抱き込むようにしてぎゅっと近づいてくるので俺もセトスに抱きつきたかったけど、腕はあまり動かない。
「ジェフトが死んじゃったかと思った。動かなくなって、すごい熱があって、僕もセノもずっと泣いてたんだけどじいちゃんもジュライセンも助けてくれなくて……」
セトスがぎゅっと俺に抱きついたのがわかる。
「それですごく時間が立ってから大人たちが入ってきた。大人たちはジェフトを抱えて出て行ったけど、僕とセノはじいちゃんに呼ばれて『てきごうしゃ』だって言われた。てきごうしゃってなに?」
セトスは純粋に問いかけてくる。俺は天井を見つめた姿勢のまま、心がひどく落ち込んでいくのを感じた。
俺はヘルマヌビス様に選ばれなかった。選ばれたのはセノと、セトスだ。
◇ ◆ ◇
俺はその後、他の大人たちからも実験の結末を聞いた。
セノとセトスは跋霊の力を増幅させた法陣の中にいてもほとんどなんの影響も受けなかったらしい。過剰な興奮状態にあったとは言っていたが、俺が倒れた影響もあって断言はできないとのことだった。
今までにも大人に対して同じ実験を繰り返しており、俺は完全に意識を失ったのにも関わらず、影響は薄い方だそうだ。年齢を重ねれば重ねるほどその症状は重くなり、人によっては目覚めない場合もあるという。俺は子供であるが故に一日寝込むだけで影響は抜け、次の日からはおよそいつも通りの日常を送っていた。
ただそんな中で唯一いつも通りでなくなってしまったことは、自分がこれからどのように自分の気持ちに決着をつけたらいいのかということだった。
セトスとセノと俺はいつも一緒でヘルマヌビス様のことを信仰していた。俺だけが選ばれなかったという事実に俺は俺の自尊心が酷く抉られるような感覚を覚えている。そして俺の信仰にもまた疑いを抱いた。そもそも俺たちの信仰とは守るべきものとしてヘルマヌビス様の遺物を大切に扱い、知恵を守り続けたヘルマヌビス様への敬意である。信じれば救われる、そう言った信仰も確かにこの世には存在しているが、俺たちの信仰とは異なるものだ。だからこそだろう。あんなにも教えに忠実であろうとしたのにという裏切りを感じたことから俺の中の信仰が大きく揺らいだのだ。当時の俺はその事実を受け入れることができず、ともすると意識がぼんやりとしてどこか遠くを見ることが多くなった。その度に俺の目の前には夢の中と同じように神殿の中に入っていくセノとセトスの姿が見えるのだ。
セトスは特にそんな俺の異変に気付いたようで、あの実験以来セトスはよく俺のそばにいて俺が遠く見つめる時に俺の体に抱きつくようになった。何故わかるのかと尋ねると、セトスは「瞳の中に砂丘と青空が見える」というのだった。それからどこにもいかないでと言った。セトスがそのように俺のことを求めると、俺の自尊心が歪んだまま満たされていくのを感じる。ヘルマヌビス様に選ばれたセトスが俺を求めてくれうというのは俺の誇りになろうとしていた。
共鳴は順調に進み、ついにセトスとセノに跋霊の埋め込みの日がやってきた。
最初の話では共鳴ののちしばらく後にどちらかに跋霊を埋め込むのだという話だった。俺はその話を聞いてホッとした。跋霊は二つあると聞いていたから、二人に埋め込むものだと思っており、三人の中で俺だけが選ばれなかった疎外感に苦しんでいたからだ。
しかし実際にはセトスとセノの二人に跋霊は埋め込まれた。どうやら何かしらの事情が発生したらしい、とじいちゃんに聞いたのは随分と後のことだ。早い段階で呼び出されたセトスとセノはその場で跋霊を埋め込まれた。
俺は二人に跋霊が埋め込まれるその瞬間を見届けるために母と一緒に儀式殿へ踏み込んだのだった。見届けるために俺と母は過去の記録を読み込んで、様々な事例について学んだが、跋霊を埋め込むということは決して良いことだけではないように思えた。適合者であっても強大な力を体の中に取り込むということはその力が馴染むまでに耐え難い苦痛があるということ。その一方で適合者はまず死ぬことがないこと。しかし跋霊を手放した瞬間に息絶えることすらあるということ。跋霊が埋め込まれている間は人が簡単に死んでしまうほどの苦痛に耐えながらも、跋霊が消えると同時に死んでしまう可能性があるというその事実に俺は泣きそうになった。セトスとセノが二人同時にいなくなってしまうのかもと思うと、怖くて涙が溢れた。ただ同時にその時の俺は自分自身も怖かったと思う。死んでしまったら俺はこうして選ばれなかった事実に苦しむことはないのだから。セトスもセノも大切な兄弟なのにそうやって思うことはひどく重苦しい重圧であった。
◇ ◆ ◇
やがて共鳴の日を迎えた。
儀式殿の中央で、セトスとセノが台座の上に横たわった。セトスが俺の方をチラリと見たが、俺はセトスには近づいてはならないと言われていたから、セトスの視線に応えることはできなかった。あの時確かにセトスはそばにきて手を握ってほしいと言っていた。
跋霊はじいちゃんが持っているものかと思ったけれども、それは気づけばセトスとセノの胸の上に浮いていた。俺は驚いて息を呑んだけれども、周囲は沈黙したまま見守っているので俺も必死に跳ねる心臓を押さえつけて冷静さを保とうと必死になる。
跋霊が二人の中に入ってしまうのは本当に一瞬のことで、気づけば重苦しい雰囲気は無くなった。
誰もが息を呑むような静けさの中で、小さな呻き声が響く。
「いたい……」
「うう…うーー……l
セトスとセノが小さく呻いていた。その声は
徐々に徐々に大きくなっていって最後には儀式殿に響くような絶叫となった。
「いたい! いたいいたい! やだとって!!」
「うあああ!!」
泣き叫ぶセトスとセノに耐えられなくなって俺はその場に立っていなさいと言われたことも忘れて、思わず二人に駆け寄ったのだった。それで俺も訳がわからなく無くなって泣き叫んだ。二人の手を取って、必死に名前を呼びながらじいちゃんとジュライセンと他の大人たちを見たけれども誰も助けようとはしてくれない。
俺の求める助けは跋霊を二人から取り除くことだ。それをしてくれなかったことは俺にとっては助けてくれなかったことと同義である。それでも二人の痛みを和らげようとはしてくれていた。
儀式殿で跋霊を埋め込んだのは、この儀式殿に跋霊の力を中和する力があるからだ。ヘルマヌビス様が人のために残したその術があれば、跋霊を埋め込まれた苦痛を多少は緩和できるという。でも俺は早く二人から跋霊を取り除いて欲しかった。でなければ二人が死んでしまうと思ったからだ。
しかし跋霊は一度埋め込んだ場合、基本的にそれをもう一度体から抜き取ることは非常に困難が伴う。そこに強い意志と跋霊の望みがあれば別だというが、過去に跋霊を無理に取り除いたことで死んでしまった戦士たちの記録も数多く残っていた。
俺はセトスとセノの手をぎゅっと握って必死に「死なないで! 死なないで! おいてかないで!」と泣き叫び、セトスとセノは長いこと痛みに埋めていていたと思う。途中から舌を噛まないように猿轡を噛まされて強く体を打ち付けないように台座に縛られてそれはまるで実験体そのものであった。
そして長い苦痛の果てに、セトスとセノは完全に意識を失った。痛みと疲労が重なったのだと思う。悲鳴の感覚が徐々に徐々に伸びていってそのまま俺の手を握る力も弱まっていく。それがまるで二人の死であるかのように感じて俺は一層泣き叫んだけれども、結局二人の手は力を失って同時に俺も泣き止んだ。どうにもならないとそこで諦めてしまったんだと思う。俺は放心状態のまま母に連れられて儀式殿を出た。セトスとセノはほかの大人たちが部屋へと連れて行った。
その日の晩は本当に静かな夜だった。いつもなら小さな明かりの下で夜遅くまで本を読んでああでもないこうでもないと三人で語り明かしているというのに、今日は隣で寝ているセトスとセノの体温がない。それが寂しくて二人が寝ている部屋に何度も忍び込もうと思ったが大人たちに見つかって追い出されてしまった。俺は結局一人で眠れない夜を過ごした。
次の日、大人たちから許可が出たので俺は急いで二人の部屋に向かった。
跋霊の相互の影響を観察するためにセトスとセノは同じ部屋で寝かされている。セノが先に起きたらしく、ジュライセンにいろいろと体を調べられていた。瞳孔、血圧、体の痛み、あるいはその他のいつもと違う何かについて尋ねられていたが、セノは終始ぼんやりとしている。それが心配でジュライセンの後ろでそわそわとしていると、ジュライセンはようやっとセノの寝ている寝台の脇からどいてくれた。
「セノ」
セノはぼんやりとしたままどこを見ているのかわからない。夕暮れの美しい瞳が何も映していないのがひどく恐ろしい。俺は必死でセノ、セノと名前を何度も呼んでいると、ジュライセンが後ろで何かを書きつけているのがわかる。きっと今の反応を見ているのだろうと思ったが、そんなことはどうでもよかった。セノが反応してくれないのが心配だった。
◇ ◆ ◇
俺たちがこの実験について何を思っていたのかというとたぶん、不安はあったとしても強い嫌悪感はなかったんだ。
教令院の規則に従うならば、これはあまりにも非道な人体実験なのかもしれない。けれど俺たちにとってヘルマヌビス様の力を得るということは、自分たちとその家族と仲間を守るために必要な力を得る行為であり、さらに信仰の源へと近づける何よりも貴重なチャンスだとさえ思っている。今も、そうだ。その一方で痛みや苦しみがあると言われれば恐れもある。恐怖も不安も大きい。
俺たちは誰にも哀れまれる必要はなく、俺たちはこれを少なくとも俺の意志だと信じている。もちろん、この力を得たことでセトスが自分らしく生きることに迷い続けていたことも知っている。それはまた、別の話になる。与えられた力と強すぎる期待にさらされれば、反発する気持ちも強くなる。さらにセトスが言っていた。自分の中に生まれた感情が、果たして本当に自分が心の底から思ったことなのか、それとも熱に浮かされたようにヘルマヌビス様の意志によって生まれたものなのか判別がつかないときがあると。それが、怖いと言っていた。自分が自分でなくなるようだ、と。
◇ ◆ ◇
随分と長い間セノの名前を呼び続けていたと思う。俺はだんだん反応がないことが怖くなってきて、セノの膝に縋り付いて泣いていた。わんわんともうどうしたらいいかわからないぐらい泣いていると、ふと頭に触れるものがあって、それがセノの手だとわかって顔を上げるとセノが丸い目を驚いたように見開いてこちらを見ていた。
「セノ!」
「……ジェフト」
「目が覚めた? 痛くない? 体は平気?」
「うん、平気。痛くないし、怖くもない。でもすごく気分がいい」
「セノ……」
「ずっと向こうまで見えるんだ。砂漠の風と振動が伝わってくる。あっちに水がある」
「セノ……?」
セノは恍惚としたような表情でしばらくそんなことを語っていた。それは、明らかに異様な姿だった。セノでないものがセノに乗り移って語り掛けているようだ。
ジュライセンが後ろで息をのむのがわかる。
その時俺は知らなかったけどじいちゃんもすぐそばまで来ていて様子を見守っていたらしい。セノの様子には本当に驚いたと言っていた。
ただそれ以上何かを言いかけて、セノはひゅっと大きく喉を鳴らすと体を折り曲げてまた痛みを訴え始めた。昨日ほど強い痛みではないようだが、痛い痛いと小さく呻くセノがかわいそうで苦しくて俺はまた涙があふれてきた。すぐにセノは寝かせられて、軽い鎮静剤を与えられた。昨日あれだけ体を縛る縄を引きちぎろうと暴れたために体の節々が痛んでいるはずだと大人たちは言っている。セノはもうしばらく寝かせないといけないのだ。
結局その日にセノと会話をしたのはそれきりで、セトスはその日にはついぞ目覚めることもなく、また俺は一人の夜を過ごしたのだった。
◇ ◆ ◇
セノはセトスが目覚めてからさらにその二日後に目覚め、しばらくの間は二人とも強く力を発現することもなく、また痛み等も訴えることなく日常を過ごしていた。二日目になるとセトスもセノも表に出たいと駄々をこねたので沈黙の殿の中に限って二人が自由に行動することが許されたのだった。俺はジュライセンからセトスとセノが倒れたり調子がおかしくなったらすぐに連絡するようにとよく言い含められて、二人に付き添うことを許されている。
セトスとセノはいつも通りに遺跡の合間を駆け回っていたが、時々足を止めて頭を叩くようなそぶりを見せた。頭が、いたいのだという。俺はすぐに大人を呼ぼうとしたが、二人が本当になんでもないからと必死にいうので結局俺が折れるしかなかった。
ただ俺はその選択肢を後悔している。いや、この件については後悔しても意味はないものなのかもしれない。二つの跋霊を、二人に同時に入れるなどどう言ったことが起こるのか誰も予想ができないのだから。二人の体の変調は休めばどうにかなるといった、単純なものとは程遠いのだ。
突然二人はうずくまって強く頭痛を訴え始めたのだった。俺は大声で悲鳴をあげて結果それに気付いた大人たちが集まってきた。痛みを訴える二人を部屋に運ぶ。その時はなんともなかったのに、次に二人の体に触れた時高熱に犯されており通常であれば生死の境を彷徨う段階に至っていた。けれども二人の高熱はおそらくただの体の不調や病ではない。なんらかの形で跋霊が二人の体に適合しようとしている証拠であり、同時に二人の体が人ならざるものを受け入れるために変化しようとしているのだと、じいちゃんとジュライセンが言っていた。俺は早く跋霊を取り除いて欲しかった。二人が苦しんでいるのを見るのはあまりにも辛かったのだ。じいちゃんとジュライセンが恨めしかった。俺には今でも、ジュライセンが来なければこんな実験始まらなかったのにという思いがどこかに残っている。けれどそれは違う。沈黙の殿は必ず二人に跋霊を埋め込むことを望んだだろうし、セトスとセノもそれを受け入れただろう。じいちゃんとジュライセンでなくとも、誰もがわかる。跋霊について知らない頃からセトスとセノは神殿の中を自在に歩き回った。大人の知らない隠れ場所を見つけるのはいつだってこの二人で、まるでこの神殿について初めから何もかもを理解している様子でもあるのだ。セトスとセノはヘルマヌビス様の器としてふさわしいのだから、そしてヘルマヌビス様の導きがある限り、セトスとセノのこの運命は決して変わることはなかっただろう。
◇ ◆ ◇
そして誰もが知るこの結末に至る通り、ジュライセンはセノを連れて出ていった。セトスとセノはその頃には明らかに二人が一緒にいることで強いからだの変調を訴えるようになっていたのだ。二人は今別室で寝るようになった。沈黙の殿の中でもいちばん離れた部屋をあてがわれ、日中もほとんど会うことなく生活をしている。
俺は交互にセトスとセノの部屋で寝ていたけれども、セノは俺が居ない日に寂しくなってジュライセンのところを訪れたらしい。その日からセノはジュライセンといっしょに寝ていて、俺はセトスと寝るようになった。
いくら部屋を離していても限界が近づきつつある。セトスとセノの中の跋霊は相互に強く影響し合っているようだ。あるいは、二人を別々の場所に置けとヘルマヌビス様が言っているのかもしれなかった。
ジュライセンはその頃からじいちゃんにセノを雨林つまり教令院に連れて行くことを主張し始めた。この頃の二人は時折昏睡状態に陥るようになっており、ジュライセンはそのことも心配していたのだ。じいちゃんは反対した。
ここでじいちゃんとジュライセンについて少しだけ話しておきたい。じいちゃんは沈黙の殿の首領として時に非情な選択もしてきた。人を殺したことも、その選択を他人に命じたこともある。じいちゃんの肩には沈黙の殿とその責任が乗っており、それを捨てるということは沈黙の殿の多くの人たちと今まで積み重ねてきたものが砂の中に消えるということを意味する。一方ジュライセンは学者だ。その肩にはじいちゃんのような責任がのしかかったことは一度たりともないのだろう。ジュライセンはどちらかといえば知識に対して貪欲だった。普段のジュライセンは沈黙の殿で毎日のように書籍を読みふけっている。その中に二人の苦痛を和らげる答えがあると信じているようだった。ジュライセンは知識について間違うこともあるが、その一方で優しさを兼ね備えている。それは責任のなさゆえの優しさであり、同時にじいちゃんがセトスに少しだけでも向けるべき赦しでもあったのかもしれない。
じいちゃんは決して非情なだけの人ではなかったけれども、血の繋がらない孫のセトスに重すぎる期待を抱いていた。彼こそが沈黙の殿を救うのだと、信じていた。セトスは聡かったからこそ、その期待を感じてその期待に答え続けてしまった。その話はまた今度にするけれども、とにかくじいちゃんに足りない優しさをジュライセンは持っていて、ジュライセンは責任の重さがなかった故に二人は真っ向からぶつかったのだ。
セノを雨林に連れて行くべきか否か、その話は随分と長かったけれども、結局じいちゃんが折れた。その頃からまるでジュライセンを後押しするようにセトスが昏睡状態に入って目覚めなくなってしまったのだ。セトスの声が聞こえないままの日々を過ごすにつれてじいちゃんは明らかに憔悴していった。じいちゃんもセトスや俺やセノのことを可愛がってくれていたことは知っている。だからあのとき本当に怖くなったのだと思う。じいちゃんはジュライセンとセノが沈黙の殿を離れることを赦し、そして二人はいなくなった。同時にセトスは目を覚まし、そうすべき運命だったのだろうと誰もが思ったのだった。
◇ ◆ ◇
ここでセノとは随分と長い別れになってしまった。ジュライセンも形としてはじいちゃんと喧嘩別れしたようなものであったから、連絡など一切なく、俺達ももはやいないものとして振る舞った。唯一、セトスがセノと別れをすることができなく悲しむんじゃないかということだけが懸念だったが、目が覚めたセトスはセノのことを覚えていなかったのだ。それどころか幼い頃の記憶の殆どがあやふやになっていた。俺のことはかろうじて覚えていたもののその他のことについてほとんど記憶がない。俺はその日セトスの中からいなくなってしまったセノと、きっとセノの中からもいくなってしまったセトスのことを思って泣いた。あの日々はも二度と帰ってこない。
誰が去り、誰が死に、誰がどのように変わろうとも風砂は侵食を続ける。
気づけば俺達の背は随分と伸びていた。セトスはあるところで緩やかな成長になっている。跋霊を受け入れた影響なのかもしれなかった。俺は正式に沈黙の殿の書記官長に就任し、またセトスは誰が口にせずとも次期沈黙の殿の首領であった。成長するにつれて跋霊の力を持つセトスへの期待は膨れ上がり、セトスの両肩に乗る重責は増していくばかりだった。セトスはそんな状況に何一つ文句を言うことはなく沈黙の殿のために跋霊の力をコントロールする訓練を続け、相応しい力を身につけていく。セトスは確かに理想的でヘルマヌビス様の遺した全てに忠実な戦士である。しかしその一方で幼い頃にはあったセトスという個は書物の中に埋もれつつあった。いずれ伝承に残るはセトスではなく跋霊の力を扱うセトスという名前のついた人間であり英雄だろう。そこにはセトスの意志や思いや苦痛は加算されることはない。なぜなら英雄に必要なものは劇的なその力と物語なのだから。
しかしその英雄にも苦痛があったことを俺は知っている。昼夜を問わず全身を苛む苦痛、セトスが跋霊の力を使いこなすようになればなるほど英雄として期待が増えていく精神的な疲労。セトスは夜になると寝台に潜り込んで何も言わずに寝てしまうことも多かった。今日という日から早く逃げ出したいと願い続けているようにも思う。
セトスはもう何度目かになる高熱のさなかに俺に伝えたことがある。跋霊を取り除きたい。それができないならここから消えたい、一緒にどっかに行こうと言った。俺はその時に応えることができなかった。セトスはそう言ったきり意識を失って次に目覚めたときにはそのことについて何も言うことはなかった。熱に浮かされていたときの話だから何も覚えていなかったのかもしれない。ただ、セトスは熱が出るたびに同じようなことを口にして次の日に覚えていないということを繰り返していたから、あれこそが本音なんだと思う。
俺はある時意を決してセトスに「一緒に逃げようか」と言ったことがある。全部捨てて、跋霊は捨てることはできないけれども、責任も期待も自責も自罰もない世界を旅しようかと応えたことがある。その時セトスは少しだけ笑って「やっぱり、やめる」とだけ言ったのだった。それ以降、セトスはその弱音を吐いたことはない。
◇ ◆ ◇
物語が動き始めたのはじいちゃんが病に伏せるようになってからだ。手足の震え、喘鳴、その他多数の症状を抱えながらもじいちゃんはセトスに沈黙の殿の首領の座を譲ることはなかった。
じいちゃんは自らの手で決着をつける覚悟を決め、そのすべてが片付いた沈黙の殿をセトスに譲ると決めていたのだ。
俺たちはその頃から何度も雨林とスメールシティに足を運ぶようになる。セトスは覚えていないもう一人の跋霊の保持者を観察するためだ。
セトスは自らの片割れを長いこと木の上から眺めていた。セノ、大マハマトラ、その言動は成すべきことを成すと覚悟した人間から溢れる自信と活力に満ちている。短い時間の観察であったけれども、セノは跋霊の力に相応しい人間になろうと意気込みその責任について考えている様子はなかった。セノはただ、その力を振るう意味と守るべきものについて考え続けその結果として跋霊を使うに相応しい人間になった。
セトスは長いことセノのことを見つめていたが、やがて赤い太陽が雨林の木々の隙間から見えなくなる頃に木を降りて、沈黙したまま宿のベッドに潜り込む。俺は声をかけられずに黙ってセトスの背中を見つめていた。
その時にぽつりと呟かれたセトスの言葉で妙に印象深いものを覚えている。
「僕はなんでセノじゃないんだろう」
その言葉にはセトスが今まで誰にも言えなかった苦しみが眠っているに違いなかった。誰かの期待通りにあろうとするセトスの隠された苦痛の表出であり、熱のある日にしか吐き出せなかったセトスの心が言葉として表に出たものだった。
セトスがセノについて言及したのはそのただ一言だけである。次の日にはいつものセトスに戻っていつも通りに動き始めていた。
狡猾に、しかし着実に。素早く、音を立てることはなく。計画は進行していく。そして俺達はついにセノを沈黙の殿に呼び寄せることに成功したのだった。
その後のことについては語るまでもないだろう。
セトスにとっては沈黙の殿の首領の座よりも何よりも欲しかった導きを得て、清々とした顔をしている。跋霊がなくなったことも影響しているのかもしれないが、俺は、ヘルマヌビス様がこの導きを望んていたのだと思っている。力を背負うだけの人間だけではいけない。この力をなんのために振るうのか、それを唯一人の人間に預けるだけではいずれ道を誤ると知ってその力を二人の人間に預けたのかもしれなかった。
◇ ◆ ◇
跋霊をセノに手渡す瞬間、セトスは確かにあの瞬間だけ跋霊を取り出す手応えがあったのだという。俺は一度だけセトスが一人きりの時に跋霊を取り出そうとしているのを見たことがある。それを誰にも、俺にも言わなかったけれども俺はそれを知っていたし、もしかするとセトスも俺が見ていることを知っていて試していたのかもしれない。今までどんなに試しても叶わなかった、とセトスは話していた。しかしセノとの決闘を通して跋霊をセノに渡そうとしたときにその力はあっさりと体から抜け出したそうだ。やはり、跋霊もこの全ての顛末を望んでいたということだろう。
◇ ◆ ◇
このようにして風と砂の大地に生まれ、そこで育った一人の英雄の話は終わることとなる。しかしながらこの言葉を繰り返す。これはヘルマヌビス様の跋霊の器としてのセトスの物語の終わりではあるが、セトスという個人の物語の終わりではない。
彼の話はまた何れ、ここに記すとしよう。
沈黙の殿 書記官長 ジェフト
あとがき
セノ伝説任務第二幕にて、セトスが「与えられた力と信仰以外で僕に何ができるのか」という問と沈黙の殿側がセノやジュライセンに何を思っているのかについての私なりの何か。2024.06.01