ティナリは森を散歩するのが好きだった。
* * *
ティナリと蒼月は博識な両親に連れられて様々な場所を訪れたが、それでもやはり森を模して造られた庭が二人に与えた影響は大きいだろう。スメールシティを取り囲む広大な雨林と、風雨と植物によって形成された独特な地形はどこかへ行って戻ってくるたびに安心するものがあった。
流れる水は不思議な洞窟を地下に作り上げていく。倒れた巨木の幹が腐り新たな生命が芽吹く様子は何度写真に収めても足りないほどに興味深い。草木は常に生い茂りその成長速度を競い続ける。雨林は常に空へ空へと成長していき、さまざまな生命を育む。
雨林に一歩足を踏み入れて感じるのは独特な土の匂い、植物の匂い。木陰に入ることで感じる涼やかな風。そして草木の中でうごめく動物たちの気配。ティナリも蒼月も雨林を構築するそれら全てが好ましかった。蒼月は生まれだけで言うならば璃月出身となるが、蒼月自身には璃月での生活の記憶はほとんどない。蒼月にとってスメールの雨林が生まれた場所に違いなかった。
レンジャーの仕事は主に人の生活に寄り添ったものになる。教令院の下部組織に属するレンジャーはスメールでは公的な組織だ。しかしながら彼らの活動は森と人の生活を橋渡しするものであり学問を最上位のものとする教令院とは少し違ったあり方を持つ。そのため教令院は広大な雨林を持つスメールにおいてレンジャーは必要な組織と認めている一方で、レンジャーに所属する人々やその活動の価値はあまり高く見られていないこともまた事実であった。教令院に属しながら教令院はそれを大々的に口にはしない。結果レンジャーという職業についてあまり詳しくなく一種のボランティア集団と考えている者もいる。
レンジャーの主な仕事に上げられるのは雨林の保護や人々の安全を確保することである。雨林に囲まれたスメールでは他国からスメールシティに足を運ぶ場合、どのルートを選んでも必ず一度は草深く木々生い茂る森の中に足を踏み入れることになるだろう。商人たちであればひと月の間に長く森の中で生活することになる場合もある。しかし商人たちは決して森の中の生活に詳しいわけではない。そういった人々を助け導くことはレンジャーの重要な課題であった。
同時に雨林そのものを保護していくことも非常に大切なことである。一つの生命を考えるとき、それはその生命のことだけでなくその生命が活動する環境にも目を向けなければ生命の活動を真に知ることはできないだろう。動植物を保護するということは雨林そのものを研究し保護するということでもある。そのために雨林の様々な生物の研究、そして雨林という環境の研究は非常に大切なものなのだ。
レンジャーの中には研究職を兼任している者も多い。また雨林での研究のため雨林の様々な点在するレンジャーの拠点を活動場所として選ぶ学生や学者も多かった。ガンダルヴァー村にも多くの学生や学者たちが滞在しており、彼らは時としてレンジャーの手を借りながら頭を悩ませ研究している。
ティナリと蒼月もそんな研究者たちの一人である。しかし所属としては教令院を完全に卒業しレンジャーであるため通常は「学者」とは呼ばない。しかし研究を続けていることは事実であるため、ティナリや蒼月のことは「研究者」と呼ぶことが多かった。とはいえ二人とも肩書はあまり気にしていないので、ガンダルヴァ村で基本的には自分たちの興味関心を元に研究を進めている。研究資金はあいにくと潤沢な物とは言えなかったが、それでも教令院という枠組みの中で研究をするよりはずっと良いと二人とも思っている。ティナリも蒼月も多かれ少なかれ教令院のやり方に疑問を持つところがある。全てが悪いとは言い切れないが、これは許容できないというものも少なからず知っていた。それ故にレンジャーになったのだ。
ガンダルヴァー村にあるティナリと蒼月の家は二階建ての、スメールの森林地帯で見られる伝統的な家だ。
昼夜問わず降り注ぐ激しい雨を遮る屋根は大きな葉を何枚も重ねる。建物全体を見るとまるでテントのようにも見える。スメールの雨林地域は地図上の一点を見た場合その温度差が大きくないのが特徴だ。どちらかと言えば温暖な気候が続き雪はまず降ることはない。そのため家は風通りがよく、降り続く雨のために高くなりがちな湿度を逃がす構造になっている。また森の中ではあまり感じることは少ないが、スメールは日差しも比較的強い方だ。これらの日差しを避けるために深いひさしと少ない窓で対応する。扉にかかるひさしは特にスメールの特徴的な家の形を表している。全体を通して風通しが良くなっており、また家を非常に太い幹と枝を持つ木の上に作るため地面から上がってくる湿度や水害を避ける。
家の素材は基盤となる柱こそ古いが、その他の屋根となる大きな葉や壁は二人がガンダルヴァ村に引っ越して来てから集めたものだ。釘などで頑強に止めるというより、極端に強い嵐が発生した場合には全体が壊れるのを防ぐため自壊する弱さを残しておく。
スメールに限らずテイワット大陸では元素を起点とした嵐というものが発生する。初めは一般人には見えない元素の小さな塊であるが、一定の条件下でそれらは大きくなり元素ごとの様々な災害をもたらす。特に集まりやすい元素は風、水、雷であり、その逆に集まりにくい元素は炎、岩だ。風、水、雷元素は災害になりやすく特にスメールでは暴風雨が激しかった。あまりにも頑丈に作られた家であるとうっかりすれば家ごと吹っ飛びかねない規模の風が吹き荒れたこともある。
そんなわけで家の中で最も頑強な一部分は作りいざという時の避難所にする。雨風の影響を受けにくい形や素材を選び、残りの部分は日常の湿気や日差し対策とする。そうすることであまりにも大きすぎる被害を避けるのだ。
二人の家ではティナリの部屋となる一階部分のベッド付近が最も安全な場所になっている。これは巨木のとてつもなく太い幹と幹の間に挟まれたような一部分となっており、その部分の柱だけはかなりしっかりと作られている。二階の部屋の蒼月は強い嵐の時には一階で過ごすことになっている。
屋根をぽつぽつと叩いていた雨の音がしなくなって、蒼月があまり大きくない窓から外を見ると木々の間をオレンジ色の光が抜けている。夕日が木の向こうに隠れていく。巨大なきのこが夕日を透かしてまるで発光しているような不思議な気配を纏うアビディアの森に夜がやってくる。
レンジャーの仕事は基本的に暗くなって手元が見えなくなる頃には終わる。夜間にどうしても森に行くこともあるが、やはり夜の森は危険だ。特に蒼月はあまり夜目が効かないため夜に森に出ることは少ない。しかしティナリは夜の森であっても目と耳が十分に使えるために活動ができた。たまにティナリは遅くまで帰ってこないことがある。
ふと、昔ティナリと両親とで夜の森を歩いたことを思い出す。勿論アビディアの森のように深い森ではない。スメールシティ近郊の整備された遊歩道であったが、灯りがほとんどなく暗闇に包まれた森は蒼月にはとても怖く感じた。ティナリや両親は多少の明かりがあれば十分に見えるらしく蒼月の見えない暗闇を歩いていく。蒼月はほとんど何も見えない暗闇が怖くなって途中から父に抱き着いて抱っこされたまま家に帰ったことを覚えている。あの時はなぜ自分がこんなにも暗闇が怖く、ティナリはこの暗闇に恐怖を抱かないのかなにもわからなかった。
今はもう昔ほど暗闇は怖くない。それは何も見えない世界に対する恐怖心が薄れただけで、今も夕日が沈んでしまえば蒼月の目にはまるで真っ黒な布で目を覆われたように何も見えなくなってしまう。そしてその暗闇に潜む危険は数多くある。それらを理解した上で、夜の暗闇にも足を踏み出すことが出来るようになったのは精神的な成長とあとはフォンテーヌから取り寄せた眼鏡のお陰だろう。暗闇の中でもわずかな光を拾う眼鏡は蒼月にはありがたいものだった。
蒼月はいくつか荷物を持つとティナリと入れ違いになったときのために一筆だけ残し家から出た。ガンダルヴァ村の家々の明かりが眩しく見えるほど明るい光が夜を照らしている。しかし一歩ガンダルヴァ村の外へ出ればもう森の暗がりの世界だ。ガンダルヴァ村を少し離れ夜闇に身をひそめる。安全な場所で眼鏡をかけてしばらく待っているとやがて目が慣れて周りが見えるようになってきた。
蒼月はそのまま森の中を歩き始める。
雨林の夜が始まっていた。
* * *
フクロウのほーっほーっという鳴き声はいつの間にか重なって大合唱になっていく。スメールにはヨガンイと呼ばれるフクロウが生息しているのだが、このフクロウは群れごとに違う歌を歌うのだ。歌い継がれてきた音を親が子に教え、夜になると各地で歌を紡ぐ。
植物は光合成が止まりその活動は呼吸がメインになる。一方で雨林には小型の動物を捕食するような植物もいる。彼らは昼夜問わず花を広げ蜜を垂らし木の実に似せた葉で小型の動物をおびき寄せるとそのまま地中深くまで取り込んで溶かして食べてしまうのだ。雨林を子供だけで歩かせるのは危険だ、と言われるのはこういった動植物が多く潜んでいるからである。
しかし蒼月にとってはそれら全てはよく馴染んだ空気であり、生き物であり、環境であった。暗い雨林の中を歩きながら生命の活動する音を聞いて道を選んでいく。
そうして随分長いこと雨林の中を歩いているとやがて両側を壁や大きな木に囲まれ、地面や壁がほのかに発光する不思議な場所へ出た。
「ティナリ」
小さく声をかけると地面の光がわずかに揺れる。
「ユエ? 珍しいねここまで来るなんて」
地面や壁に光っているのはランプのような不思議なきのこだ。名前はまだない。ティナリが最近ここを見つけてこのランプのようなきのこについて調べている。近いうちに論文を発表するということだが、最近はレンジャーの仕事が忙しくなかなか論文執筆の時間をとれないようだった。
「最近忙しそうだったし、ティナリと話す時間もなかったから」
蒼月はランプのようなきのこ__ここでは仮にランプティと呼ぶことにしよう。このきのこは夜間に光を発するだけでなく煎じて飲むと独特な甘い香りのお茶ができる。ティナリはそれを特に気に入っているのだ__の群生の中に足を踏み入れる。ランプティは振動を与えるとより強い光を発するので火を持ち込めない研究室などの明かりにもちょうどよいかもしれない、というのがティナリの研究でわかっている。
蒼月はティナリが座っているランプティの群生の真ん中に同じように腰を下ろした。ぐるりと地面から壁を取り囲むランプティの群生は実に幻想的だ。
「不思議なきのこ」
「本当にね。スメールには何度雨林に足を運んでも新しい発見がある。小さい頃は他国の植物についても研究してみたいって思っていた時があったけど……でも今はスメールだけで手いっぱいだよ」
「本当にそうね。でも私は璃月にはやっぱり行ってみたい。璃月の動植物も気になるし、それにやっぱり自分がなんなのかそのルーツは知っておきたいわ」
蒼月は葉が覆いかぶさるようにして夜空を隠す天井を見上げる。ここはぐるりと囲まれた小さな部屋のようだ。小さい頃に大きな木のうろの中に作った秘密基地に似ている。
「璃月にはいつか行こう。その時は僕もついていくよ」
「あら、私一人でもいいわよ」
「僕だって璃月の植物に興味がある。霓裳花の織物はスメールでもよく見かけるけど、スメールは霓裳花を育成できる環境じゃないからね。僕としてはやっぱり地面から生えた植物を見てみたいんだ」
「いいわね。それじゃあその時は璃月をぐるって回ってたくさん動物と植物を見て行かなくちゃ……でももうしばらく先になりそう」
「……そうだね」
ティナリと蒼月はスメールに広がる同じ問題について考えているのだろう。それは死域と呼ばれるそれは文字通り動植物がいなくなってしまい魔物が集まる死の領域だ。森は死域に蝕まれ年々その勢力を弱めていっている。いつしかスメールは死域で覆われてしまうんじゃないか、それがレンジャーに所属する者たちの不安でもあった。
死域は神の目を持つ者でなければ対処できない。ガンダルヴァー村で言うならばティナリと蒼月とコレイ、それからもう何名かの熟達したレンジャーであるが、その数名だけでは森全体にぽつぽつと発生する死域の全てに対処することはできなかった。
「もう少し安全な死域の対処方法を見つけるか、死域と共存していくか……いや共存は無理だな。死域はほっといたらただただ植物を枯らして動物を追いやるだけだ」
ティナリは再びランプティの中に倒れ込むと葉に覆われた天井を見つめる。
「どうしたらいいんだろう」
「……」
ティナリの言葉に蒼月は答えを持たない。ティナリもまた答えが返ってくるとは思ってはいないだろう。ティナリと蒼月は独自に死域の研究を続けているが、それでもその対処方法について最も安全な方法は思いつかない。常に危険と隣り合わせの中で死域を除去するしかないのだ。
沈黙が二人の間にベールのように降りかかった。ティナリも蒼月もそれぞれ別のことに考えを巡らせているのだろう。ティナリは仰向けに寝転がったまま天井に向かって手を突きだして自分の指を数えるように折り曲げていく。蒼月はランプティを突きながらその明かりの変化をじっと観察していた。
そうしてどのくらいの間沈黙の中に身を置いていたのかはわからないが、ふとティナリが「そういえばここって秘密基地みたいだね」と呟いた。
「昔庭の木のうろの中に作ったやつ?」
「そう。父さんと母さんが作った庭に気付いたら大きな木が侵食してきて、その木におおきなうろが出来てさ。子供しか入れない大きさだったから二人で入って入り口にカーテンをつけて、ランプを持ちこんで本を読んだの覚えてる?」
「カーテンって言うけどあれ母さんのスカートだったのよ? あとで怒られたの覚えてないの?」
「ははっそういえばそうだったな。勝手にクローゼットから持ち出したからすごく怒られたね」
「それでそのうろが……」
「そう、次の嵐の時には反対側にも穴があいて僕たち庭から脱走したんだ」
「すぐに見つかったけど」
「父さんと母さん、最初からかなりあのうろのことも木のことも警戒してたね。今考えると本当によくできた庭だったよ」
「うん、父さんも母さんも専門じゃないのにすごく植物のことを勉強してた」
懐かしいね、と蒼月が言えばそうだね、とても懐かしいやとティナリも言う。
「ここもあの時のうろみたいだ。カーテンはないけど」
「カーテンがなくてもここはそう簡単には見つからないわ」
「うん、僕も足を踏み外して上から落ちなかったら絶対に見つけられなかっただろうね」
「ちょっと待って、ここそんな経緯で見つけたの?」
「あれ言ってなかったっけ。失言だったかな」
「……怪我がなかったみたいだから何も言わないけど」
蒼月が少し怒ったように頬を膨らませるとティナリは「ごめん、悪かったよ」と謝った。
「ただ……ほら、ちょっと考え事に集中しててうっかり足を滑らせたなんて恥ずかしかったんだ」
「そういえば妙な擦り傷を作って帰ってきたときがあったわね」
「うーん、ちょっとその辺の記憶ははっきりしてないけど多分その日だろうな」
ティナリはランプティを突いて言った。
「セノには内緒にしといて。きっと怒るから」
「私も怒ってるけど」
「気を付けるから許してほしい」
「気を付けてくださいねレンジャー長?」
蒼月が少しからかうように言えばティナリは「参ったな」と言って笑う。
静かな夜に二人の声だけが木霊している。ランプティに満ちたこの秘密基地は植物とランプティだけが知っているようだった。
「そろそろ帰ろうか」
「そうね。明日も早いわ」
「うん。ほら」
ティナリが立ち上がると足元のランプティたちが一斉に明るく光り出す。同じように蒼月の足元でもランプティは鮮やかに輝いている。
ティナリは蒼月に手を差し出すと蒼月はその手を取ってティナリに導かれるままに夜の森を歩き出した。
この森がどこまでも続きますように、と静かに願う。
20221130 サイト掲載
20221212 加筆修正
ティナリ紹介のキーワードが「緑土逍遥」ってすごくいいですよね。