「そういえば」
蒼月はふとそんな風に言葉を始めた。
「セノはバフルシャーって見たことある?」
「……いや、実物はない。論文の挿絵という形では見たことはあるが……」
セノがそう言うと蒼月は少しだけ口を尖らせた。
「セノはいいよね、雷元素。ちょっと羨ましい」
蒼月は普段、神の目を髪飾りのように後頭部につけているが、今はラフな部屋着なためネックレス用に首からぶら下げている。璃月の出自を表す四角い形、中央に光る色は赤。炎の神の目だ。
セノは蒼月がそのように言う理由について一拍考えを置いてから「ああ」と理解した。
「バフルシャーは水元素生物だったな……しかしそれなら蒸発も拡散も効果はあるだろう」
「少なくとも私じゃ決定打は与えられないかな。まぁ復讐をしたいのかって言われるとそれはねぇ、なんとも言えないんだけど。そもそも襲われたってことさえ後からわかったことだし、でもよ。でもなのよ」
蒼月は少し不満そうに自らの神の目を指で転がしている。
バフルシャーとは後述もするがテイワットの海洋に生息する巨大な水元素生物だ。テイワット大陸において元素生物と言えば最も有名なのはスライムだが、普段人が目にしないところに多くの元素生物が存在している。
例えば海馬は文字通り海洋に生息する水元素生物である。伝承の中では下半身は魚だとされているが、稲妻にある天領奉行の海を専門とする部隊では全身が水で出来た形は陸を走る馬そっくりの海馬を戦闘に起用してるという。
フライムはスメールではあまり見かけないがこれも元素生物だ。スライムより厄介な点はふよふよと空に浮かんでいるため弓や長柄武器出なければ撃ち落せない点にある。
これらの元素生物は非常に原始的な体をしている。もっと簡潔に言うならば非常にシンプルなのだが、一つ一つの元素生物が集まって各々が機能を持ち、さらにその機能が専門化し個体となるとこれらは元素生物から特定の元素に関して非常に深い関係を持つ魔物と変貌する。璃月ならばヴィシャップが有名だ。旅人や商人めがけて突撃してくる岩の塊は厄介極まりない。バフルシャーは完全に魔物になるわけでもなくかといってシンプルな元素生物とも言い難い。進化の中で今まさに魔物へと変貌しようとしている元素生物であると言う人もいる。
「一部のクラゲのような存在と同じだね。ええっとなんだったっけな」
「カツオノエボシ?」
「そう、それ。個々の元素生物が異なる役割を持って集合している。完全に独立した個体が群れを成すわけではなく一つの存在が機能を分けていった……それが今のバフルシャーへの一般的な解釈だっけ」
バフルシャーは平たい体を持っており、無数の触手を抱えている。これらの触手は常に周囲の環境を感じ取っている。しかしバフルシャーにはそれら触手の中に攻撃的な毒を持つ触手を持つ点が非常に厄介だ。バフルシャーは普段は海の底で魚などの獲物を触手の毒で弱らせて捕食している。通常は五メートル程度にしか成長しないが、時に巨大に成長したバフルシャーは船や港を襲うことがある。巨大な体で船に乗り上げて触手を使い船上のありとあらゆるものを捕食するのだ。バフルシャーに襲われて生存した事例はほとんど存在しない。
「一番海とよく接する国である稲妻がバフルシャーに襲われないのは雷電将軍の雷をバフルシャーが嫌がるからだって言うよね。スネージナヤではバフルシャーは過去に一度も観測されたことがない。私は気づいたら神の目を持っていたけど雷か氷の神の目がよかったなってたまに思うの」
蒼月はそう言ってつん、と神の目を指でつついた。それから「そしたら守れるものが増えたのになって」と言葉を続けた。
* * *
ティナリのオルモス港での約一週間の滞在も終わろうとしていたある日のことだ。
その日は特に晴れていて、雲一つなく風も柔らかであった。海上を吹き抜けて潮を吹くんだ風が桟橋に座るティナリの顔に吹き付ける。大きな耳が風に揺られてふらふらと傾いた。ティナリとティナリの母は今日も桟橋で入ってくる船を眺めていた。初めは船を構成する木材が気になっていたティナリだったが、母や港で働く人々の話を聞くことで、船の装飾や作られ方も国によって独特なものがあり多くの人は船の装飾などから船籍を知るのだという。
確かに言われてみれば木の色だけでなく船首に取り付けられた飾りや金属も全く違う。母と一緒に装飾について教えてもらいながらその歴史について考えるのは非常に楽しかった。さすがの母も各国の歴史とそれに関わる装飾技術・建築技術については門外漢である。ティナリと一緒に考えながら面白いねぇと話をしていると一隻の船が漁船に牽引されて入港してきた。
ティナリはあの船は璃月のものだと思い母に言おうとしたが、見上げた母の顔色がひどく悪い。気づけば港の雰囲気も今までとは少し違っている。
誰かが「バフルシャーだ」と小さく呟いた。
オルモス港は半ば無法地帯と化している部分もあり、教令院は違法な取引を取り締まるためにマハマトラをオルモス港に配置している。マハマトラが現れると突然港の雰囲気が少し変わり同時に怪しげな商品を扱っている怪しげな人影がするりと消えてしまうのだ。港の活気はそこにあるのに、誰もが言葉の裏に様々な物を隠すような、悪戯と脱走がばれたときのティナリのようなそんな雰囲気になる。
しかし今、港から感じる雰囲気はそれらのものとはまるで違った。誰もが恐れおののき言葉を失い今にも港から逃げ出したいような、そんな恐怖が空気に混じっているようなのだ。
ティナリは牽引されてくる船をじっと観察する。
マストが折れている。左舷に大きな力がかかったようだ。頑丈な木で作られているはずの船はあちこちに亀裂が入り今にも崩壊しそうであった。帆はまるで溶けたかのような不思議な破れ方をしている。ティナリの父が酸を吹く特殊な虫に洋服をぼろぼろにされたときによく似ていた。そしてなにより異様なのは船が船首から船尾までびしょ濡れであることだった。海を航行する船であるので当然濡れることは濡れる。嵐がくれば頭からびっしょりと水を被ったようになることも当然ある。しかしどうもこの船は違うような気がするのだ。船を濡らしているのはただの水というよりもっと粘土の高い特殊な液体であるように見える。ティナリはもう一度母を見ると母もティナリを見る。母は明らかに作り笑いをしている。
「ティナリ、宿に戻りましょう」
「あのおふねは?」
「あれはね、いいの。いいから宿に戻りましょう」
ティナリはどうしても船が気になったが母はあの船をティナリに見せたくないようだった。ティナリの手をぎゅっと握る力が強まったのを感じて、ティナリは「うん」と小さく頷いた。
「壊れるぞ!」
誰かが叫んだ瞬間、バキバキバキ、と大きな音がして船が崩壊した。すでにあちこちに亀裂が入っていた船なので、壊れるのも時間の問題だったのだ。港では誰もがその船の崩壊を見守るだけで誰も動こうとしない。まだ船に誰か残っているかもしれないのに、とその時のティナリは思っていた。当時のティナリはバフルシャーに襲われた船に生存者がいる確率はほとんどないということを知らなかった。
風にかき消されるように、波にもがくように小さな声がティナリの耳に届いたのはその時であった。ティナリは母に手を繋がれたまま崩壊を始めた船を見る。そしてぴたりと足を止める。
いつの間にか耳に塗っていたオイルの効果が切れていたのか、周囲の音が良く聞こえるようになっている。普段であればあまりの音の大きさに頭痛がしてもおかしくはなかったが、誰もがひび割れ壊れゆく船に気をとられしんと静まり返っているためティナリの耳ですらこの空間の静けさに圧倒されていたのだ。
母には今の声は聞こえていないようだった。船が完全に二つに割れた。もう一度、今度ははっきりと「たすけて」と聞こえた。
その声の主がどこにいるのか、音の方向からはっきりとわかる。激しく崩壊する船の中からあの声は聞こえる。多くの人にとっては船の崩壊に耳を奪われているのだろう。きっとティナリ以外の誰もあの声が聞こえていないのだ。
ティナリは突き動かされるように走り出した。オルモス港では絶対に母から手を離してはいけないと言われていたが、それをも忘れて、桟橋から飛び出すとそのまま水の中に飛び込んだのだ。ティナリは犬かきのように手を動かしていたがすぐに尻尾が水を吸い洋服もべったりと張り付いてそのまま沈んでいった。
* * *
「一つ聞くが」
セノはティナリの話の合間にぽつりと口を挟む。
「当時のお前は泳げたのか?」
「いや? 全然」
「それなのに飛び込んだのか?」
「うん。馬鹿だなって思う。あの当時の僕には選択肢が限りなく少なかったのは確かだけど僕が水に飛び込む必要はなかった。でも同時に僕が水に飛び込んでいなかったらユエが助かっていたかはわからない。僕の行動はどう考えても正しくない。だから今の僕があの場にいたらきっと僕自身のことを叱っただろうね」
ティナリは神妙な表情で言う。怒っているわけでも悲しんでいるわけでも喜んでいるわけでも笑い話にしたいわけでもないようだった。ただ当時のことを淡々と語っている。
「僕はあの時オルモス港の桟橋ではちょっとした有名人だったんだ。だからみんなが僕の行動に目を止めた。その結果ユエの存在に気付いた。今の僕が正しいと考える行動をしたとしたらその時にユエは助かっていたのか、僕は今でも迷う。考えなしに行動することはやっぱりよくないと思うけれど、どうしても体が動いてしまうことはきっとあると思うんだ。それをどう判断すべきなのか時々よくわからなくなるよ」
「俺は決してお前が考えなしに水に飛び込んだとは思わないが」
「そう?」
ティナリはそこでこの話題が始まって初めて笑った。
「俺はマハマトラとして研究の結果が価値あるものだからといってその過程で不正を行うことを見逃すわけにはいかない。そこに至る過程も大切なものだ。過程と結果、その両方が正しいものであるようにするために人は学び、考えるのだろうと思う。だが必ずしも全てを知ることはできない。知らなかった故に過ちも起こるだろう。その時に学び考え直す機会を与えることも時には必要だ」
「……なるほどね。マハマトラとあまり関わったことがないからそんなことは知らなかったよ」
「お前も蒼月も、今後もマハマトラと関わることはないだろうからな」
セノは笑った。ひどく優しい笑い方だった。
「研究を禁じるときもあるさ。だが同時に改めて学ぶ時間を用意するときもある。罰を受けた者たちが何を考えているかは……まぁ俺たちに対する悪口を聞けば大体わかるが、マハマトラの仕事はただ全てを禁じて学者や学生を教令院から追い出すことだけではない。ただそう言った仕事の方が目立つから結果としてそう見えるだけだ」
「難しい話ね。それよりティナリが私を見つけたときのことを話してよ。私はその話が一番好き。私は何も覚えてないけど」
蒼月が言うとティナリは小さく息をついてその先を語り始めるのだった。
* * *
ティナリの一族にとって尻尾と耳は重要なアイデンティティである。そのために手入れは欠かさないが、やはり水は苦手になる。ふわふわとした尻尾はしばらくの間は毛の間にある空気によって浮きのような役割を果たしてくれる。しかしオイルなどで水を弾かなければそのうちにすぐ水を吸って今度は重りになってしまう。トップコートが十分に伸び切っていないためにふわふわのアンダーコートがすぐに吸水してしまうのだ。
悲鳴を上げたのはティナリの母である。突然愛する息子が海に飛び込みそのまま沈んでいったのを見て悲鳴を上げない親はいないだろう。母はこの時尻尾にオイルを塗っていなかったため飛び込めばティナリと同じ状況になるのは明らかであった。二次被害を避けることは研究においても重要なことだった。特にティナリの母は化石が発掘される崖といった非常に危険な場所で調査を行うことも多い。同行者に危機が迫った場合、助けられるならば当然助けるが、共倒れになるような判断は慎重に行うべきだ。人命が大切なことは言うまでもない。しかし同時に己もまた誰かに大切にされる人命であることを忘れてはいけないだろう。
ぼこぼこと泡だけを残して沈んでいったティナリに、船に気をとられていた周囲の人々も気付き騒然となる。ここいらの桟橋で少し有名な親子であっただけあり二人の周りにいた人々はティナリとティナリの母のことを知っていた。船乗りがすぐさま走って浮き輪を取り海に投げる。学生が制服を脱ぎ捨てて一息吸い込むとそのままどぼんと飛び込んだ。船を出そうと動き出した漁業者もいたが、それ以上に早かったのがティナリの父であった。
彼は貴重なオークションの場に参加するため尻尾も含め全身に手入れが行き届き、勿論尻尾には撥水効果も含めたオイルを塗り込んであった。ちょうどオークションが終わったタイミングで港の騒ぎに気付き、駆けつけてみるとちょうど息子が海に飛び込む瞬間を目撃したわけである。父はなんとか手に入れた貴重な昆虫標本をぶん投げて全力で走り学生と共に桟橋から海へ飛び込んだ。ティナリの父は母よりも海に詳しかった。というのもウミアメンボのような海面で生活する何種かの昆虫の調査に関わったことがあるからである。海中になると昆虫の生息はほとんどないが、それでも海での活動経験は今まさに生かされようとしていた。
半裸の学生が沈んでいくティナリの洋服を掴むと海面を目指して水を蹴る。オルモス港は大きな船が入港できるほど深い。ティナリはかなり沈んでいたがそれでもまだ海底は見えなかった。続いて飛び込んだティナリの父が学生と共にティナリの耳を掴む。耳は非常に繊細であるが緊急事態である故に父は千切れてでも引き上げるべきと判断した。
オルモス港の海水は大きく混乱している。沈みゆく船は渦を巻き、周囲にあった小さな船が巻き込まれていく。牽引していた漁船も引きずり込まれそうになり、船員たちは全員で海に飛び込み桟橋の人々に引き上げられた。
ティナリの父と飛び込んだ学生とそしてティナリもなんとか海面に出るとすでに沈みゆく船の渦が迫っている。慌てて父と学生も桟橋へ上がろうとしたが、息をついて水を吐いたティナリが父の背をぱんぱんと弱い力で叩くのだ。思わず父がそちらを見たとき、ティナリの頭越しに船の中に真っ赤な何かが動くのが見えた。
「船に誰か乗ってるぞぉ!」
ティナリの父の叫び声が響き渡ると港は騒乱に飲み込まれる。それまで呆然と船が沈んでいくのを見るだけだった、人々にざわめきが広がりやがてそれは怒号となって動き始めた。
危険を承知で学者たちが小さな船を動かしていく。泳ぎが得意なものはそのまま飛び込み、桟橋から投げ込まれたいくつもの浮き輪に腕を通して船に向かった。学者が乗った漁船の操り手は非常に慎重に船を進めてついに船に辿り着くと学者たちが飛びだして、そして血にまみれた子供を引きずり出した。
「沈むぞ! 逃げろ!」
「早く船に乗せろ!」
「医者はいるかぁ!」
ティナリが海に飛び込んだことで始まった騒ぎはあっという間に港中に広まった。川を挟むようにして様々な建物が並ぶオルモス港の橋の上からは子供たちがこの騒動を見守っている。陸にいる学者たちは乱流に逆らう小さな船を助けるため一斉にロープを投げて、そのうちのいくつかが船に届くと陸の者たちが力を合わせて一斉に引っ張った。小船に救助された血まみれの子供はほとんど動かない。足と背中に大きな傷があった。出血が多く早く処置をしなければ死んでしまうだろう。
突如として漁船から救助船になった小船は、沈みゆく船の起こす渦から逃れると学者たちが一斉に駆け寄ってその中で医学の心得がある者が救助に当たる。
騒ぎの中でティナリとティナリの父、そして救助のために飛び込んだ学生も陸に引き上げられていた。
沈む船に乗っていた子供の姿はあっという間に大人たちに囲まれて見えなくなってしまったが、ティナリは人の隙間から一瞬だけ、その子供の真っ赤な髪の毛と青い鳥のような翼を見た。
20220912 サイト掲載
20221212 加筆修正